俳号桃青

俳号の変更は 芭蕉との一つになる体験(神人合一)、西行に追いついたという自覚(李白から荘子)によるのではないでしょうか?

https://blog.goo.ne.jp/ninme22/e/efe98e81b0f18b8f213702df941a6495【 李白 と 桃青 】より       

『抜粋』

 そこで、若き俳人 宗房は、李 ( すもも) に桃 ( もも ) 、白 に 青 を対応させ、李白にあやかって、三十一歳の時に、号の「桃青」を名乗った。司馬 遷 に対応して、司馬

 遼 ( 太郎 ) の作家名が誕生したのと、同工異曲の趣( おもむき) がある。

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        『本文』  

外国人の詩人「李白」を知る日本人は多い。しかし、日本人である詩人 「桃青」が誰なのか、知ってる日本人はさ程多くはないのではないかと思う。

「桃青」とは、「古池や、蛙、飛び込む、、、」で有名な詩人だと云えば、日本人なら知らない人は居ない、日本の代表格詩人である。そうです、松尾芭蕉の事です。

芭蕉は、本名 松尾宗房( むねふさ) 、幼名は金作。「芭蕉」の前、即ち、三十一歳の時に「桃青」とという号を名乗り始めた。「俳諧」という文句があるように、俳句は、もともと滑稽、風趣の機知や華やかさを競( きそ) う句を作ることに重点が置かれていた。俳人である芭蕉は、唐詩を愛読し、李白や杜甫などを詠むうちに、唐詩人の孤高、魂の救済の 境地に傾倒し、自然や人生の探究に向けて俳句をもう一歩奥深く 進めようという考えを持つようになった。

そこで、若き俳人 宗房は、李 ( すもも) に桃 ( もも ) 、白 に 青 を対応させ、李白にあやかって、三十一歳の時に、号の「桃青」を名乗った。司馬 遷 に対応して、司馬 遼 ( 太郎 ) の作家名が誕生したのと、同工異曲の趣 ( おもむき) がある。

三十六歳 ( 1680 年) 、俳人 桃青は、金と名声に汚染された江戸の俳壇に愛想をつかし、隅田川河畔の深川に草庵を作り隠棲した。草庵の庭に芭蕉を一本植えたところ、見事に育ったので、草庵に「芭蕉庵」という呼び名が付き、主人も号を「桃青」から「芭蕉」に変えた。

ここで、一つ大いに教えられる所がある。「侘び、さび」の境地を主体にして俳句を詠み続けた芭蕉が、「白髪三千丈」を詠んだ李白をこよなく愛したという事である。

芭蕉は、大袈裟な表現を好んだ俳人であろうか ? 否、であろう。では、何故 ?

答えは、読者の良識判断に委せる。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/name_tohsei.htm【俳号「桃青」】より

芭蕉の俳号「桃青」については、

① 母の出自が伊予宇和島の桃地氏であるとした上で、「桃」の字に愛着があったから。また、「青」は未熟を表す謙遜のため、

② 心酔していた「李白」の名からヒント得て、「李<スモモ>」⇒「桃」、「白」⇒「青」としただけ、

などと言われているが、すべて根拠は無い。

 ただ、「桃」の字についてはこだわりがあったらしく、名付け親として門人の多くに「桃」の字のついた俳号を与えている。


https://plaza.rakuten.co.jp/articlenine/2042/ 【佐藤勝明先生のおくのほそ道その2】

 さて、今週のNHKラジオ「古典講読の時間」のおくのほそ道は、「あさか沼」と「しのぶの里」でした。

 まずは芭蕉の生涯。

 1672年東下して宗房改め桃青となった芭蕉さん。

 延宝5,6年(1677~78年)頃、35歳くらいで念願の俳諧宗匠になります。宗匠になるにはお披露目をするのが普通で、芭蕉は延宝5年に万句興行(100人の連句を100巻)行って宗匠となり立机、延宝6年「歳旦帳」を作っているそうです。

 万句興行は多くの人の協力がないと不可能で、芭蕉は人々から認められる存在になっていたと考えられる。

 延宝7年、1679年の歳旦句には

*発句なり松尾桃青やどの春   (わが世の春のイメージで意気揚々)

 延宝8年、1680年の歳旦句には

*於春春大哉春と云々(ああ春、春、大いなるかな春とうんぬん)漢詩文調で楽天的桃青くんです!

