目に見えないものを見る力

http://www.okabem.com/essay/chapel6.pdf 【目に見えないものを見る力】 より

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

(「新約聖書」コリントの信徒への第 2 の手紙:4 章 18 節)

いま朗読していただいた聖書の箇所は、見えることと見えないことを区別して述べており、文章としてはたいへん明快です。しかし、その内容については、幾つか、私たちに考えさせることを含んでいるように思います。

確かに、目に見えるものは過ぎ去っていく、これはよくわかることです。一方、見えないものとは、果たして何なのか。また、見えないものに目を注ぐことがなぜ大切なのか。さらに、私たちはどのようにすれば見えないものを見ることができるのか、など一連の疑問が湧いてきます。本日は、これらについて私の考えと経験を述べ、皆さんの参考にしていただきたいと思います。

見えるもの

まず目で見えるものを考えてみましょう。それは、私たちの身の回りにあるほとんどのものが該当します。例えば、皆さんがコンビニで購入する各種の日用品、皆さんの住んでいる家、さらにお金など、直ちに多くのものを思いつきます。これらは誰でも分かるものであり、それらに共通しているのは、いずれも今ある状態が長く保たれるわけではないこと、つまり年月とともにモノは必ず朽ち果ててゆき、お金の場合は無くなってゆくことです。見えるものには「崩壊の定め」が作用するわけです。

こうしたモノだけでなく、より広くとらえると、日々私たちが色々な場面に接して抱く感情も、目には見えないけれども、私たちがいわば体で事態を見るもの、といえます。日々遭遇することがらに対して、私たちは、ああよかった、という時があれば、逆にああこまった事態だ、などと一喜一憂しています。

つまり、目に見える色々なモノ、お金、そして一時の感情などは、すべて過ぎ去るものです。したがって、私たちがそうしたものに依存している限り、それらは私たちに本当の安心や幸せをもたらしては、くれません。見えるものはすべて一時的な存在、ないし現象であり、したがって、それらを基礎として私たちが永続性のある深い歓びを得ることはできないわけです。

見えないものには二つの種類

では次に、目に見えないものとして、どんなものがあるでしょうか。例えば、携帯電話を思い起こしてください。むろん携帯電話機自体は、目に見えるものです。しかし皆さんが携帯電話で友人と会話したり、メールのやり取りができるのは、電波があるからです。電波は目に見えません。しかし、電波が存在することを疑う人はいないでしょう。目に見えないけれども存在するもの、電波はその一例です。

また冬になれば、皆さんは風邪をひく場合があります。それは、風邪のビールスによるものです。風邪のビールス自体、皆さんの目には見えません。目に見えないけれども存在するもの、ビールスもまたその例です。

ここで興味深いのは、電波であれ、風邪のビールスであれ、いずれも目に見えないけれども、私たちはそれらが存在することを信じているわけです。つまり、見えないものであっても、携帯電話や電子顕微鏡など、何らかの機械や器具を用いることによって確認できるので、私たちはそれらの存在を信じているのです。

これに対して、機械や器具を用いても見えないもの、そして機械や器具を使わなくとも見えるものが、実はあるのです。それはどんなものでしょうか。大正時代の女流詩人、金子みすずに「星とたんぽぽ」という詩があります。ご存知の方も、いることでしょう。

青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、夜がくるまで沈んでる、昼のお星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だアまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

(金子みすず「星とたんぽぽ」1926 年)

この詩の前半では、昼間に空を見上げても星はみえない、しかし星は昼間でも確かに存在すること(そしてそのことを誰もが知っていること)が歌われています。そして後半では、枯れ草となったタンポポを見ると、地表には現れていないけれども、地下に強い根を残していること(そしてそれは春がきて再びタンポポが咲くことによって証明されること)が歌われています。

つまり、夜の帳が降(お)りれば、それまで見えなかった星がみえ、また春になってタンポポの花が咲けば、タンポポの根が存在したことを私たちは知る、というわけです。このように、普段はそこにあることがわからなくとも、しかし実は常にそこにあり続け、私たちを支えてくれている、何かがあるのです。

こうした人智を超えた力を感知できるかどうか、それは主観的な心の持ち方、あるいはそれを見ようとする「心の目」を備えているかどうかによるといえるでしょう。

これら以外にどんなものがあるでしょうか。例えば、親の子に対する愛情、思いやりの心、精神、魂、霊魂などがあり、さらに人によっては神、天国などを挙げる人も、いるかと思います。これらのうち比較的受け入れやすいものの一例として「魂」があるかと思います。「魂のこもった作品」とか「大和魂」というように、人間の肉体に宿り心の働きをつかさどると考えられているもの、という意味で魂は一般に認識されています。しかし、これら多くのことがらは、いわば主観的に見た場合に初めて見えるものであり、それが客観的に見えるものである、と第三者に対して証明するのは困難な場合が多いものです。

