http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html 【(三)新羅、秦氏、八幡神の信仰の広がり】
▼島津氏が継承した新羅の民俗
島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわたり南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られていない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。
幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行なわれたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。
名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。
三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯社の地である。国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交友した。さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。
その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれた男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。
▼「太子」信仰とは何か
『宇佐託宣集』には八幡神の様々な伝承が収められているが、年齢に関する記述を拾うと「天童」「三歳の小児」「五歳」「七歳」などが見つかる。要するに、八幡神は童神なのである。「聖徳太子」なぞと言うときの「太子」とは何であろう。これは、王の子、王子という意味でふつう理解されているだろう。しかし八幡神の「太子」とは、誰それの子という意味ではなく、子どもであること自体が重要な神格である神を言う。
「太子」とは朝鮮の巫女が降神させるある神霊への呼称であり、その巫女は「太子巫」と呼ばれた。ここにも「母子」のセットが見つかるが、朝鮮の神王は卵から生まれる。だからその卵(アル)は太子なのだが、生まれた太子もアルなら、生んだ卵たる母もアルなのだ。紀記神話の天照大神と天オシホネ命、神功皇后とホムタワケ命も「アル」だと分かる。しかしニッポンではしだいに母神が欠け落ち、太子だけの信仰となる。
思えば、アメノヒボコはなぜ新羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか、ツヌガアラシトはなぜ大加羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか。彼らが童神、すなわち太子(アル)だったからに他ならない。新羅・若者組の「花郎」や薩摩藩・兵児二才の「稚児様」とは、太子だったことも分かる(新羅の「源花」はアルのもう一側面の母神か)。紀記中の神名に登場する「彦」(日子)もアルであり、太子信仰に拠るものである。
聖徳太子にまで線を引いておけば、彼の童子形の画はただの子ども時代の画ではない。わざわざ「童子形」で描かれたものだ。すなわち「太子」とは皇子という意味ではなく、やはり「アル」(童神)の「太子」だったのである。もしそうではないのなら、彼は「聖徳皇子」と呼ばれて然るべきだろう。いまに続く聖徳太子信仰には、八幡神と同根である、はるか朝鮮・新羅のアル信仰が流れ込んでいたのである。
▼鍛冶神としての八幡神
秦氏の仏教や神仏習合、さらに修験道などに進みたいのだが、少し寄り道をさせて頂く。東大寺大仏造立に八幡神が登場するが、これは必然的なものであった。大仏の鋳造には、八幡神の助力が欠かせないものだったからである。聖武天皇が大仏造立を発意されたのは河内国大県郡の知識寺で大仏をご覧になったのが機縁だったが、その知識寺とはこの地に住む秦氏が造立したものだった。豊前からの動員も含めた秦氏の金知識衆(鋳造技術者)なくしては、大仏の完成はとうてい叶わぬものだったのだ。