 江戸に出て6年ほど、人々に認められ経済面でも大商人の息子の杉風、町名主の息子の卜石などが支えます。

 また延宝5~8年ごろ、小沢太郎兵衛のもとで、神田川の工事にかかわります。それに応える実務能力もあったことがわかります。早稲田に「関口の芭蕉庵」というのがあり、それはこの工事の際に住んでいた家の跡らしい。

では本文「あさか沼」

=等旧躬が宅を出て、五里ばかり、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈るころもやや近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。=

 *みちのくの浅香の沼の花かつみかつみる人に恋ひやわたらむ(古今集)

 の「かつ見る」かりそめに見た人に恋してしまったのか・・・の歌への興味よりも、予はそれには関心を示さず、「花かつみ」に興味津々!人々に尋ねてまわるが、だれも知らない。強い執着心。しかし日が暮れようとしたのであきらめて先に進み、二本松あたりで右にそれて、謡曲「安達ヶ原」で有名な黒塚の岩屋を見て福島に泊る。

 黒塚の岩屋にはあえて触れずに、「花かつみ」にこだわり続ける予。「かつみ」とは当時もよくわからなかったらしい。しかし本文に「かつみ刈る頃も近い」と言っているのは、一条天皇に「陸奥に行って花かつみを見て来い」と左遷された藤原実方(清少納言の恋人)が、「端午の節句に屋根に花かつみを葺いた」書いているので、「まこも?」分からないのに探さずにはいられない、予の旅なのです。

 なお、曾良の日記ではほとんどが田んぼになっていると書いてあるが、本文では「沼」になっているそうです。意図的改変♪

「しのぶの里」

=あくればしのぶもじ摺の石を尋て忍のさとに行。遥山陰の小里に、石半土に埋れてあり。里の童部の来りて教ける。「昔はこの上に侍を、往来の人々の麦草をあらして此石を試侍をにくみて、此谷につき落とせば、石の面下ざまにふしたり。」と云。さもあるべき事にや。

*早苗とる手もとや昔しのぶ摺=

 翌朝、しのぶもじ摺の石を尋ねる。源融の

*陸奥のしのぶもじ摺たれゆゑに乱れむと思ふわれならなくに(乱れようと思う私ではないのに)

 の歌枕の地。山陰の小さな里で、その石は半分ほど土に埋もれていた。里の少年が「山の上にあったのだが、往来する人が伝承として麦の穂をこすりつけると面影が浮かぶという伝承を真似て、麦を抜いて石を試すので、迷惑だと石を谷底に突き落としたところ、面が下になってしまった」と説明してくれた。予は、風雅と経済生活のどちらが大切か複雑な気持ちになって「さもあるべきことにや」という感想を書く。

 先生が言われるには、実は芭蕉はこういう話が好きだった・・・らしい。

 曾良の書き留めには、石は萱の下に埋もれて風流のむかしにおとろふる事本意なくて

*五月乙女にしかた望んしのぶ摺    翁 (早乙女にせめて昔のしのぶ摺の所作を頼もう)

  現在、「花かつみ」は姫シャガ?ということで、あさか沼の周辺に植えられ、しのぶもぢ摺の石のある神社では、もぢ摺り体験などができるようになって、人々が大切に守っているそうです。私は、現代にそういうことをするのは、付け焼刃的で価値の無い物、と勝手に思い込んでいましたが、分からないものを探していく芭蕉の、歌枕への思いこそ「風雅」なのだと気づきました♪

2014年7月20日

今週のNHKラジオ第2放送、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は「佐藤庄司の旧跡」でした。

 まずは、芭蕉さんの生涯。

 延宝5年頃から、京都の俳人が江戸に来ることが多くなり、ともに俳句を詠んで冊子にするという東西交流が盛んになります。中でも信徳は芭蕉の終生の友となります。彼らは北村季吟のネットワークの仲間たちで、彼らは(季吟は嫌いだった?)檀林俳諧を謳歌します。

 延宝5年(1677年)百韻三巻を「江戸三吟」として出版。

*あらなんともなやきのうは過ぎて鰒と汁    桃青(芭蕉)

*寒さし去って足の先まで   (信章)

*居合い抜きあられの玉や乱すらん  (信徳)

*三笠の山をひっかぶりつつ   (信徳)

*万代の古着買はうとよばふなり  (桃青)

*質の流れの天の羽衣    (信章)

=延宝6年秋、春澄が江戸に来て「江戸十歌仙」 この年、千春という人も江戸に。

*空誓文に霜枯れし中   (似春)

*薬物右近が歌を煎じても  (桃青)=忘らるる身をばおもひて誓ひてし=右近

*古河の辺に豚を見ましや  (春澄)=源氏物語・夕顔の侍女=古河)

