藤原の仲麻呂と光明皇太后

http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/nara7.htm  【七章 藤原の仲麻呂と光明皇太后】より

聖武上皇の亡きあと、政治をとるのは光明皇太后と、娘の孝謙天皇である。

その中で藤原不比等の孫の藤原仲麻呂が力を強めてきた。そして仲麻呂をたおす計画もでてきた。

1 聖武上皇の遺言は二つ! 

 悲しみにうちひしがれている光明皇太后の心に、うそはなかった。けれども光明皇太后は、そんな悲しみにだけひたってはいられなかった。聖武天皇がこの世を去るとき、皇太后をとおして高官たちに残していったことばは、「私が亡くなったあとは、光明皇太后によく仕え、助けていくように」というものであった。あくまでも皇太后にのちの政治をまかしたことばであったはずだった。だが、何というひにくなことに、それは、上皇の本心ではなかったようなのだ。上皇は光明皇太后をとおさずに、別の遺言で、つぎのような全く別の言葉を残していたのだ。

「皇太子には、ひいおじいさんの天武天皇の孫、道祖(ふなど)王をたてるように」

道祖王は、亡くなった新田部(にいたべ)親王の子である。藤原氏とも橘氏とも、血のつながりのない親王だった。年齢も、三十九才になった孝謙女帝とあまりかわらない。光明皇太后はおどろいた。しかも聖武上皇は、この遺言をこともあろうに、右大臣藤原豊成 * の手に渡していたのだ。

 * 藤原豊成 武智麻呂の子で仲麻呂の兄。一族が伝染病でつぎつぎに死んだので、藤原氏を代表する地位にのぼったが、さまざまな事件にまきこまれ、うきしずみがはげしかった。

 豊成(とよなり)は藤原氏ではあるが、弟の仲麻呂とは対立していた男である。この遺言は、光明皇太后・藤原仲麻呂らによって、政治のつんぼさじきにおかれていた聖武上皇の、いわば最後のせいいっぱいの抵抗だったのだ。

 孝謙女帝のあとをだれにするか。

それは、聖武上皇の病気がひどく重くなったころからの、上皇の大きな気がかりだったのだ。むろんのこと、橘氏と藤原氏の対立の重要点もそこにあったのだが……。

 橘諸兄の子奈良麻呂は、「亡くなった長屋(ながや)王の子の黄文(きぶん)王を皇太子にすべきだ」と、主張する。

 一方、藤原氏のなかで、もっとも勢力をはっていた藤原仲麻呂は、別の人を推薦する。

 「いやとんでもない。皇太子には舎人(とねり)親王の子で、天武天皇の孫にあたる大炊(おおい)王こそ、第一候補者ですぞ」

 それぞれに天皇家の血すじの人物をたててゆずらない。

大炊王は、かって仲麻呂の亡くなった息子真従(まより)の妻だった栗田諸姉(くりたのもろね)という人を妻にもらいうけて、仲麻呂の屋敷に住んでいる。仲麻呂の義理の子といってもよく、仲麻呂が自由にあやつるにはもってこいの人である。

「ウフフフ、うまくいきそうだわい」仲麻呂は、ひそかにほほえんだ。光明皇太后 * も、どうしてよいかわからずに迷っている。そこにつけいって、仲麻呂は腕をふるうことができるからだ。

 * 皇太后 おおきさき、おおみおや、国母(こくも)ともいう。本来は皇后で天皇の生母となった人をいうが、皇后でなかった場合でも皇太后とよばれた。

2 追払われた皇太子

光明皇太后は、聖武上皇のことをひたすらに信じ、愛しかばってきた。それなのに上皇は、皇太后には秘密にしていて、このような遺言を人に手渡していたとは……。

光明皇太后は、夫が亡くなって泣いてくらしていたのに、この事件ですっかり涙がきえて、

「そうでしたの、そんなあなただったのですか、わかりましたわ。それならそれで、私は私のやりかたでやりますから……」と、人しれずつぶやいた。亡くなった夫、上皇にいどみたい気持ちだった。

「皇太后はきっと上皇の遺言どおりにはしないぞ。シメシメ」仲麻呂はちゃんと光明皇太后の心のうちをよみとって、ニタニタ笑っていたのだ。それに仲麻呂は孝謙女帝 * とは幼なじみで、しかも恋人でもあった。

