http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html 【宇佐八幡神は新羅の神だった】 より
▼宇佐八幡神は新羅の神だった
八幡神は、いささか奇妙なところがあるが、間違いなく偉大な神である。「八幡大菩薩」と神仏習合名で呼ばれ、古代国家の大事にははるか九州宇佐の地から飛来した。朝廷からは伊勢神宮に次ぐ尊崇を受けた最高の国家鎮護神であり、その一方では武士政権の最大の守護軍神にもなっている。現在も、全国に約二万四千という日本第二の分社を数える人気神である(第一位は約三万五千の稲荷社)。
ところが、この八幡神はもとはれっきとした新羅からの外来神だったのである。別稿(日本人および日本の誕生)で述べたが、鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じた節がある。ならば、守護神を八幡神とするのも至極当然である。源氏の「白旗」とは実は八幡の「素幡」(しろはた)だったということになる。そう言えば、「八幡」太郎義家と名乗った者もいる。また、明治維新の元勲・西郷隆盛が育った薩摩藩では、幼少からの藩士教育が盛んだったことが有名であるが、その作法が八幡神経由の新羅由来のものだったとしたら、どうだろう。
▼中国人が住むという「秦(はた)王国」
『隋書』倭人伝である。608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。裴世清は、筑紫から瀬戸内海に入ったとき、中国人が住むという「秦王国」の存在を知らされる。「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前の地(現在は福岡・大分両県に二分される)のことであった。秦氏は、秦の始皇帝の流れを汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来した、と自称していたのだ。
さて、この秦氏というのが、ものすごい。論者がそれぞれに主張することを合わせれば、半島の文明文化のすべてを運んだと言ってもいいくらいだ。例えば、畑作とは実は「秦作」であり、秦氏が畑作を広めたという主張がある。また、鍛冶や鋳造技術に優れ、養蚕や機(ハタ)織りに長けていたと言う。後述するが、仏教や道教の普及者でもあり、日本最多の社数を誇る「神社」稲荷ももとは秦氏の信仰である。
確かに秦氏は相当の多数で渡来し、豊前に留まらず山背国南部(太秦:うずまさ)など日本全国に拡がり、様々な活躍をしたことは間違いない。しかし、ここでは秦氏の神・八幡神の変貌を中心に記述し、彼らの信仰がいかにニッポン人の信仰へと流れ込んでいったのかを考えるための「補助線」を何本か引いてみるばかりである。
▼八幡(やはた)とは神の依り代であるハタのこと
神名「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が古名である。「八」は多さを表し、「幡」は後ちの「旗」である。旗とは単なる目印ではなく、神の依り代(:ヒレ)であり、そのはためく様子は神が示現する姿そのものであり、鳥に化身した神が飛ぶ様子でもある(神使としての鳥、神の乗り物としての鳥が、より古形である)。八幡とは文字通り、多数の幡を立てて祭る神なのである。
「宇佐八幡」とは、八幡神の「分神」後の呼称で、当初は単に「八幡」(やはた)であった。現宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、それに宗像の三姫神である。「もちろん」これは、虚偽であり剽窃(ひょうせつ)である。延喜式(905~927年撰述)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯(たらし)姫神、姫神の三神とある。最後の姫神とは宇佐地方・御許山の神である。そして大帯姫神が息長(おきがな)帯姫、つまり神功皇后に擬せられ、その結果として八幡大神は神功皇后の御子・応神天皇とされる。
秦氏の神山は、南豊前(いまの大分県北部)に属する宇佐地方にはなく、その北西、筑紫に近い北豊前(現福岡県南東部)にある香春岳(福岡県田川郡)である。香春は「かはる」と読むが、もとは「カル」である。カルとは金属、特に銅のことである。飛鳥の天香具山の「カグ」も「カル」のことであり、ここの銅から鏡(カガミ)や矛を作ったのである。香春には古い採銅所があり、ここの銅から八幡宮の神鏡が作られており、そこには元宮八幡宮がある。
▼元宮八幡宮と、秦氏の新宮・香春社
ところが、元宮八幡宮の「新宮」が宇佐八幡宮ではない。秦氏の新宮は香春社である(709年造営)。その神々は、延喜式によれば、忍骨命、辛国息長大姫大目命、豊姫命である。しかしここには、藤原不比等主導の新神祇政策に従う潤色がすでに混じっていた。新宮への遷座も、中央の指示による太宰府の命によるものだった。新羅の神のニッポン化への第一歩だ。
忍骨命(オシホネ-ノ-ミコト)とは、偉大なる母神・天照大神の御子神(みこがみ)である天忍穂根命(アメ-ノ-オシホネ-ノ-ミコト)から「天」の一字を除いただけの神名に見える。しかし屈折がある。「オシホネ」は「大-シホ-根」である(接尾の「根」は天皇和名にしばしば登場する美称)。つまり中核は「シホ」で、これは古代朝鮮語の原語「ソホ」よりの転訛、そしてその神名はニッポン神・天オシホネ命への付会(こじつけ)と思われる。ソホとは「ソフル」(聖地の意:大韓民国の首都名もこれ)の「ソフ」と同じで、神の降臨する聖地を意味する。オシホネ命は、本当は新羅の「御子神」である。
