八重桜

https://blog.goo.ne.jp/t-hideki2/e/51b3038260a34bf0eb7b764582e48977  【八重桜】 より

 奈良七重七堂伽藍八重桜  芭蕉「ならななえ しちどうがらん やえざくら」と読む。

 上五がやわらかく、中七が強く豪壮に、下五がやさしく、また、母音‘a’が9回も繰りかえされて、全体が音楽的な階調を備えている。「七」と「八」とを対応させ、全体が名詞だけで成り立っている表現も特異な技巧である。

 『詞花集』の、「いにしへの 奈良のみやこの 八重桜  けふここのへに にほひぬるかな」(伊勢大輔)を心においた発想であるが、年代の古い『続山井』(寛文七年刊)に 「名所(などころ)や奈良は七堂八重桜  如貞」、『大井川集』に、「奈良の京や七堂伽藍八重桜  元好」などがある。芭蕉作と認めるにしても、芭蕉独自の句境とはいえないものがあろう。 

「奈良七重」は、「な」の頭韻をふみ、「七重」に「七代(ななよ)」を通わせ、奈良の都が七代七十余年つづいた意をこめて、下の「八重」とひびかせ、また七堂が立ち並んだ感じを呼び起こす手がかりとした表現。「ここのへ(九重)」の俳諧化ともなっている。

 「七堂伽藍」は、寺院の主要な七つの建物、つまり堂宇が具備された寺をいう。七堂は必ずしも確定しておらず、宗派によって異なる。たとえば興福寺であると、中堂・金堂・東金堂・西金堂・南円堂・北円堂・講堂がそれである。「伽藍」は、梵語で僧伽藍の略で、衆園・僧園と訳し、僧侶たちが住んで仏道修行をする、清浄閑静なところ、後に寺のことをいう。

 季語は「八重桜」で春。

「奈良は七代七十余年の帝都で、七堂伽藍が重畳(ちょうじょう)と立ち並んだ古いお寺が

多い。そこには昔から和歌に詠まれた八重桜が今も咲き誇って、まことに立派な古都である」

      ネモフィラの丘はつなつの太平洋     季 己


https://www.minyu-net.com/serial/enichiji/enichiji0425.html 【広大な寺域 十分に体感】 より

 ―奈良七重 七堂伽藍(がらん) 八重ざくら―。奈良の若草山を訪れた方で、この句碑を目にされた読者も多いであろう。芭蕉の作ともいわれる有名な句で、てにをはがなく、すべてが名詞で詠まれていることでも特異な作品だ。

 「奈良七重」は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁と、奈良時代七代続いた天皇を指し、さまざまな堂宇(金堂・講堂・塔・経蔵・鐘楼・食堂・僧房の七堂を示すともいう)を備えた南都の諸大寺を「七堂伽藍」(興福寺をはじめとする南都七大寺の意とも)で表して韻(いん)を踏んでいる。

 「小倉百人一首」にもあって、平安時代の歌人、伊勢大輔(いせのたいふ)の「いにしへの 奈良の都の八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな」を本歌としているらしく、八重桜は古歌にも名高い。ちなみにこの八重桜は、いわゆる豪華な牡丹桜ではなく、奈良県の県花にもなっている天然記念物の「ナラノヤエザクラ」という品種を指している。奈良の市街地では、季節で最も遅く咲く桜だ。

 さて、県内広しといえども、いわゆる七堂伽藍を備えた寺院はそうそうに目にすることはない。そのような大伽藍が、往時の慧日寺にはあった。中世に描かれた「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)恵日寺絵図」には、金堂や講堂をはじめ三重塔など、まさに「七堂伽藍」と呼ぶにふさわしい建物が所せましと描かれており、実際の発掘調査においても、中世はもとより古代に遡(さかのぼ)る礎石建物跡が中心部から何棟も確認されている。

 慧日寺跡の整備では、開祖徳一を含めた歴史理解の観点から、初期の伽藍を対象とした整備方針を採っているため、盛時の大伽藍をすべて表示することはできない。それでも竣工(しゅんこう)後は南都にも引けをとらない、広大な寺域の広がりを体感することが十分可能だ。

 寺跡の中心部は、南西に緩く傾斜する地形を階段状に整地して平坦面を造り、その上に建物を築いている。具体的には、まず金堂の南には中門があって、両者の間には石敷きの広場が広がる。

 一方後方には、2棟の建物跡が南北に並ぶ。南から七間×四間、五間×三間の規模で、いずれも礎石の配置から切り妻造りの堂宇であることが分かる。これらは、位置や規模などから講堂・食堂と想定される。