 * 女帝 これまで推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正と5人の女帝がいた。孝謙(称徳)女帝は6人めにあたり、即位したのは32才のときであった。以後は、江戸時代の明正女帝だけである。あの大仏開眼の式がおわった日は、女帝は宮殿には帰らなかった。

そして、仲麻呂と仲むつまじく肩をならべて、仲麻呂の屋敷にいき、しばらくそこにとどまっていたのだ。

天皇をおもいどおりにうごかすことを夢みる仲麻呂

それが、奈良の都の人たちの間で、うわさの種になったこともあるくらいだった。だから孝謙女帝は、仲麻呂のいいなりになるだろう。そして女帝の母の光明皇太后も、いまは何といっても、仲麻呂がただ一人の相談相手ではないか。

「道祖(ふなど)王を追い出しましょう」悩んだすえに、光明皇太后はきっぱりといった。

「どんな理由をつけて追い出しましょうか?」仲麻呂は、喜びにはずむ心をおさえて、わざとむっつりという。

「そうね、何としようかしら? いいわ、仲麻呂にまかせます。あなたの考えるままにしなさい」頭のよい藤原仲麻呂は、ただちに理由を考えだして、それを発表した。

「皇太子道祖(ふなど)王 * は、上皇の喪中にありながら、つつしみをかいた行いをしている。

 * 道祖王 天武天皇の孫にあたる。橘奈良麻呂とくんで、藤原仲麻呂をおさえようとしたが失敗し、捕えられて殺された。政治のうえでの犠牲者であったとおもわれる。政治の機密をもらすことのあるのも、皇太子としては不適格である」

その年があけて七五七年三月、仲麻呂のでっちあげたこのような理由によって、道祖(ふなど)王は皇太子の地位から追われた。

3 仲麻呂があやつる皇太子 

聖武上皇が亡くなった翌年の七五七年、それまで朝廷で力をふるっていた橘諸兄が亡くなった。ここで、藤原仲麻呂が政治の中心にたつことになった。

「ウフフフ、いよいよ私の天下だ」藤原仲麻呂はおもしろくてたまらない。そこで孝謙女帝にこんな話をもちかけてみる。

「女帝、道祖王のかわりに、大炊王を皇太子にたてられてはいかがでしょう」孝謙女帝は、母の光明皇太后に相談する。「大炊王は道祖王のいとこ。ねえ、お母さまいかがでしょう」

「よろしいのではないかしら? 仲麻呂、おまえは私にとって甥にあたります。これからの政治はおまえが何よりの頼りです」

「ありかたいお言葉です」

大炊王は、仲麻呂の屋敷に住んでいた人で、仲麻呂のいいなりになる人だ。ことはうまくはこびそうだった。

仲麻呂は、ここで柤父藤原不比等がつくった律令とよばれる法律をうまく利用することをおもいついた。

七五七年に、すでに七一八年(養老二年)に、不比等が中心になってつくった養老律令 * を、大宝律令にかわって実行にうつしたのだ。

 * 養老律令 藤原不比等らが大宝律令をあらためてつくった法律。内容は701年につくられた大宝律令とくらべても大きなちがいはない。不比等は、これまでの大宝律令にてなおしをして、養老律令をつくっていた。

 これはずっと、実施されないままになっていたのを、仲麻呂は三十九年ぶりに実施させることにしたのである。ここで偉大だった不比等の名をたすことによって、その孫である仲麻呂の名もたかめようとしたのだった。仲麻呂にとって、皇太后も、女帝もおもいどおりになる人だった。あとはこうるさい貴族たちをどのようにして味方につけるかを、考えなければならない。皇太子問題について、天皇が意見をきくというかたちで、貴族たちに言いたいだけのことを言わせてみよう。そうすれば、心のなかがはっきりわかる。

 集った貴族たちは、てんでに自分のおす皇太子候補の名をあげた。

「道祖王の兄塩焼王がいいです」といっだのは藤原豊成と、藤原永手 * である。

 * 藤原永手 藤原房前の子。藤原仲麻呂、ついで道鏡が権力をにぎったときのいずれも出世した。のち、道鏡をしりぞけて光仁天皇を即位させることに力をつくした。

 「舎人親王の皇子池田王です」といったのは大伴古麻呂。

 「黄文王こそ、つぎの天皇になるべき人です」とがんばるのは橘奈良麻呂だった。

 しかし、あくまでも慎重にことをはこぶことを心がけた仲麻呂は、自分からは最後まで候補者の名をあげず、「臣一人を一番よくしっているのは君主、子を一番よくしっているのは父といいます。天皇のお選びになる方が、何といっても一番適格な方でしょう。私は天皇のご意見にしたがうつもりです」と、うまくにげた。