 延宝期後半、芭蕉は東西の俳人たちとの交流の中心となって活躍。また門人たちも集まり、

 延宝8年1680年、「桃青門弟独吟二十歌仙」を発行。

 同じ年には門人の杉風と基角がそれぞれ発句合せを作り、判者は桃青。

 延宝8年冬、桃青は深川に移り住みます。    今週はここまで。以下は本文。

「佐藤庄司の旧跡」

=月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半ばかりに有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。

 中にも二人の嫁がしるし先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、ここに義経の太刀弁慶が笈をとどめて什物とす。

 *笈も太刀も五月にかざれ紙幟

 五月朔日の事也。=

月の輪の渡しを越えて=川を越える=別の段への連続と切断の役割をしているらしい。

 佐藤庄司は、奥州藤原家の荘園の管理をする佐藤基信という人で、庄司という役職。彼には二人の息子があった。義経挙兵の折、その供をして平家討伐に向かいます。

以下ネット引用

『継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。 弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。』

 彼ら佐藤庄司一族の旧跡が飯塚のあたり鯖野にあると聞いて尋ねたずねして行きます。大手門の跡あたりなど教えてくれる人がいて、予は感涙の涙を流します。その後、予は近くの寺で佐藤一家の石碑を見ます。中でも、二人の兄弟の嫁の「しるし」がより哀れなのでした。息子2人が死んで落胆した母をなぐさめようと、その甲冑を身につけていさましく凱旋の姿を見せたという話です。

 予は、堕涙の石碑=秦にある皆が後を慕って落涙する碑=を見たようだ、わざわざ遠国まで求めなくてもここにあったのだ、と感慨。

 予は寺に入って茶をいただき、義経の太刀や弁慶の笈などの什物を見せていだたき一句。

*笈も太刀も五月にかざれ紙幟     五月一日のことでした。

 ここが、義経の名とその形跡の書かれた最初の段なのだそうです。曾良日記によれば、お寺には入れず、お茶も出されず、什物も拝見できなかったのが事実らしい。

 岩波の「おくのほそ道」では五月一日ではなく二日のことで、芭蕉の記憶違いであろう、と説明してあるが、松尾先生の授業の時のメモに「ではなくて、文学作品としてあるため」と書いてありました♪

2014年7月27日

今週のNHKラジオ第2、古典講読の時間、佐藤勝明先生のおくのほそ道は「飯塚」飯坂温泉のところでした。まずは芭蕉の生涯。

 当時大坂には井原西鶴がいて、檀林俳諧そのものの句を沢山作って一斉風靡していたらしい。西鶴の句。(間違えてメモしたかもしれないので、後で訂正するかも)

・薬もござらぬしし(小便)のあわ雪

・釈迦すでに人にすぐれてこえ(肥え)られて

・嵯峨野の籠かきまし(増し)やとるらん

 嵯峨野の清涼寺は釈迦堂ともいうことをかけてあるがナンセンス俳諧らしい。上方の西鶴、江戸の芭蕉、というふうになっていくのかな?

 延宝期、順風満帆の桃青は、1680年延宝8年、江戸の中心地日本橋から、さびしい深川に移り住みます。このことについては諸説あるけど、現存する資料からは「謎」であるらしい。

・幇間的俳諧宗匠をやめたかった。

・新しい模索のため。

・日本橋の火事で避難。

・姉の子で一緒に住んでいた甥の桃印の駆け落ちをごまかすため。

 など言われるが、1つ言えることは、深川に移ったことで芭蕉の俳諧は大きく変わったこと、だそうです。

延宝8年の句   *櫓声波を打つてはらわた氷る夜や涙  (寒々としている)(武蔵曲)

延宝9年の句   *芭蕉野分してたらいに雨を聞く夜かな

 これまでの貞門、檀林にない特徴があるそうです。その説明は次回。では本文「飯塚」

=其夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば湯に入りて宿をかるに、土座に筵を敷てあやしき貧家也。灯もなければゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴雨しきりに降て臥る上よりもり、蚤蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて消入るばかりになん(侍る)。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。=

 曾良日記によれば、雨は降ったが宿が悪いことは書いてない。芭蕉はその前の旅の「笈の小文」で旅について記していて、「自分の旅はどこに泊るのもいつ出立するのもない、気ままなもの。ただ願うことはただ2つ

・今宵の宿が良い宿であること。

・わらじが自分の足に合うものであること。

 と書いているそうです。

 疲労が重なり、雨に打たれ、虫に喰われ、ついには持病も出てまんじりともしない夜が明けて・・・これから遥かな旅が待っているのに・・・と、予の苦境に読者も不安です。本文

