Facebook・清水 友邦さん投稿記事「海神族(綿津見 わたつみぞく)」
摂津国一之宮の住吉大社に祀られている住吉三神は、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三柱の神のことを言います。
住吉大社歴代宮司の「津守氏」は境内社の大海神社(だいかいじんじゃ)の神を奉じていました。
祭神は「オオワタツミ(大綿津見神)」と同一される豊玉彦命と娘の「豊玉姫命」です。
境内社の志賀神社の祭神が「表津綿津見神(うわつわたつみのかみ)/表津少童命(うわなかつみのみこと)」「中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)/中津少童命(なかつわたつみのみこと)」「底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)/底津少童命(そこつわたつみのみこと)」で綿津見三神です。
志賀神社の総本社は九州の志賀海神社です。
神楽の舞におびき寄せられた阿曇磯良(あづみのいそら)が海底の竜宮城から現れて潮の干満を操る霊力を持つ秘宝の珠を献上して神功皇后は新羅を討つことに成功したという伝承が伝わっています。
阿曇磯良(あづみのいそら)は志賀の皇神(すめがみ)として博多湾の志賀海神社の御神幸祭で磯良(いそら)の舞が奉納されています。
阿曇(安曇)氏は神武天皇の母の玉依姫を先祖としていました。
阿曇は阿知女(あちめ)であり皇神(すめがみ)でした。
女神だったのです。
阿曇(安曇)氏は磐井の乱のあと北部九州の福岡志賀島一帯から離れて全国に四散しました。
イザナギが汚れを洗い流した身禊で最初に生まれた神が綿津見三神と住吉三神です。
そのときに禍津日神(まがつひのかみ)(八十禍津日神・大禍津日神)も産まれています。禍津日神は荒祭宮祭神の別名の瀬織津姫とされています。
日本書記199年に仲哀天皇が熊襲征伐の最中に神功皇后が突然神懸かる話が出てきます。
神功皇后(じんぐうこうごう)(170~ 269)は名を気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)といいます。
神功皇后の母方の祖は新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)でした。
第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は「ヤマトタケル」と呼ばれた小碓皇子(おうすのみこ)の子供です。
仲哀天皇は神功皇后の神託を信じなかった為に熊襲征伐は失敗して天皇は崩御します。
そこで神功皇后は武内宿禰(たけしうちのすくね)に琴を弾かせて中臣烏賊津(なかとみのいかつ)を審判者(サニワ)として仲哀天皇を祟った神の名を知ろうとしたという記述があります。
神の名は瀬織津姫の別名とされる天照大神の荒魂である向津媛(むかつひめ)でした。
そのあとに事代主(ことしろぬし)と住吉三神がでてきます。
仲哀天皇を祟りで亡くした神功皇后は大祓(おおはらえ)の儀式をして国中を清めています。
宗像大社の伝承は「宗像神の子が住吉大神で、住吉大神の子が八幡神(応神天皇)とされています。
宇佐神宮の縁起書には神に祈ると、住吉大神が出現し神功皇后と結ばれ、その後に八幡が生まれたとの記述があります。
住吉大社神代記は仲哀天皇が亡くなった夜に「皇后、大神と密事あり」と神功皇后と住吉大神が結ばれて応神天皇が生まれたことを記しています。
最初に神功皇后が神懸かるときに琴を弾いたのは仲哀天皇でしたが、その次に琴を弾いたのは武内宿禰(たけしうちのすくね)でした。
神功皇后と結ばれたのは武内宿禰(たけしうちのすくね)ではないかと見られています。
日本書紀には九州の福岡に侵攻した神功皇后の軍が山門県(やまとのあがた)の土蜘蛛(先住民)の田油津媛(タブラツヒメ)を誅殺したとの記述が出てきます。
中央集権制が確立する前の古代は女性が祭りごとのリーダーだったのです。