 光明皇太后・孝謙女帝・藤原仲麻呂の三人が集って、あらかじめつくりあげた筋書きどおりだった。「仲麻呂はなかなかよいことをいいました。では、皇太子は、私が選ぶことにしましょう」孝謙女帝はにこやかにいい、ほかの貴族たちのあげた候補者にかたっぱしから難くせをつけてから、「舎人親王の皇子、大炊王を皇太子とします」と、宣言した。

「仲麻呂め、はかりおった」と、人々が気がついたときはもうおそかった。文句をいわさぬはやさで、四月には大炊(おおい)王が皇太子にたてられた。

4 ぬかりない藤原仲麻呂 

 光明皇太后や、孝謙女帝の同意があったとはいえ、藤原仲麻呂は聖武上皇のたてた皇太子を退け、自分が自由にできる人物にかえたのである。

 この大胆なやりかたには、藤原氏を目のかたきにする橘奈良麻呂(諸兄の子)でなくても、いきどおりを感じる貴族たちも多かった。しかし、ぬけめのない仲麻呂は、ちゃんとそれをみこしていた。仲麻呂は、各地の兵士、防人たちがおさめなければならない租 * (そ=田にかかる税)をゼロにしたのだ。

 * 租 田(口分田)でとれたイネのうち、約3パーセントを国家におさめる税。税金のわりあいとしてはそれほど重くないが、税はこのほかにもあった(図解コーナー参照)。

自分がどのように人々のためを思っている政治家であるか、何かことがおこったときには、人々が自分の味方になってくれるようにという人気とりだった。

仲麻呂は、紫微(しび)内相という新しい役についた。この地位は、大臣とほぼ同じで、兵 * や軍事のことを扱うのが、役目だった。

 * 兵 この頃の兵士は食料や武器、その他の用具を自分で用意しなければならなかった。まずしい農民にとっては、大きな負担であった。宮廷や都を守る近衛軍、地方の国々の軍団、防人たち、つまり国じゅうの全兵力をにぎる最高の武官である。

「これでよし。藤原氏の名はいっそうたかまるというわけだ。しめしめ」仲麻呂は、得意満面だ。

5 仲麻呂を討つ相談 

その頃、橘諸兄(たちばなのもろえ)の子、奈良麻呂の屋敷では、大伴古麻呂(こまろ)もまじえて相談が行われていた。

「私の父諸兄の死後、仲麻呂のやつ、天皇にとりいってのさばってきた」「このままでは、仲麻呂一族の朝廷になってしまいますな」「ぜひとも、政治のたてなおしが必要です」「よし。何としても仲麻呂をたおそう」「すぐにも兵と武器の準備だ」

その数日あと、大伴古麻呂が、同じ一族の大伴家持 * (やかもち)をたずねた。

 * 大伴家持 大伴旅人の子。父の死後、おとろえつつあった大伴氏の代表者であったため、さまざまな困難にであった。 歌にすぐれ、『万葉集』をつくるのに力をつくした。

「今度の計画には、わが大伴一族のほとんどがくわわっています」「大伴氏を代表するあなたにも、ぜひくわわっていただきたいのです」

 家持は考えこんだ。「あの壬申(じんしん)の乱(六七二年におこった戦い)をはじめとして、わが大伴氏はつねに朝廷の軍事を扱ってきた」

 「だからいまこそ、その力が必要なのです」

 「いや……。ここで軽々しい行いをしてはまずい。失敗すれば、わが一門はほろんでしまうぞ」

 「ではだまってみているつもりですか!」

 「はやまってほしくないのだ」

 「この計画はぜったいに外にもらさないよう……」

 「うむ。よくわかっておる」

怖れを感じた家持は、そう返事をしておきながら、ただちに藤原仲麻呂の屋敷にいき、古麻呂との密談のいっさいをしゃべった。

 仲麻呂はおどろいた。

 「なに! そのようなはかりごとがあるのか!」

 「はい。私もさそわれましたので、はやくお知らせしようとおもいまして……」

仲麻呂は、大伴家持のひそかな報告によって、反対派のうごきが、ようやく活発になってきたことをしった。

6 橘奈良麻呂の決意

 また、血なまぐさい戦乱がおこりそうな気配になった。藤原仲麻呂を中心とする政府は、これをおさえるため、一族が集会をひらくことや、都のうちで兵器をもちあるくこと、集団で馬をのりまわすこと、などを禁止した。

