「古池や蛙飛び込む水の音」と英訳

https://blog.goo.ne.jp/ryujin9200/e/0b8a4cc52d4a433ff5c1b438cfcb5ed3 【「古池や蛙飛び込む水の音」と英訳、そしてビジネス】より

アメリカ企業に勤めていたときに、アメリカ本社から会長と社長が来日し、通訳としてディナーに駆り出されたことがありました。 一人の日本人重役が、「日本には、俳句という優れたポエムがあります。『古池や蛙飛び込む水の音』というのです」と言いました。

食事を取りながら、必死になって通訳していた私は、えっ、と固まってしまいました。今でこそ、短歌を少々嗜みますが、まだ、30代では、芭蕉の句を解釈し、訳すという能力は、当然ありませんでした。しかも即興では。何とか、言葉を連ねて、その場をやり過ごしました。

Matsuo Bash・ Frog Haiku というサイトを見つけました。この芭蕉の句を31人が訳しています。英語の詩は、韻を踏まなければなりませんが、俳句を英訳する場合には、韻を踏まなくてもよいようです。

その中で、有名な人の訳を2つ見てみます。

古池や 蛙飛び込む 水の音

The ancient pond

A frog leaps in

The sound of the water.

(ドナルド・キーン訳)

Old pond - frogs jumped in - sound of water.

(小泉八雲=ラフカディオ・ハーン訳 )

ドナルド・キーンは、蛙が一匹いたとして、訳していますが、小泉八雲は、蛙を複数いたとしています。日本語は、単数か複数かの概念がないので、訳す場合には、もし、原作者に聞くことができない場合には、訳者が想像するしかないのです。これは、俳句だけでなく、すべての和文英訳に言えることです。キーンの世界では、一匹の蛙が、ぽちゃーんと古池に飛び込んだ様子が感じられますが、八雲の世界では、かなり賑やかな池の様子が感じられます。

また、キーンは、現在形を使っており、一方、八雲は、過去形を使っています。キーンの場合には、この句を読んでいる人たちの目の前で一匹の蛙が飛び込む様子、水音が響いてくるような感じがあります。一方、八雲の訳では、過去形にすることによって、すべて一連の動作が終わり、静けさが漂って来る感があります。

いろいろな訳をしてもどれが正解ということはないんだとわかって、ほっとしました。そして、俳句 (Haiku) が、多くの外国人に受け入れられていることを、このサイトで知りました。

海外とのビジネスにおいて、重役レベルになると、こんなことも話題になるということを、若い方には知っておいていただきたいなと思います。

https://www.ndsu.ac.jp/blog/article/index.php?c=blog_view&pk=15695551900007&category=&category2= 【古池に蛙は何匹飛び込んだのか?|東城 敏毅|日文エッセイ172】 より

【著者紹介】

東城 敏毅(とうじょう としき)

古典文学(上代)担当 古代和歌、特に『万葉集』について、研究を進めています。

古池に蛙は何匹飛び込んだのか? 蛙は単数? 複数? 言わずと知れた松尾芭蕉の著名な俳句、 古池や蛙飛び込む水の音

 さて、これを英訳する場合、「蛙」は"a frog"なのでしょうか、"frogs"なのでしょうか。私たち日本人(現代人)の感性から言えは、以下のように考えるのが自然ではないでしょうか。

静寂さに包まれる小さな古池。その古池は、訪ねるものも少なく、寂しげな雰囲気を漂わせている。

と折しも、蛙が一匹、池に飛び込み、ポチャンと小さな水音を立てる。静寂さを、ほんの一瞬打ち破る小さな微かな音。水面には、飛び込んだ後の小さな痕跡が、ほんの僅かな波紋として、揺らめいている。静寂さはなおいっそう古池を覆っている。

 確かに、このような解釈は、私たちの感性に合っているようです。海外の研究者も、やはり"a frog"と翻訳する場合が多いようですが、逆に、"frogs"と複数で翻訳されている方もいます。あの著名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がその一人です。

Old pond―frogs jumped in―sound of water.

