http://www.mediaisland.co.jp/temple/post-362.html 【46回 最澄、空海を中国へと導いた鑑真】より
最澄や空海が唐に渡ろうと決意した背景には、渡来僧がもたらした多くの経典がありました。7世紀から8世紀にかけて多くの渡来僧が日本に渡りましたが、その中で最も大物は、有名な鑑真です。
鑑真は、厳しい小乗仏教の戒律を学び南山律宗の後継者とされましたが、同時に中国天台宗も深く学んでいました。さらに密教や浄土教も学んでいました。
単なる学僧のレベルを超えて、鑑真はその当時の主要な中国仏教に精通した大学者でもあったのです。
日本の朝廷が鑑真に期待したのは、正しい戒律のあり方を日本僧に教え、正式の受戒を日本でもできるようにすることでした。
鑑真はその期待に応えるべく尽力しましたが、同時に大乗仏教系の多くの経典も日本にもたらしたのです。
最澄は鑑真の残した天台宗の経典にふれて唐で天台宗を学ぼうと決意しました。
空海も密教を学ぶにあたって鑑真がもたらした経典を見た可能性があります。
さらには、鑑真は浄土教の教えを日本で初めて紹介。
これが平安時代に入ってからの浄土教の広がりにつながりました。
鑑真は、日本仏教の広がりの大本になる「種」を撒いたのです。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1134 【新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典】より
新版 日本架空伝承人名事典
鑑真がんじん688‐763
中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動、「江淮こうわい化主」と尊敬され、得度や受戒をした弟子は四万人といわれた。七三三年(天平五)遣唐使の多治比広成に随行して奈良興福寺の栄叡と普照が入唐。揚州大明寺に鑑真を訪ね、日本へ戒律を伝えるため東航を要請した。弟子らが渡海の危険を訴えると、鑑真は仏法のために「何ぞ身命を惜しまん」と言い、自ら渡航の意思を決然と語った。しかし、鑑真一行の渡海は、暴風による遭難や鑑真の離国を惜しむ者の密告などで五回も挫折。この間一二年、栄叡は死去し、鑑真は両眼を失明した。七五三年に藤原清河を大使とする第一〇回遣唐使が帰国する便に乗船することになった。大使と阿倍仲麻呂が乗った第一船は驩州かんしゅう(現、ベトナム北部のビン付近)まで吹き流されて漂着。地元民と言葉が通じず、乗船者約二〇〇人の大半が殺された。鑑真と副使大伴古麻呂が乗った第二船は、沖縄を経て薩摩国坊津ぼうのつ(現、鹿児島県南さつま市)に漂着。なお、普照と副使吉備真備きびのまきびの第三船は現在の和歌山県白浜町に漂着した。鑑真が第二船に乗ったのは、時の皇帝玄宗が鑑真の才能を惜しんで渡海を許さず、大使藤原清河は鑑真の乗船を拒否。そのため副使大伴古麻呂が密かに乗船させたためである。七五四年(天平勝宝六)一月、平城京に到着した鑑真は、聖武上皇・孝謙天皇以下の歓待を受けた。奈良東大寺大仏殿前に戒壇を設け、上皇から僧尼まで四〇〇人に菩薩戒を授け、以後戒律制度が急速に整備されていった。七五九年(天平宝字三)新田部親王の旧宅跡を朝廷から譲り受け、唐招提寺を創建。七六三年五月、同寺で七六歳の生涯を閉じた。
近年の研究では、鑑真の失明は完全失明ではなく、視力残存失明であったらしいということが、「鑑真書状」を研究する過程で明らかになってきた。鑑真は『一切経』の校正にあたっており、多くの誤字の訂正を行っている事実が、このことを物語っている。唐招提寺に残る国宝の鑑真像は、日本最古の肖像座像とされる。鑑真の死の前年の春、弟子の忍基は講堂の梁が折れるのを夢に見て、鑑真の死期が近いことを悟り、その肖像(乾漆像)を造り始めたという。なお、芭蕉の「若葉して御目の雫ぬぐはばや」の句は、鑑真の座像を拝してのものである。鑑真が住職を務めた中国の大明寺は、一九六六年に文化大革命によって破壊されかかったが、周恩来首相の指示により閉鎖で事無きを得た。八〇年に唐招提寺の鑑真座像が「里帰り」するにあたり、法浄寺と変更されていた寺名が大明寺に戻され、拝観のため二一万人が訪れた。