 一方、橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂と戦うための軍をおこすため、仲間集めに懸命だった。そのための会合をひらき、六月末のあるたそがれどき、太政官 * の役所の庭で三度めの会合をひらいた。

* 太政官 律令制の最高行政機関。古代では8省の役所をまとめ、太政大臣や左大臣・右大臣、大納言などからなっていた。 いまでいえば、内閣のようなものにあたる。

 夕闇にまぎれるようにして集ってきたのは、大伴古麻呂(こまろ)・多治比犢養(たじひのこうしかい)・大伴池主(いけぬし)・小野東人(あずまびと)ら、あわせて二〇人あまりだ。 すこしおくれて、黄文(きぶみ)王、その弟の安宿(あすかべ)王が姿をみせた。

 一同は、奈良麻呂の号令で、姿勢をただして神に祈り、塩汁をすすりあって、反乱をおこす誓いをかわした。

決行の日は七月二日夜としたほか、つぎのようなことがきめられた。

まず藤原仲麻呂の屋敷をかこんで、これをころすこと。皇太子大炊王をその地位からおいだすこと。光明皇太后のもつ駅鈴と天皇の印(ともに天皇のシンボル)をうばうこと。

右大臣藤原豊成に号令をださせて、孝謙天皇をやめさせ、道祖(ふなど)王・塩焼(しおやき)王・黄文(きぶん)王・安宿(やすかべ)王の四人のうちから天皇をたてること。

これが、奈良麻呂たちの考えであった。

だが太政官の役所の庭などというおおっぴらなところでひそかな相談をしたのが失敗だった。

話の中身はただちに仲麻呂の耳にはいった。「七月二日夜、奈良麻呂らが兵をあげるそうです」その日の朝、孝謙女帝はにわかに朝廷の人々を集めていった。

「嫌なうわさがたっています。あなたがたは先祖の名誉をきずつけないよう、しっかり私に仕えてください」

 つづいて光明皇太后が、藤原豊成らの役人をまねいて、いった。

 「私のかわいい甥たちよ。そして、遠い昔から天皇家に忠誠をつくしてきた大伴家、佐伯家 * のみなさん。

 * 佐伯家 大伴氏の一族で、大伴氏とともに宮廷の守護にあたる軍事氏顫のエリートだった。平安時代の僧の空海も佐伯氏の出身である。

あなたがたは覚えていますね。亡くなった聖武上皇が、自分が亡くなったあとは、光明皇太后によく仕えて助けるように、とおっしゃられたことを。

 “嫌なうわさ”が単にうわさにすぎないことを私は信じています。忠誠心の強いあなた方が、まさか亡くなった聖武上皇の心に背くようなひどい事をするはずがないと信じています」人々にうったえる皇太后の声は、ふるえていて、危機におびえる女心をまざまざと伝えていた。光明皇太后は、いまは仲麻呂にすがるよりはかなかった。

7 捕えられた奈良麻呂 

 その夜、藤原仲麻呂の屋敷に、またひそかに告げにくる者があった。

「もうまごまごしているわけにはいきません。奈良麻呂の軍はまもなく行動をおこします」

 仲麻呂はあわててはいなかった。むしろこのときのくるのをまっていたのだ。

 乱をおこそうとした橘奈良麻呂らは、すぐに捕えられた。これを橘奈良麻呂 * の変という。

 * 橘奈良麻呂の変 とらえられた人たちに皇族が多い。

藤原氏をおさえて皇族が政治の力をにぎろうとするうごきは、長屋王、橘諸兄からつづいていたが、結局失敗した。

特に中心となった奈良麻呂・塩焼工・安宿王・黄文王・大伴古麻呂の五人は、光明皇太后の前に引出された。

天皇ではないけれど、天皇と同じ実権をもっている皇太后は、昨日のおびえもどこへやら、堂々とした貫禄をみせていった。

橘奈良麻呂の一味はとらえられ、きびし<問いつめられた。

 「あなたたちは、そろって私に一番ちかい人たちです。私にはあなたたちに恨まれるおぼえはありません。それなのに、なぜあなたたちはとんでもないことをしようとしたのです!」その翌日、道祖王・黄文王・古麻呂らは、杖でうち殺された。