神功皇后は天皇ではありませんが日本書紀では天皇と同じ扱いになっており、敵対した仲哀天皇継子の「忍熊王(おしくまのみこ)」を倒して福岡から「大和」に都を移し、息子「応神」の摂政として69年間、政治を行ったとされています。
天皇家の祖先はオオワタツミ(大綿津見神・大海神)の娘のトヨタマヒメ(豊玉姫)と結ばれた彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)別名山幸彦です。
「ワタ」は海の古語で「ミ」はオカミのミなので、「ワタツミ」は「海人族の女性族長だったと思います。
志賀海神社の磯良(いそら)の舞は傀儡舞として宇佐八幡宮の神事芸能として八幡信仰と共に全国に広がっていきました。
それが春日若宮のおん祭や、祇園御霊会で演じられ、宮中にも取り入れられて、神楽の元祖となったと言われています。
磯良(いそら)神は傀儡・遊女が祀る百太夫・白太夫の神として西日本各地の神社の末社として祀られています。
綿津見神は阿曇(安曇)氏の祖先神とされています。
住吉大社の境内末社の海士子社の祭神は山幸彦と豊玉姫の子供の鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)で神武天皇の父です。
海人族のトヨタマ姫は、子供ができるとすぐに天孫族の夫と別れて実家に帰ってしまいました。
母系の先住民と父系の天孫族の結婚は、子供をどちらの家で育てるのかといった伝統が異なり、現代のような婚姻の継続が難しかったのでしょう。
古代の天皇家は母系を継承していました。
皇太子は母方の実家で育てられたので天皇と姻戚関係を結んだ豪族は権力を握ることができたのです。
父系の天孫族は母系の海人族と混血しながら勢力を広げていったのです。
海人族は神功皇后のあたりから歴史の表舞台から姿を消していきました。
縄文の末裔・海人族の歴史を住吉大社は物語っています。
https://blog.goo.ne.jp/tabijinja/e/cb845098dd59749032e44c3cacc4f3dc 【豊受大御神】より
<真名井神社 まないじんじゃ>
伊勢や皇室とのつながりが強調される籠神社ですが、その昔は海人族が信仰していた氏神神社であり、さらに古くは国津神をお祀りする場所だったともいわれています。
つまり、持統天皇により伊勢神宮が整備される前から、籠神社の原型は存在し、そこでは彦火明命ではなく、豊受大御神と呼ばれる国津神(元初の神)を、お祀りしていた可能性が高いのですね。
豊受大御神(とようけのおおみかみ)というご神名は、神様を丹後から伊勢にお招きする際に、諸々の理由で便宜的に付けられた名称です。
天照太御神(内宮)の力を維持するために、どうしてもこの「豊受大御神」を伊勢の地にお連れしなければならないということが、外宮を創祀した雄略天皇にはわかっていたのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/tabijinja/e/7c80350c5559cdb370b8533730572ea6 【海人族の聖地】 より
<伊雑宮 いざわのみや / いぞうぐう>
八咫の鏡を託された豊鍬入姫命が、大和の笠縫邑に安置されていた鏡を携え、まず最初に向かったのが丹後の国(真名井神社)です。
それから一旦、大和の国に戻ってきたのち、ご自身の家系に所縁の深い紀伊の国、そして吉備の国へと鏡を安置し、再び大和の国に入り、その役目を倭姫命に引き継ぎました。
これらの経路をたどっていきますと、豊鍬入姫命が目指したのは、その昔、天孫族(イスラエルの民)が、日本に渡来した際に上陸したであろう地点と重なっていることに気づきます。
そしてそれらはすべて、 海人族(先住民族)の拠点であり、倭姫命が最終地と定めたのも、
伊勢(磯部)という海人族の聖地でした。
豊鍬入姫命・倭姫命の巡幸というのは、自らの祖先神を祀った土地を巡る慰霊の旅です。
八咫の鏡という天津神のご分霊を、天津神とは毛色の異なる霊域に運び入れる役目は、
海人族の血を引く皇女でなければ無理だったのでしょう。
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