この河内国大県郡に高尾山(現高安山か。新羅系ニギハヤヒ命の降臨地だとの説もある山)がある。別名鷹尾山、鷹巣山である。そしてそこには高尾社(鐸比古鐸比売社:たくひこ-たくひめ社。実は夫婦ではなく母子神)がある。秦氏の「高尾」である(もう、くだくだしい説明は不要だろう)。高尾社の祭神は鐸石別(ぬてしわけ:鉱石と石を分けるの意)命であるが、これは河内秦氏の鍛冶・鋳造神の名である。香春山はカル(金属)の山であったが、八幡神は鍛冶神でもあった。
放生会では香春山の銅で神鏡を鋳造し、神幸の旅はそこから宇佐・和間浜で終わる。和間浜とは八幡神が鍛冶翁神として顕現した聖地であった(三歳の小児として正体を現す)。ずばりここは宇佐・辛島氏の、もと鍛冶場だ。鍛冶とは、神と交わり、火と風と水と金属を制御する秘術であり、シャーマン(巫覡)の業だった。そしてとりわけ火を制御する鳥が鍛冶シャーマンのシンボルであった。それが秦氏の場合、鷹であった。
神職・禰宜の古体は「祝」である。「ハフリ」と読むが、これまでは罪や穢れを「放る」(ハフル)という意味で解されてきた。しかしこれを鍛冶鳥の「羽振り」と解したらどうだろうか。巫祝のトータルな姿が見えて来る。神の依り代(シャーマン)であり、神の言葉を預託し、神の業である鍛冶や鋳造を司り、神である鳥のしぐさをまねる。鍛冶のふいごをタタラと言うが、紀記中の「タタラ」姫は巫女である。「トトビ」姫も巫女だが、トトビとは「鳥飛び」であり、ここでも鍛冶-巫女-鳥の連鎖が見られる。
▼和気清麻呂と秦氏
前述の、河内秦氏の鍛冶・鋳造神、高尾社のヌテシ「ワケ」命は、実は和気清麻呂の和気氏の始祖でもある。ヌテシワケ命は河内国高尾山に葬られ、そこに高尾社として祭られていたが、後ちに和気氏が備前国に遷座し、氏神和気社を創ったとされる。和気清麻呂とは通称で、本名を「磐梨(いわなし)別公(わけのきみ)」と言う。つまり、イワナシ氏というのが、和気(ワケとは「別」で、石と鉱石を分けること)氏の本姓であり、備前国石生(いわなし:石が金属に成り変わること)郷がその本拠地である。
イワナシ(和気)氏も鍛冶・鋳造に関わる氏族であったが、高尾社の因縁からも分かるように、秦氏と深く結び付いている。清麻呂がなぜ宇佐八幡宮の託宣を確かめに派遣されたのか。また、それで称徳天皇のご勘気を蒙ったが、なぜ大隅に流されたのか。さらに、召還後すぐになぜ豊前国司に任ぜられたのか。いずれも秦氏の縁地であった。清麻呂はその後、山背秦氏の「高尾」山寺(後ちの神護寺)の復興にも関わった。
▼新羅の常世神信仰と太秦・秦河勝
話を次に進める前にもう一つだけ、布石でもある「常世神」にお付き合いを願いたい。書紀644年条にその事件のことが記されている。富士川(駿河国)近くで、大生部多(おほふべ-おほ)という男がカイコに似た虫を、富と長寿の「常世神」として祭ることを始めた。当地の巫女もこれに加担して、ご利益を求める人々で一時は評判になったのだが、すぐに化けの皮がはがれた。見かねた秦河勝が、大生部多を打ち懲らしめた、というものである。
この秦河勝こそ、山背国に太秦(秦氏の長)としてそこに本拠を構え、広隆寺を建て、聖徳太子に仕えた大立者である。富士川あたりは、実は秦氏が多く住む地の一つであった。そして何と「常世連」と名乗った秦氏族もいた。それは河内の赤染氏(香春社の神官家と同族で、常世岐姫社を祭る)である。結局、大生部氏とは秦氏一族、もしくは縁戚関係にあったも者だと思われる。新羅の常世信仰を歪曲して広めようとする大生部多と巫女に、一族の太秦たる秦河勝が掣肘(せいちゅう)を加えたのである。
事件は書紀中に一エピソードのように語られているが、これはニッポン宗教に大いに関わる、新羅の民俗宗教の一突出譚であった。養蚕は秦氏が持ち込んだ一大所産であるが、実に香春郡の「桑」原、大隅の「桑」原郡などの命名は、秦氏自身にとってのその大きさを示している。カイコは幼虫・繭・蛾と三度変態する。すなわち、死と再生のシンボルで、新羅の常世信仰を象徴するものだったのである。この常世信仰が仏教と習合し、弥勒信仰となる。
(四)秦氏の仏教・神仏習合・修験道
▼新羅の「神仏習合」と秦氏の「私宅仏教」
新羅には、海から漂着したアル(卵)の母子神信仰があった。これに山上降臨型の神信仰が習合したのが、太子と巫女(依り代)のシャーマニズム信仰である。太子信仰はいつか、死と再生の常世信仰を含んだ道教系山岳アニミズム信仰とも習合していく。山岳遊行する者は、神もしくは神の依り代と見なされ、それが伝説の「花郎」や「源花」となる。これらは鍛冶のための鉱脈探しなどの中で、山中や洞窟において互いに出会い、結び付いていったものだろう。さらにそれらは仏教、特に弥勒菩薩信仰とも習合し、太子=花郎(山岳修行者)=弥勒という変換式がやがて成立する。