 講堂は、中心伽藍の中でも最大規模を誇る建物跡であって、それはすなわち徳一の教学研鑽(けんさん)の遺志を反映する。さらにこれらの東側、一段高い平坦面にも五間×四間の建物跡が残り、金堂・講堂と同じころの仏堂と考えられている。

 整備では、こうした建物跡を講堂・食堂といった北半部を平面表示、金堂を中心とした南半部を立体的な復元という2つの異なる手法をとった。文化財保護行政の立場からは、遺跡の保存あっての整備が第一義ではあるが、積極的な活用も提唱される昨今、建物復元を含めた整備を通して、当時の寺院空間の中心部をより具体的に理解することが、ひいては史跡全体を知る手助けとなると期待している。

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 桜花爛漫(らんまん)、会津にもようやく花の便りが届いた。金堂跡の裏手にも「種まき桜」と呼ばれるエドヒガンザクラの古木がある。800年以上もの昔、慧日寺の宗徒頭(しゅうとがしら)であったという乗丹坊(じょうたんぼう)が挿した桜の杖(つえ)が、この木になったという伝承から「木挿し桜」の別称を持つ。

 毎年、小さく白い可憐(かれん)な花を付け、粉雪を掃いたように舞い散る散り際もまた美しい。今年も間もなく見ごろを迎えそうだ。みちのくに花開いた七堂伽藍。いにしえに思いを馳(は)せながら、山あいの春を愛(め)でて一句いかがであろう。

 磐梯町のホームページでは、桜の開花情報を随時更新している。併せて、ご覧いただければ幸いである。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)


http://kigosai.sub.jp/001/archives/16526  【八重桜】 より

やえざくら/やへざくら

晩春

牡丹桜

八重咲きの桜。花期は遅く、四月末から五月上旬にかけて開花する。ぼってりとした花房は、ほかの桜とは異なった艶やかさをもつ。開きかかった花びらを摘んで桜漬にする。

奈良七重七堂伽藍八重桜      芭蕉「泊船集」

花守や夜は汝が八重桜       一茶「発句題叢」

八重桜盛りの後をおもひけり    原石鼎「原石鼎全句集」


https://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201904230000/ 【 きたまち「奈良八重桜」巡り】 より

4月21日(日)奈良女子大学記念館前に集合して、30分の講演の後、「奈良八重桜」を巡る会に参加した。主催は奈良女子大学東門前「旧鍋屋交番のボランティア」

伊勢大輔が詠んだ古歌

「いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな」

時は西暦千年頃、興福寺の珍しい八重桜の噂を耳にした天皇の后、中宮彰子は、興福寺の別当にその八重桜を京の都まで持ってくるように命じた。別当は八重桜を掘り起こし、荷車で京に向かって出発した。その直後、僧の一人に呼び止められた。「命にかけてもその桜、京へは渡せぬ」。無骨で有名な興福寺の僧たちにも花を愛する心があったのか・・・。心打たれた彰子は、伊賀の国余野の庄を興福寺に寄進し、興福寺の八重桜が満開になる一週間、宿直をおいて余野の村人に八重桜を警備させた。

この事件をきっかけに、興福寺から毎年京都の宮中に奈良八重桜が献上されるようになった。ある年、その受け取り役に、新人女房である「伊勢大輔」が抜擢された。その際、時の権力者藤原道長に、ついでに歌も詠んでみなさいと命じられた。皆が固唾をのんで見守る中、伊勢大輔は「いにしえの~」と、見事な歌を披露した。

興福寺の東円堂は今はなく、その跡地である奈良公園バスターミナル前に「八重桜古蹟」と彫った石碑と若木がある。

「奈良八重桜」は市章や奈良女子大学校章にもなっている。

先日も紹介したように「奈良八重桜」の開花は5月ころであり、今年はまだほとんど咲いていない。

ナラノココノエザクラ「奈良九重桜」→ ヤマザクラが重弁化

ナラノヤエザクラ「奈良八重桜」→ カスミザクラが重弁化


芭蕉が「奈良八重桜」を詠んだ句

 ​​奈良七重 七堂伽藍 八重桜 ​​  七ー七ー八

 奈良の都は七代(元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁)続き

 寺院の大伽藍は七堂伽藍(塔、金堂、講堂、食堂、僧房、経蔵、鐘楼)が

 立ち並んでいる。奈良八重桜が美しい。

明らかに「伊勢大輔」の句を意識している。

この頃は暑さを感じるような陽気である。

桜の最後を飾る由緒ある「奈良八重桜」を来週あたりには再び愛でに奈良公園に足を運びたい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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