[安宅 夏夫]
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日本大百科全書(ニッポニカ)
鑑真
がんじん
[687―763]
中国唐代の僧。日本の律宗(りっしゅう)の祖。過海(かかい)大師、唐大和上(とうだいわじょう)などと尊称される。揚州(江蘇(こうそ)省)の人。俗姓は淳于(じゅんう)。揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、南山律(なんざんりつ)の道岸(どうがん)(654―717)によって菩薩戒(ぼさつかい)を受け、その後、長安の実際寺で恒景(こうけい)を戒和上(かいわじょう)として具足戒(ぐそくかい)を受けた。洛陽(らくよう)、長安に住すること5年、その間に三蔵(さんぞう)を学び、道宣(どうせん)の弟子融済(ゆうさい)、満意の門人大亮(たいりょう)らに律学の教えを受け、また天台も兼学した。揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、江准(こうわい)の化主(けしゅ)と仰がれ、その名声はとどろいた。そのころ733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)(?―749)、普照(ふしょう)(生没年不詳)が授戒伝律の師を求めて入唐(にっとう)していたが、742年に二人が鑑真を訪れ、弟子のなかに日本に渡って律を伝える人がいないか、募ってもらうよう請うた。それが機縁となり、鑑真は弘法(ぐほう)のため不惜身命(ふしゃくしんみょう)の思いに燃え、自ら弟子を率いて来朝した。来朝まで5回も渡海に失敗し、あるときは同行の僧の密告や弟子の妨害によって未然に終わり、あるときは海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破し、あるときは遠く海南島に流される労苦を味わい、12年の歳月を要して来朝した。その間、栄叡や弟子祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明するに至っており、海路、陸上の旅で世を去ったもの36人、望みを放棄して彼のもとを去ったもの200余人に及んだ。しかし渡海の失敗が重なる間も、鑑真は各地で伝道教化(きょうげ)に励んだ。鑑真の伝記には在唐中の活動が総括されており、百数十遍の各種律典を講じ、寺舎を建立し、十方(じっぽう)の衆僧を供養し、さらに、仏像をつくること無数、一切経(いっさいきょう)を書写すること30部、戒を授けること4万有余に及んだ、と伝える。
753年(天平勝宝5)薩摩(さつま)(鹿児島県)坊津(ぼうのつ)に到着、翌754年入京した。聖武(しょうむ)上皇はその労をねぎらい、詔(みことのり)して鑑真に授戒伝律の権限を委任し、自ら鑑真を戒師として東大寺大仏の前で登壇受戒した。また従来の僧も旧戒を捨てて受戒し、ここに、かつて日本で行われたことのない10人の僧による三師七証(さんししちしょう)の受戒が成立した。翌755年には戒壇院(かいだんいん)もつくられ、それまでの度牒(どちょう)にかわって戒牒(かいちょう)を授ける制度が確立された。上皇崩御(ほうぎょ)後の756年(天平勝宝8)には大僧都(だいそうず)に任じられたが、老齢のためその任を解かれ、戒律の教導に専念することとなり、大和上(だいわじょう)の称が与えられた。759年(天平宝字3)、かねて与えられていた新田部(にいたべ)親王の旧宅をもって寺とし、これを唐招提寺(とうしょうだいじ)と称し、戒律研鑽(けんさん)の道場として衆僧に開放する制をたてた。また官寺における布薩(ふさつ)のための経済的裏づけを行うことと相まって、仏教の協同体意識を養い、いわゆる教団(僧伽(そうぎゃ)、サンガ)が初めて名実ともに確立するに至った。