=猶夜の余波心すすまず、馬かりて桑折の駅に出る。遥かなる行末をかかへて、斯る病覚束なしといへど、騎旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと気力いささかとり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。=

 馬を借りての出立をし、この時予の脳裏を駆け巡ったのは、和漢混交文での漢文的言葉たち。重々しい対句の響き、風雅の道に捨て身のはずの自分、第一、この世界全体が無常だったのだ、の再確認。論語から=道路に死んでも、是こそ天命ではないか、と観念したら、気力が戻って、路を存分に踏みしめて力強い足取りで、伊達の大木戸を越えれば、これは2度目の越境になるのでした♪

 伊達の大木戸は、1189年源頼朝軍を迎えうつために奥州藤原方が設けた関で、国境なのでした。

 最悪の体調の中での関越えは、ストーリー上の演出の可能性も。わたし達は、おくのほそ道という物語の中の予と旅をしているのです。楽しませてもらえますね~!

2014年8月3日

 今週のNHKラジオ第2放送、佐藤勝明先生の古典講読の時間、おくのほそ道は「笠嶋」でした。まずは芭蕉の生涯から。

 延宝8年、1680年日本橋から深川へ転居した芭蕉。その理由は定かではないが、これを機に芭蕉の俳諧が大きく変化してゆきます。

 延宝9年は、天和元年になります。天和2年(1682年)の「むさしぶり」に、初めて「芭蕉」の名が出ます。

・芭蕉庵桃青     ・芭蕉翁桃青   桃青の名は使い続けます。翁には早いけど38歳の芭蕉。この年12月28日、駒込から火事が起き、深川にも飛び火、芭蕉も命からがら避難します。この体験も人生観や俳諧に影響を与えた可能性が。

 芭蕉は甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山伝右衛門(俳号麋塒=びじ)に招かれ、逗留生活を送ったりします。

門人たちの力で芭蕉庵が再建されたのは、天和3年(1683年)冬のことでした。

 天和3年、門人の其角が「うましぶり」刊行。

 天和4年(1684年)2月21日、貞享と改元されます。 この、延宝8年から天和4年までの間に芭蕉の周囲でいろいろなことが起きました。鹿島から寺領裁判のために深川に来ていた仏頂和尚と知り合い、禅を知ります。

 延宝末~天和期こそ、日本の俳諧史上大きな転換期だったといえるらしい。芭蕉はそこで完成したわけではなくて、この天和期を基点に求め続け変わり続けていったらしい。

 延宝8年の句*櫓の声波をうつてはらわた凍る夜や涙

 延宝9年の句*芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉

 どちらも上句の字余りが漢詩的であり、助詞「て」のあとに音を聞いている自分の姿が浮かび上がってくる。今までの俳諧にはなかったこと。

 漢詩から学んだ二重構造は、おくのほそ道における「自分」と「予」の原型になっている。漢詩、五言句、七言句の2段構造は、2つのものが切れながら結びつく、効果的な用法・・・なんですって。(この部分、私が理解していないので読んでもわからないかも)

 本文の前回、飯塚での惨憺たる夜、眠ることもままならない一夜。だからいっそうその後の覚悟が決まる。「無常の観念」「道路にしなん」この2語は、仏教、儒教の考えが入っていて、「三行一致思想?」と関連があるらしい。

では本文「笠嶋」

=鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥か右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社、かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、簔輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、

*笠嶋はいづこさ月のぬかり道

 岩沼に宿る。=

 道行文の体裁で始まります。人物の移動にあわせて羅列。

 藤中将実方は、995年 陸奥の守となって赴任。998年その地で没。逸話として、行成と宮中で口論。一条帝に「歌枕見てまいれ」と左遷させられた。赴任地没は、馬を下りるべき道祖神の前を、馬に乗ったまま通ったので神の怒りをかって殺された。というものがあるらしい。

 歌まくらの地は、ほとんどの貴族が都で歌ったものだが、実方は実際に陸奥の地におもむき、歌を詠んだ人。西行も実方の墓を訪れ歌を詠んだのです。

*朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 かたみにぞ見る  

 芭蕉が土地の人にそのありかを聞けば、片身の薄もまだあると、教えてくれたのです。その場に行きたいのは山々なれど、「予」は断念します。五月雨で道が悪く、体も疲れていたのでよそながら眺めて過ぎたのでした。

 しかし、この地名、箕輪、笠嶋は、五月雨に似合っているなあと「予」は思ったのでした。予定通りにいかない状況でも、興じて楽しむ芭蕉の姿がここにあります♪そして、この思い通りにいかなかった笠嶋の体験を、いろいろな文章で大事に書き残しているんですって!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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