仏教は、新羅に高句麗から五世紀前半に民衆ベースで流入している。それは「私伝」であり、寺ではなく各家で礼拝された「私宅仏教」である。「公伝」の方は六世紀前半のことであった。こちらは仏のための施設=寺が用意された「伽藍仏教」である。わがニッポンにもこのように仏教は入ってきたのだろう。事実、秦氏は「公伝」前に、半島で複雑に習合した「私宅仏教」を豊前に持ち込んでいた。
五世紀末に雄略天皇の許に医者として呼ばれた「豊国奇巫」は、587年に用明天皇の病床に呼ばれた「豊国法師」につながっている(呼んだのは蘇我馬子で、この年、神仏闘争が起きて、物部氏が滅ぶ)。前者の「奇巫」という呼称は中央政権が仏教を認識する以前だったからそう呼んだにすぎないだろう。後者の「法師」とは僧集団が豊前に居て、その中から「法医」として優れた者がわざわざ召し出されたと解すべきだろう。それに対して、当時、都の飛鳥にいた法師は高句麗僧・恵便ただ一人であった。
伽藍仏教が盛んになるのは、神仏闘争決着後、聖徳太子の「三宝興隆の詔」以降のことである。秦王国でも、それまでは「私宅仏教」のスタイルで崇仏が行なわれていた。それは家に「窟室」というものを設け、そこに仏像や経典を祭るものであった。「窟」とは洞窟や石屋などのことである。山岳の窟が家の中に擬して取り込まれていたのだ。
▼法医・弥勒・花郎としての法蓮
飛鳥の法興寺を嚆矢に、日本に伽藍が建ち始める。豊前では白鳳時代を中心に、いずれも新羅様式の虚空蔵寺、天台寺、垂水廃寺、椿市村廃寺、豊前国分寺などの建立ラッシュとなる(他に百済様式の寺もある)。この頃、前述の「法医」の系譜につながる豊前僧に法蓮という者がいた(『続日本紀』703年および721年の文武紀条)。法蓮は、辛島・宇佐氏の虚空蔵(こくうぞう)寺の座主、次いで宇佐八幡宮神宮寺・弥勒寺(725年創建)の初代別当となった僧である。
彼は香春山中で修行したというが、そこには医術で、例えば「龍骨」という薬となる石灰岩があった。文武天皇に名医として褒賞された法蓮には、道教の練丹術につながるような石薬術があった。これが豊前の「巫医」や「法医」たちの秘密の一つであろう。また『宇佐託宣集』は、英彦山の窟で修行した法蓮を弥勒の化身と書いている。弥勒寺は正しくは「弥勒禅寺」と言い、その「禅」とは山中修行を指している。山中の弥勒とは花郎でもある。
窟とは岩穴であるが、そういった所を聖所とするのは後ちの修験道を強く思わせるだろう。この窟信仰は新羅の民俗である。窟は「穴」とも縁が深い。大和の穴師兵主(あなしひょうず)社は新羅の王子アメノヒボコを祭り、かつては穴師山(弓月嶽・巻向山)にあった。ここは秦氏始祖とされる弓月君に関わる地である。アメノヒボコは書紀によれば、近江国吾名(あな:阿那)邑にしばらく住んだ。ここは新羅系息長氏の本拠地である。
▼秦氏のもう一つの聖山・英彦山
781年頃、朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩」の号を奉り、さらに783年に「大自在王菩薩」を追号している。これで、名実ともに「八幡大菩薩」となったわけだ。この「菩薩」とは何か。神宮寺が弥勒寺であるように、弥勒菩薩である。そして、秦王国にはもう一つの聖山があった。豊前・豊後・筑前に広がる英彦山(彦山。もと「日子」山)である。ここには英彦山社があり、香春と同じオシホネ命が祭られている。
英彦山は、後ちに役小角が開山とされるが、九州随一の山岳道場、修験道の霊場である。『熊野権現御垂迹縁起』(以下『熊野縁起』)は、熊野権現は唐の天台山から飛来し、まず英彦山に天下り、そこから伊予・石鎚山、淡路の遊鶴羽岳、紀伊・切部山、そして熊野新宮の神蔵山を経て、ついに本宮に顕現したという。本邦における山岳宗教・修験道の系譜は英彦山に始まっている。
『彦山流記』によれば、英彦山の鷹栖の窟に鷹が来て住み、この鷹が英彦山の神の化身となったとある。またしても秦氏の「鷹」である。『彦山流記』(1213年成立)は、震旦国の王子晋(弥勒の化身)が英彦山の磐窟の上に天下り、四十九窟を開き、そこに天童(金剛童子)を置いたとする。今度は「天童」(太子)である。次に『彦山縁起』は北魏僧・善正が開山と記す。先の『熊野縁起』には、熊野権現は北魏渡来とも書かれている。これらは、南朝-百済ルートではなく、北朝-高句麗-新羅ルートを示唆する。
▼役小角の新羅修行