彼が将来したもののうち、天台典籍(てんせき)はのちに最澄(さいちょう)の天台宗開創の基盤となり、王羲之(おうぎし)父子の真蹟(しんせき)は書道の興隆に多大の影響を与えた。ともに来朝した弟子に法進(はっしん)(709―778)、思託(したく)(生没年不詳)などがあり、法進は戒壇院を継ぎ、思託は鑑真の伝記『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(略称『大和上伝』)3巻を書いた。この書は現存しないが、これを略述した真人元開(まひとげんかい)(淡海三船(おうみのみふね))の『東征伝』1巻が現存する。鑑真の墓所は唐招提寺にあり、開山堂には国宝の鑑真像を安置する。
[石田瑞麿]2017年1月19日
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世界大百科事典
鑑真
がんじん
688-769
中国,唐代の高僧,日本律宗の開祖。中国の楊州江陽県の生れで,春秋時代の斉国の名士淳于〓(こん)の後裔と伝える。中国の南山律宗の開祖道宣の高弟道岸(654-717)より菩薩戒を,長安の実際寺で弘景から具足戒を受け,その後,諸宗を学び江淮の地で戒律の講義や授戒を行い,あるいは古寺修理,一切経を書写するなど,諸州屈指の伝戒師として信望があつかった。中国仏教界では,登壇受戒して具足戒をうけねば僧尼と認められず,受戒は出家の出発を約する重要な正門であった。日本では平城京遷都以後,仏教隆盛と並行して,僧尼令に違反する僧尼や,勝手に僧尼となる私度僧が群出するようになり,律令政府として唐の授戒制度や戒律研究の必要性を痛感するに至り,733年(天平5)の遣唐使派遣の際に,僧栄叡(ようえい),普照,玄朗などが,舎人親王の要請で入唐求法し,伝戒師の招請にあたった。この要請に応じて,736年に来航したのが,インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)や唐僧道璿(どうせん)であったが,授戒には少なくとも三師七証の10僧を必要としたため,さらに諸州を巡り,揚州大明寺の鑑真に日本への渡航を懇願した。鑑真一行の渡航は5回企てられたが,師僧の出国を願わぬ弟子などの妨害と難破で失敗し,栄叡や補佐役の祥彦も病没,自身も視力を失うなど,幾多の辛酸をなめた。しかし伝戒の素志をひるがえすことなく,第10次遣唐船の帰国に際し,副使大伴古麻呂の第2船に乗って,ひそかに出国し,753年(天平勝宝5)12月に折からの暴風波浪をしのいで,薩摩国秋妻屋浦(現鹿児島県南さつま市,旧坊津町)に入港した。翌年2月に弟子法進,曇静,義静,思託や,日本僧普照,延慶などにともなわれて,待望の平城京に入り,東大寺大仏を拝し,客坊に止住した。この間,日本では前後12年,6回目の航海で渡来した鑑真に対する信望と帰依は異常なほどで,高官・高僧らは自身あるいは使者を送って労をねぎらい,勅使吉備真備も〈自今以後,授戒伝律はもはら大和尚にまかす〉という孝謙天皇の意向を伝えた。4月には大仏殿前に臨設の戒壇を築き,聖武上皇などに菩薩戒を授け,その後大仏殿西方に戒壇院を設立し,登壇授戒の制が整った。756年に大僧都に任ぜられ,仏教界を統べる僧綱の重職にあったが,彼の身をいとった孝謙天皇は僧綱を解き,鑑真は故新田部親王の旧宅地に唐招提寺を建立した。招提とは私寺の意味である。
鑑真により伝えられた戒律思想は,三戒壇の成立によって授戒制度が整備され,天平仏教に点睛を加え,将来した天台関係の論著は,平安時代仏教にも影響を与えた。伝律持戒に殉じた非凡な人物であっただけに,宮廷のあつい信頼や,藤原仲麻呂,石上宅嗣,淡海三船などの帰依を得て,また弟子法進,思託,恵雲,如宝なども多大の功績をのこしている。現在唐招提寺に伝わる鑑真像は,没前の姿を伝えている。
[堀池 春峰]
[索引語]
戒壇
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