 罪を問いただす役人が、奈良麻呂に、「なぜ謀反をおこそうとしたのか」と問いつめると、奈良麻呂は、「仲麻呂の政治にひどいことが多いからだ。まず仲麻呂を捕えようと考えた」とこたえた。「政治のひどいこととは?」そう問いつめられると、「東大寺をつくったことだ。そのため、人民は苦しんだ。ほかの皇族たちも、みんなこのことをなげいていた」

 とこたえた。

 奈良麻呂の死 * については、記録には残っていないが、おそらく殺されたのだろう。

 * 奈良麻呂の死の記録 この事件を記録しているのは『続日本紀』という本で、そこには6人が杖でうたれて死んだとかかれている。 しかし、首謀者の奈良麻呂の死についてはかかれていない。役人と奈良麻呂との問答からは、人民のために乱を計画したようにきこえる。

 だが、奈良麻呂らの目標はあくまでも仲麻呂をたおし、政治の権力をうばうことだった。

 そのことは、役人が、「東大寺をつくったことが人民を苦しめたというが、大仏はあなたの父諸兄の時代につくりはじめられたのではないか」と問いつめると、奈良麻呂は何も答えれなかったことでもわかる。

奈良麻呂の変は起る前にとりしずめられたものの、安心してはいられない。

 東大寺や大仏づくりのために、長い間おもい負担に苦しんだ人たちは、朝廷への不満や敵意 * を高めていたからである。

* 朝廷への不満や敵意 このため、仲麻呂は事件の10日後、平城京とそのまわりの役人、地方の豪族、有力な農民たちをあつめて、奈良麻呂の変について真相を報告したという。

8 めでたいしるし?

 このころ孝謙女帝の寝殿の天井に、「天下太平」の文字があらわれたという。また同じころ駿河の国(静岡県)から、蚕(かいこ)が自然にかいたという、“天皇の命は百年”という文字がさしだされた。これをめでたいしるしとして、八月十八日、年号を「天平宝字」(七五七年)とあらためた。めでたいどころか、不安がうずまく世の中だった。

 それだからこそ、かえって事実かどうかもうたがわしいことを取上げて、“めでたい”ムードを流そうとしたのであろう。

 ゆれうごく民衆の不安をほかへそらすため、仲麻呂がしくんだことだったらしい。

 仲麻呂はこうして人々の心を自分のほうへひきつけておいてから、また、人々の喜びそうな政策を次々にうちだした。

 たとえば、外国がせめてきやすい九州を守るための防人(さきもり)は、東北地方からではなく、旅が楽な九州地方から集めることにした。

 中央ににおさめる税を運ぶ人夫にたいして、病気になった者へは、帰りの食料・薬などをあたえることなどをきめた。

 奈良麻呂の変のあくる年の新春、問民苦使 * (もみくし)という使いを国々へつかわすことにした。

 * 問民苦使 諸国をめぐりあるいて、人々の要求や不満をきくための役人。その報告によって、病人やまずしい人々の税金をやすくしたり、労役をかるくするのがたてまえだった。

 それは、『民間の人たちのなかに入って、まわりあるき、まずしい者や病気の者がいたら、その苦労をよくみてまわり、これを救うための使い』としておかれたものであった。

ひどい政治どころか、なかなか民衆のためをおもった政策におもえる。

しかし、仲麻呂のこの政策は、実は、奈良麻呂の変を中心にして、わきあがってくる危機をのりこえるための一時しのぎだった。

 問民苦使(もみくし)は、実際にはまずしい者を救う役目ではなく、奈良麻呂の変のあとの民衆のうごきをさぐったり、おさえつけたりする役目であったのだ。

9 仲麻呂が“恵美押勝”となる 

 年号を天平宝字とあらためてから一年後の、七五八年八月、孝謙女帝は位を大炊(おおい)王にゆずった。これが淳仁(じゅんにん)天皇 * である。

 * 淳仁天皇 淳仁天皇は、のち孝謙上皇と対立したため、位をおろされ、淡路島へ流された。淡路廃帝ともいう。 明治時代になって、ようやく淳仁天皇のおくり名がつけられた。