 ハーンは、来日後、松江・熊本、また帝国大学や早稲田大学で英語・英文学を教授しつつ、日本人の庶民の日常生活と宗教や風俗を探究し続け、1896年には帰化し小泉八雲と名乗りました。日本人の心性を追求したその成果は、『怪談』や『骨董』の作品群に集約されていますが、ハーンは、かつての日本人が持っていたであろう心の痕跡を後世に残したと言えましょう。この古池の俳句の翻訳は、"Exotics and Retrospectives"(「異国風物と回想」1898年)の"frogs"というエッセイに収載されていますが、そこでは、蛙に関する和歌や俳句を数多く取り挙げ、西洋と日本の蛙のイメージの相違について考察しています。

このように、蛙に異国情緒を感じ、そこに日本の記憶を見出したハーン。では、私たちよりも、日本人の心性を把握していたはずであろうハーンが、なぜ"frogs"としたのでしょうか。そこには何か意図があるはずです。

蛙は古池に飛び込んだ?

 さらに単数・複数の問題のみならず、俳人の長谷川櫂氏が、その著『古池に蛙は飛びこんだか』において論じられたように、蛙自身、古池には飛び込んでいないのではないか、とする問題も存在します。なぜでしょうか。「古池や」の切れ字を無視すべきではない、というのが、その理由です。俳句は切れ字によって、二つの景を作り出す。「古池」という景と「蛙飛び込む水の音」とは別の景であり、「蛙が水に飛び込む音を聞いて芭蕉の心の中に古池の面影が浮かんだ」と捉えるべきだとされたのです。

 また、古池の俳句はもともと、初句が「古池」とは定まっていなかったことも想起するべきでしょう。以下は、芭蕉の弟子である支考が、その著『葛の松原』において、この俳句の成り立ちについて述べている箇所です。

弥生も名残お(を)しき比にやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、「蛙飛こむ水の音」といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて、「山吹」といふ五文字をかふ(う)むらしめむかと、を(お)よづ(ず)け侍るに、唯「古池」とはさだまりぬ。芭蕉が、もし晋子(宝井其角)の言葉に従っていれば、この俳句は、山吹や蛙飛び込む水の音 だった可能性もあるのです。もしこの俳句が、「山吹」で始まっていたら、山吹と蛙を一緒に詠み込むという、和歌の伝統からは一歩も出ず(確かに、水に飛び込む音を詠むのは斬新ですが)、蕉風の確立とはならなかったかもしれません。「古池」は、そのような意味でも、新たな斬新な言葉だったのです。

再び、蛙は単数? 複数?

さて、話を単数・複数に戻しましょう。なぜハーンは複数に翻訳したのか。

俳句の二つの景を考えるならば、「古池」の景と「蛙飛び込む水の音」の景、それぞれ二つの別の景を考えるべきでしょう。古池という、あまり誰も立ち寄らない静寂な閑散な風景。仮に、その景に蛙が一匹だと、二つの景はありきたりの一つの景に溶け込んでしまい、二つの景の対比が、消えてしまうでしょう。先ほどあげた『葛の松原』にも、「蛙の水に落る音しばしばならねば」と、わざわざ書いているように、頻繁ではありませんが、一匹、一匹と飛び込む音が聞こえていたということでしょう。つまり、春になり、新たな蛙(生命)の息吹が一つ、また一つと感じられたのではないでしょうか。新たな生命の息吹が、誰も立ち寄らない古びた池にも見出され、そこにこそ、この俳句の趣があったのではないでしょうか。

 芭蕉には、「古池や」の俳句と、以下の俳句を並記する真蹟懐紙が残されています。

ながき日もさえづりたらぬ雲雀(ひばり)かな     (出光美術館蔵)

 この俳句は、まさに春爛漫のさなか、さえずり足りない雲雀の姿に春の景を見出していますが、この二句を一緒に書き写した芭蕉の心、それは新たな生命の息吹と喜びではなかったでしょうか。したがって、やはり蛙は、春の生命力の充溢さを示すべく、複数でなければならなかったと思うのです。

 ハーンは、その芭蕉の心に寄り添っていたのではないでしょうか。

 さて、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」。蝉は単数? 複数?