見えないものが持つ大きな意味

だからといって、それらが無意味だというわけではありません。それどころか、見えないものを見ること、そして見えないものを見る力を身に付けることには、非常に大きな意味がある、と私は考えています。そうしたものとして、本日は二つを挙げておきたいと思います。

一つは「天の計らい」です。これは、むずかしくいえば恩寵(おんちょう、英語でいえば grace)であり、私たち人間を超えた大きな力(Higher Power)が私たちに恵み、「恩恵」(blessing)をもたらしていることを指しています。私たちがそれを見ようとしなければ、それは私たちに見えません。逆に、それを見ようと努力すれば、それは私たちの視野に入ってくるものです。

もう一つは、私たちそれぞれに与えられた「使命」(英語でいえば mission)です。4 年生の場合、今年 4 月に入社する会社は、いろいろな偶然が重なってこうなった、というような捉え方をする人がいるかもしれません。しかし、実はそうでなく、皆さんの使命のかけらがそこに存在するはずです。私たちの人生においては、たまたまそうなったとか、偶然にそうなったとか、いうことはほとんどない、と考える方がいろいろな事象をより深く理解できる、と私は考えています。「人生に偶然などない」、「深く考えてみると何事も必然に導かれた結果であることがわかる」という考え方1です。

1 高橋佳子『魂の冒険̶答えはすべて自分の中にある』第 3 章、三宝出版、2010 年。

以上申し上げた二つのこと、すなわち「恩恵」と「使命」という二つのことは、実は深く関連することです。なぜなら、私たちが恩恵を自覚するとき、私たちは自らがそれに応えるべき道、すなわち使命に導かれるからです。私自身、こうした目に見えない力によって二つが結び合わされたことを、経験的に認識しています。そして、この恩恵と使命という二つのことは、誰にとっても、見ようとすれば見えることだと確信しています。

私の経験とそこから言えること

私のこれまでの経験は、以上のことに密接に関連しているのでご紹介しておきましょう。大学卒業後、私は大きな組織(具体的には日本銀行)で働きましたが、そこで20 年あまり勤めたある日、上司から告げられました。「君の将来を考えると、このまま日本銀行にいるよりも、今後は学会にでてもらうほうが良いと思う」と。これは私の人生において最大のショックを受けた言葉であり、私は大きな試練に直面したのです。

詳細は省きますが、その後、いろいろな経緯があってアメリカのプリンストン大学をはじめ海外の幾つかの大学で教壇に立つ機会があり、今から 20 年前の 1994 年に日本に戻って大学に職を得ることとなりました。そして7年前に、ご縁があって明治学院大学の教員の一員になりました。この経験を通して私は三つのことを皆さんに伝えたいと思います。

第一に、人は試練に直面した時に、それまで見えなかったものが見えてくることです。私は、日本銀行においてもっと長期間働くつもりでしたが、その希望が絶たれるという試練に直面することによって、自分の本当の使命は大学における教育と研究であることを次第に確信するようになりました。これは、私の願望がくじかれたことに対するあきらめではありません。実は大学卒業当初からそのような願いを心の底で抱いていたので、この上司の言葉を聞いてから、自分は心底から、そして確かにそう思うようになったのです。試練は呼びかけであり2、従来私たちが気づいていなかったことを気づかせてくれるもの、さらにいえば試練は、逆説的ですが、ありがたい感謝すべきもの、になるのです3。

2 高橋佳子『Callingー試練は呼びかける』三宝出版、2009 年。

3 岡部光明『大学生の品格』3 章メッセージ 19 番、日本評論社、2013 年。

私の経験からいえる第二のことは、人には誰でも、人智を超えた力によって恵みが与えられていることです。私は日本銀行における長年の仕事を通して多くのことを身に付けることができましたが、それが、その後私の使命を確信させ、使命達成のうえでどれほど大きな意味を持ったことでしょうか。従来、そのことをあまり意識していませんでしたが、あるとき「そうだったのか」とそれを深く気づく瞬間がありました。