役小角は本邦修験道の祖とされるが、奇妙な伝承がある。『日本霊異記』だが、道昭(百済系渡来人で、唐から帰国後、元興寺にいた高僧。日本法相宗の祖)が、唐で三蔵法師・玄奘に法相を学んでの帰国途上、わざわざ「新羅」に立ち寄り、そこの山中で修行中の役小角に出会ったというのである。なぜ「新羅」に役小角が居らねばならなかったのか。修験道の新羅出自を暗示するものである。
そう言えば、役小角の弟子には「韓国」連広足という渡来人もいた。大峯山南峰には「朝鮮が嶽」と名付けられている山もある。実際、新羅の花郎は道教仙人のように山川遊娯し、山岳の窟や岩石に信仰を持つ修験者そのものである。彼らは洞窟に籠もり修行したが、そこは「弥勒堂」と呼ばれた。花郎とは童子(熊野権現にも童神が多くいる)であり、弥勒である。それは神・仏・道教の習合宗教であり、法蓮も典型的な習合僧であった。「役小角」という伝説の人格とはこのようなものであった。
▼弥勒信仰と聖徳太子
書紀603年条に、太秦の秦河勝が、新羅使から贈られ聖徳太子が所有していた弥勒半跏思惟像を賜り、広隆寺(蜂岡寺)を創建したとある。新羅-聖徳太子-秦氏が弥勒像・弥勒信仰によって結び付けられている。弥勒信仰には、弥勒菩薩が棲む兜率天(とそつてん)内院(注)に往生する上生と、五十六億七千万年後に人間世界に下生する弥勒と出会う下生の信仰がある。
(注)内院には四十九院ある。言うまでもなく、英彦山四十九窟に投影している。また、東大寺二月堂のお水取りは、笠置山の龍穴の奥から参入した兜率天内院での法要を模したものと言うが、山中の穴や兜率天内院など、ここにも新羅の菩薩信仰の影が濃厚である。
上生した者も弥勒とともに下生する。つまり、弥勒信仰とは死と再生の常世信仰である。しかも、上生往生には、出家・仏道修行の僧でなくとも、在家・煩悩のままで叶うという。私宅仏教向きである。筆者なぞは、ここで親鸞を思い起こさずにはいられない。弥勒菩薩が阿弥陀如来とはなっているが、上生・下生とは親鸞の往相回向・還相回向に他ならない。
弥勒は下生し修行するが、これが洞窟に籠もる花郎や童子である。下生した弥勒を写したのが、弥勒半跏思惟像とされる。弥勒は第二のシャカであり、それは出家前(在家)のシャカ、シッダールタ王子(悉達「太子」)像である。聖徳太子は、夢殿という「窟」に籠もった。聖徳太子信仰を支えた「聖徳太子伝建立七寺」(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。
▼豊前と加賀の白山信仰
英彦山を始め豊前の修験の山々には、必ず白山神が祭られている。これはどうしたことか。白山信仰は元来、満州のツングースのもので、そこには「白山部」という部族もあった。白(パク)信仰である。花郎が聖山として登る、朝鮮の金剛山の頂は「白峯」で、そこは死と再生が行なわれる常世・冥界との出入口だった。神仏習合で「白山権現」と呼ばれる豊前の「白山・小白山」信仰は、古朝鮮の始祖・檀君の降臨神話につながる中国や朝鮮の「太白山・小白山」信仰である。
富士山・立山とともに「日本三霊山」とされる加賀白山でも同じで、「白山・小白山」信仰である。これは日本海を介した山岳修験信仰であることに注意したい。加賀白山の開山は秦澄(たいちょう)であるが、姓字のとおり彼も「秦氏」なのだ。その父は越前国の渡し守で、そこの敦賀港にはもちろん秦氏が居住してした。『元亨釈書』にはご丁寧にも、秦澄の母は「白玉」が体に入る夢を見て、身籠もったとある。彼の出自を明示する、朝鮮の卵生神話である。
実は、加賀と豊前の白山信仰に一つだけ違いがある。豊前には白山に付随してある天童信仰が、加賀にはないのである。朝鮮に最も近い対馬の白山には、天童信仰が付随している。繰り返しになるが、英彦山の「ヒコ」は「彦」であり「日子」である。つまり英彦山とは「アル山」なのである。一方、加賀・白山姫社は白山姫を祭るが、これは「アル」のもう片方の母神に他ならない。
なお、白山は原型では、聖なる金属の山、すなわち鉱山でもある。鉱山神や鍛冶神が棲む山である。豊前ではそれは英彦山ではなく、香春岳ではあるが。秦氏の故地・加羅や新羅は鉄の産地であった。例えば、青森・秋田両県にまたがる白神山地は鉱物が豊かな地である。そして白山はアジール(世俗法が無効になる宗教聖地)であった。空海が寺院建立の適地を求めて、高野山周辺を巡った意味は秘教的だ。傍らには水銀豊かな丹生川が流れる。鉱物は金属や薬となる、神仏との回路を開く物質であった。密教の護摩も何だか鍛冶に似ている。
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