次に、辛国息長大姫大目命(カラクニ-オキナガ-オオヒメ-オオメ-ノ-ミコト)である。「辛国」とはズバリ、新羅治下に入った「加羅国」に相違ない。「息長大姫」は息長帯姫(神功皇后)を強く示唆している。神功皇后は古事記によれば、新羅の「王子」アメノヒボコの後裔である。紀記伝承でアメノヒボコが立ち寄った地には、必ずと言ってよいほど息長氏の跡が残っている。「大目」とは、「秦王国」に六世紀末に実在した巫女のオトメやオフメから採ったものと思われる。結局、朝鮮と日本の和合名である。
豊姫命は紀記神話の豊玉姫に比せられたりもするが、この女神こそが秦氏の主神の一つである。その名は地名「豊」を付けた程度の意味で、要は母神である。実は、秦氏の八幡信仰は母子神信仰である。そしてその御子神は「太子」と呼ばれる。ニッポン人なら「太子」と聞けば、聖徳太子を思い起こすだろう。そう、八幡神信仰には聖徳太子から、何と最澄や空海にまでつながっていたのである。
▼秦氏は新羅系加羅人だった
秦氏の渡来は五世紀後半以降、数度にわたりあったとされている。秦氏は新羅系加羅人と思われる。六世紀半ばに加羅は新羅に吸収されるが、その前から加羅には新羅人が多く住んでいた。秦氏もそういう一族である。「辛国」のカラとは、秦氏の故地である「加羅」を指している。
香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏である。どちらも秦氏一族である。後者の「鶴賀」は「敦賀」と同音であり、その「ツルガ」とは書紀にある「オホカラの王子ツヌガアラシト」の上陸地(福井県・ケヒの浦)にちなむものである。その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意である(「アル」=「卵」とも考えられるが。後述)。秦氏も多く居住した敦賀には気比(けひ)社がある。八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この気比の神(イザサワケ)と名を交換し合ったという、紀記に載る意味深長な伝承もある。
香春社の主祭神・オシホネ命の「シホ」についてはすでに述べたが、1313年成立の『八幡宮宇佐御託宣集』(以下『宇佐託宣集』)によれば「八幡神は天童の姿で日本の辛国の城(き:峯、山)に降臨し、そこは神武天皇再臨の蘇於峯(そほだけ)である」とある。「辛国の城」とは、秦氏の神山であった豊前・香春岳に他ならない。「ソホ」ついては前述の通りだが、新羅の始祖王カクコセは「ソフル」の聖林(ソフル)に、加羅の初代王シュロは「ソフル」である亀旨(くじ)峯に降臨した。
上は香春の神が新羅・加羅より渡来したことを語るために述べたのだが、せっかく神武天皇まで登場したので紀記の降臨神話にも少々触れよう。それは明らかに朝鮮神話の影響を強く受けたものである。書紀は、天オシホネ命の子・ニニギ命が降臨した山を「日向の襲(そ)の高千穂の添(そほり)山峯」と本文で記し、他の一書として「日向の高千穂の樓触(くしふる)峯」と記している。また、古事記は「日向の高千穂のクジフルタケ」としている。
もう一言だけ。朝鮮の降臨神話では王は卵から生まれる(加羅神話の亀旨とは卵生の亀を示唆している)。実はこれが聖山より重要なのである。その卵は箱舟に乗って海から漂着したというのが、南朝鮮も含めた「倭族」神話の古形である。日本の場合は、少なくともニニギ命の場面では聖山への降臨に重点がある。ただし、命が包まれていたという「真床追衾」(まとこおうふすま)には、卵の王たちを温めた布の温かみがかすかに残っている。
▼宇佐での八幡神祭祀は辛島氏のもの
秦氏は香春地域から、南方の宇佐地方へも広がっていた。八幡宮で創始されたという放生会(仏教法会)は、その神仏習合ぶりをよく示すが、この祭事の巡幸路が「秦王国」の領域であった。それは、香春岳の銅で作られた神鏡を、元宮八幡宮から宇佐八幡宮を少し通り越した和間浜まで十五日間かけて、豊前各地を経巡る神幸であった。まさしく「八幡」が立てられての、にぎやかな朝鮮風巡幸であったと思われる。「秦王国」の両端に二つの八幡宮が置かれたのだ。
宇佐の地での香春八幡神祭祀は秦氏一族の辛島氏に担われた。『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(844年)によると、宇佐八幡神は「宇佐郡辛国宇豆高島」に天下ったとされる。これは香春とのつながりこそ失われているが、辛島氏の香春八幡神祭祀を証明している。「辛国」とは「日本の加羅国=秦王国」であり、ここでは辛島氏の本拠・宇佐郡辛島郷のことである。「宇豆高島」の宇豆(うず)とは「貴・珍・太」などの美称で、高島は「辛国の城(き)」と同じで峯や山のことである。
つまり、辛島氏の神山に天下ったと書かれてあるのである。辛島氏の神山とは、本来は香春岳以外にはない。あえて、宇佐における辛島氏の神山を探せば「稲積山」である。実は「辛島」とは「辛国(宇豆)高島」をつづめた称である。ちなみに、山背の「太秦」(うずまさ)の「うず」とは「宇豆」であり、「まさ」は「勝」で「すぐり」(朝鮮の「村長」)の意である。だから太秦とは、秦氏一族の勝(すぐり)の統領(が住んだ地)を表している。
辛島郷には、辛島氏が祭祀した鷹居社や鷹栖山の山号をもつ寺があった。この「鷹」とは、実は香春の八幡神である。香春社のある香春岳は別名「鷹栖山」であり、田川郡とは「鷹羽(たかは)郡」を読み替えたものである。平安初期(814年)の「太政官符」に、六世紀末、八幡神が鷹に成り化して人を殺したので、辛島氏の神女(これが先の「オトメ」)がこれを鎮め、鷹居社として祭ったとある。おそらく、これが香春八幡神の最初の「分社」(宇佐地方での八幡神祭祀開始)である。
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