つまり、日本銀行に在職するというかたちをとって、目には見えない多くのことがらや人々に私は支えられてきたこと、に気づいたのです。

さきほどのタンポポの例でいうと、見えない根によって花が支えられていたのと同様、私も同様の事実をある日、突然、感知することができたわけです。見えるものではなく、これまで自分には見えていなかった真実に目が開かれたのです。そして、そのことに何と長年気づかないままでいたのか、と知ってがくぜんとしたのです。それに伴い、感謝の気持が湧いてきました。

第三にいえることは、自分に与えられた使命を自覚する一方、その背後には天の大きな恵みがあることを見るならば、すがすがしく、そして充実した生活が送れるようになることです。

私も日々、悩んだり怒ったりすることがむろんあります。しかし、そのような毎日でも、今ではすがすがしい気持ちで過ごせるようになっています。つまり、自分のこころの奥にある、はるかな願いを自覚する一方、天は常に大きな恵みを与えてくれることを信じるならば、たとえ大きな試練が訪れることがあっても、心がゆらぐことはなくなりました。試練は自分に対する何らかの呼びかけであると受け止めることができるようになり、心安らかな毎日が送れているわけです。

私にこのような生活ができるようになったのは、実は昔からではなく、白状すれば、随分時間がかかる過程を通してでした。しかし今では、このように見えないものを見ることが人生にとってどれほど大きな意味をもち、かつありがたいことであることかを確信しています。

見えないものを見るには

では、見えないものを見るには、どうすれば良いのでしょうか。見えないものを見る、というのは、矛盾した表現であり、パラドックス(逆説)です。しかし、見えないものを見る方法、感知する方法はあるのです。

それに言及した一例として、フランスの作家サン=テグシュペリの作品『星の王子さま』(原題 Le Petit Prince)の中の一節を挙げておきましょう。この物語では、別の星から地球にやってきた、ちょっと不思議な王子さまが、地球で色々な経験をすることが描かれています。その王子さまは、ある日キツネに会い、大切なことを教えてもらう場面があります。キツネは次のように言いました。

On ne voit bien qu'avec le coeur.

L'essentiel est invisible pour les yeux.

心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないんだよ。

大切なものは目には見えないんだから。

(Antoine de Saint-Exupéry, Le Petit Prince,1943)

つまり、こころで見れば、目には見えない大切なことがみえてくる、というわけです。言い換えれば「こころの中から聞こえてくる声に耳を傾ける」、「自分の内なる声を聴く4」ということです。そこには大切なメッセージが込められており、こころの目で見ることによってはじめて、それは見えるのです。

ただし、それは安易に見つかるものではありません。努力が必要です。自分は果たして心の奥にどのような願いをいだいており、そしてそれを果たすべく生まれてきたのか、そして自分の境遇には、どんなにありがたい力が働いているのか、を追い求める姿勢が条件になると思います。そうした努力をすれば、人智を超える力が見えない大切なものを見せてくれるはずです。

4 岡部光明『大学生の品格』3 章メッセージ 20 番、日本評論社、2013 年。

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」と聖書にも書かれています(『新約聖書』マタイによる福音書 7 章 7 節)。目に見えない大切なことを見る力、感知する能力は、私たち、誰にも与えられているのです。

結論

以上申し上げたことを、より具体的なメッセージとして引き直せば次のようになります。4 年生の皆さんは、4 月以降の進路を心の目で見つめなおしてほしいのです。

一見、偶然の重なりによってそうなったように見えても、深く掘り下げてこころで読み解くならば、そこには皆さんそれぞれの願いに関連する要素が必ず潜んでいます。

そしてその背後には、多くの人から与えられた助力や、人間を超えた大きな力のはたらきによる恵みを理解できるはずだ、と私は思います。

一方、3 年生以下の皆さんは、今後どんなミッションを果たすことが求められているのかをしっかりと心で問うてほしい。そしてこれからの学生生活を、単に卒業のための履修単位取得の観点から送るのではなく(むろんそうした視点も欠かせませんが)、皆さんそれぞれの願いに近づくことに、結びつけつつ勉強やサークル活動をしてほしいと念願しています。

人が人生を終えるとき、自分が集めた色々なものを次の世に携えてゆくことはできません。しかし、その人に与えられた使命を果たすことによって得られた喜びは人生の宝物になり、魂に刻まれて永遠に残るものになるのです。幸い、私たちには見えないものを見る力が与えられています。だから、皆さんがその力によってそれぞれの使命を見出し、それを果たすことによって、揺るぎない、幸せな人生を歩んでくださることを心から願っています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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