 淳仁天皇が、名ばかりの天皇だということは前からわかっていたことだった。

 淳仁天皇は、実力者である藤原仲麻呂・光明皇太后・孝謙上皇という、三つの大きな力にあやつられ、のちには孝謙上皇によって皇位をはぎとられて、淡路島(兵庫県)へ流されるという、悲しい一生をおくるのである。ところが、光明皇太后や、孝謙上皇の、仲麻呂への信頼は大変なものだった。

 「もしかしたら奈良麻呂たちに、私たちの命をうばわれていたかもしれないのだものね、上皇」「仲麻呂のおかげで今日のぶじがあるのですもの。お母さまのいわれるとおりです」

 皇太后と上皇は相談して、仲麻呂に高い位をさずけることにした。

 「国にはむかう者を、まだ戦わないうちにほろぼし、ゆらぐかとみえた皇室の基礎をしっかりとかためたので、平和な時代がまた長くつづくことになった。 国家に乱のなかったのは、じつにこの人のためである」皇太后は、このように仲麻呂をほめて、大保(右大臣)に任命した。

そのほめ言葉はまだつづく。

 「仲麻呂はその先祖の藤原鎌足からずっと、代々皇室を助けること一〇人の天皇(孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙)におよび、その間、一〇〇年がたっている。 おかげて朝廷はぶじで国内も平和にすぎてきた。

 仲麻呂にくらべられる人はいない。これからは、姓のなかに、人民をひろく恵む美をしめず、恵美の二字をくわえるように。

 また暴動をおさえ、つよい力にうち勝ち、兵をおこさせずに乱をしずめることができた。 それゆえ名を押勝と名のるがよい」

 このようにして、藤原仲麻呂は、太保(右大臣)の位をあたえられ、さらに朝廷から“恵美押勝” * という名前までもらったのである。

 * 恵美押勝 淳仁天皇の即位後、藤原仲麻呂はこの名をつかうことを許された。実際は自分の功績をたたえるために、この名を天皇からおくらせたのであろう。もう、仲麻呂にならぶ者はいなくなった。人々の間では、こんな話も残っている。それによると、

 孝謙女帝が仲麻呂を愛するあまり、「あなたの顔をみていると、しぜんにほほえみたくなるし、あなたの押しにはいつも負けてしまう。だから恵美(笑み)押勝という名をあげよう」といったということになっている。

10 仲麻呂の一人天下 

 藤原仲麻呂が任命された大保(たいほ)という地位は、右大臣の中国名である。

 これをきっかけにして、朝廷は、官名を全部中国式にあらためる * ことにした。

 * 中国式官名 藤原仲麻呂は中国風のよび名が好きだったらしい。

しかし、中国風の官名は日本人にはなじめず、のちの時代にもほとんどつかわれていない。

 太政大臣を太師(たいし)、左大臣を太傅(たいふ)というふうのである。

 もっともこのようなよび名は、仲麻呂の没落とともにすぐ廃止されてしまうのだが……。太保になった仲麻呂は、まず、全国的に戸籍の帳簿をつくった。これは、以前にもたびたび行われたことだが、今回のものは、税がはらえなくて逃げ出した農民をみつけだして、税をはらわせるきまりが、くわえられていた。

 たとえば、平城京に住む農民がとおくに逃げ出したとき、見つけ出して逃げたさきの土地の農民として、そこで税をはらわせた。また、捕えた大勢の浮浪人たちを、東北の陸奥の国(福島・宮城・岩手・青森県)へひとまとめにしておくり、北の守りをかためさせた。

 奈良麻呂の変のころ、仲麻呂がとったおもいやりのある政治が、一時しのぎの「ご機嫌とり」だったことが、これでもわかる。

 だが、朝廷はますます藤原仲麻呂を信頼して重く用い、七六〇年(天平宝字四年)正月には、太傅(たいふ=左大臣)をとばしていきなり太師(たいし=太政大臣)に任じられた。

人々は戸籍にしばられ、自由に土地をうつることはできなかった。

 太師、つまり太政大臣は、天智天皇のとき、大友皇子が任じられただけであり、仲麻呂の祖父藤原不比等も、元正女帝がこれをさずけようとしたのに辞退したほどの立派な位だった。仲麻呂はまさに、最高の位にまでのぼりつめたのである。

11 光明皇太后が亡くなった 

 しかし、仲麻呂のならぶ者のない勢いにも、やがてかげがさしはじめた。彼の力の最大のよりどころたった光明皇太后が、七六〇年の春のはじめごろから、病にかかってしまったのだ。三月十三日、全国の神社で、皇太后の病気を治すための祈りが行われたのをはじめとして、宮廷や都の寺々での祈りがつづいた。

 ちょうどその頃、光明皇太后は、東大寺の写経所で、新しく一切経 * (いっさいきょう)というお経をうつしていた。

 * 一切経 仏教のお経をすべてあつめたもの。玄防が唐から5048巻をもち帰っていらい、奈良・平安時代にこれをかきうつすことが流行した。大蔵経ともいう。

 また、父藤原不比等の屋敷にたてた法華寺では、阿弥陀浄土院というごうかな建物をつくりはじめていた。お経をうつすことも、寺院をたてて仏像をまつることも、死後、仏の国、極楽浄土にいくことを願ってのことだった。死がちかづいたことをさとった光明皇太后の最後の願いは、もはやこの世にはなく、「あの世」、仏の国だった。

 夫の聖武上皇は、四年前に世を去って仏の国へいき、この世のいっさいの恨みや悲しみからとき放たれて、いまは光明皇太后がくるのをまっているだろう。

 病の床にウトウトしている皇太后は、夢うつつにそんなことを考えていた。「二人で大仏をつくりましたね」と語りかけるように、うわごとをいっているときもあった。

 東大寺の写経所には、一六五人ものなれた人たちが集められ、阿弥陀浄土院の工事にも、のべ七万五〇〇〇人の人が集められ、それに必要な多くの費用がつかわれていた。

 しかし、その二つがまだ完成なかばの七六〇年六月七日、光明皇太后は、その波乱にみちた六十年の一生をおえた。

 光明皇太后はまさに奈良時代のトップレディであったのだ。

 あわてたのは、恵美押勝(えみのおしかつ)と名があらたまった仲麻呂だった。

 「大変です。光明皇太后さまが、お亡くなりなされました」の報告に、

 「ううむ、大切なうしろだてをなくしてしまった」と、仲麻呂はガックリ肩をおとした。

12 大がかりな儀式 

葬儀は盛大に行われ、光明皇太后のなきがらは、聖武上皇のねむる佐保山陵にほうむられた。七日ごとの霊をなぐさめる儀式は、聖武上皇のときにおとらない盛大さで行われた。

とくに、死後一年めの法要は大がかりだった。その中央の会場は、光明皇太后が完成をみないで亡くな * った法華寺の阿弥陀浄土院であった。

 * 光明皇太后の死 光明皇后は、一つの時代をささえた大きな人物だった。その死によって恵美押勝が勢力をうしない、孝謙上皇(称徳女帝)と道鏡の時代がやってくるのである。

 この建物の内部は、天井に美しい色の花雲がかかれ、仏像をおさめる壇には、やはり美しい色のハスの花弁をかたどった台座がおかれてあった。

 また、壁には、二八体の飛天(天人)と飛雲がかかれて、極楽浄土とはこのようなところかとおもえるほどの華麗さだった。

 この日の最大の行事は、何といっても、東大寺写経所で一年あまりかかって完成した一切経(いっさいきょう)がはこびこまれたことだった。

 これももちろん、光明皇太后の願いではじめられたものである。 できあがった一切経は全部で五三三〇巻。

法華寺 藤原不比等の屋敷の跡に光明皇太后がたてた。

 それをつくった写経生たちは、生活が苦しくて、わずかな土地やみすぼらしい住いを元手に、給料の前借りをしてがんばったのだった。

 「いま着ている仕事着は、去年二月にくばられたものです。いたんだり、あかじみたりして、洗っても臭くてたまりません。みな新品にかえてください。それから毎月五日の休日をください。長く机にむかっていると、胸がいたみ、足がしびれます。 三日に二度、薬としてお酒をください」このような要求をだしていたほどだった。

 とにかく、そのおびただしいお経は、二四のきらびやかな漆(うるし)ぬりの唐びつ * (いれもの)におさめられ、四八人の人にかつがれて、しずしずと東大寺から法華寺へと運ばれたのである。

 * 唐びつ 中国からつたわった木の大きな箱。ふたと4ないし6つの脚がついている。外側は漆塗りなどでかざり、内側には錦などの布をはっている。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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