〔参考文献〕

・大磯義雄・大内初夫校注『蕉門俳論俳文集』(集英社、1970年)

・大谷篤蔵監修『芭蕉全図譜』(岩波書店、1993年)

・長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』(中央公論新社、2013年)

・Lafcadio Hearn, Exotics and Retrospectives, The Writings of Lafcadio Hearn, Ⅸ,

 Boston:Houghton Mifflin,1922.

小泉八雲、平井呈一訳『仏の畠の落穂・異国風物と回想』(小泉八雲作品集 第8巻)(恒文社、1964

年)

*ラフカディオ・ハーンにつきましては、群馬工業高等専門学校教授、横山孝一先生にさまざまなご教示を賜りました。末筆ながら感謝申し上げる次第です。


http://midomidotacnet.blog.fc2.com/blog-entry-172.html 【『古池や 蛙飛び込む 水の音』 - 【英訳】】 より

  古池

北海道も市街地はすっかり雪が融けた。

子供の頃すんでいた田舎では近所に水田があり、5月になるとそこに水が張られた。

そうすると、種類はよく分からないが、カエルがそこに卵を産んだ。

寒天のような塊の中に黒いツブツブがいっぱい入っていた。

それを手に持った時の、プニュプニュした感触が楽しかった。

時間が経つと、その一個々々のツブツブがオタマジャクシになっていった。

カエルを題材にした俳句では松尾芭蕉のものが有名だ。

  『古池や 蛙飛び込む 水の音』

 小学校の教科書に載っていたので、まず日本人なら誰でも知っている句だろう。

蛙はカエルではなく『かわず』と読む。

これはカエルの古語なのかと思っていたが、そういったわけではないようである。

歌の世界でカエルのことを『かわず』と表すということのようだ。

何のことかもう少し調べてみると、『かわず』とは本来『カジカガエル』のことだったという。

このカエルは北海道にはいないので私には良く分からないが、とてもきれいな声で鳴くという。

かつて歌人達は、ウグイスや鈴虫と同じようにその鳴き声を愛でたらしい。

カエルの声というのは悪声の例えかと思っていたので、ちょっとこれは驚きだった。

こういった訳で、歌の世界ではカエルのことを『かわず』ということとなったという。

ちなみに、カジカカエルの雄は暖かくなってくると、鳴いて求愛するため、カエルが春の季語となったとのことだ。

 この芭蕉の句がどんな風に英訳されているか調べてみた。

結構、色んな人が色んな風に訳している。

違う国の言葉なのだから、皆5-7-5の音節数なぞは気にしていない。

ここでは5人の訳を比較してみた。

小泉八雲は『雨月物語』といった怪談を英訳し世界に紹介した人である。

ドナルド・キーンはアメリカの日本文化研究の第一人者であり、日本国籍を取得している。

バジル・ホール・チェンバレンは『古事記』などを英訳したイギリス人である。

レジナルド・ホーラス・ブライスは昭和天皇の人間宣言起草に関わり、今の天皇の英語の先生だった。

ハリー·ベン は映画『西部戦線異状なし』などを手掛けたアメリカの脚本家である。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

 Old pond / Frogs jumped in / Sound of water.

ドナルド・キーン

 The ancient pond / A frog leaps in / The sound of the water.

バジル・ホール・チェンバレン

 The old pond, Aye!/ And the sound of a frog / leaping into the water.

レジナルド・ホーラス・ブライス

 The old pond. / A frog jumps in / Plop!

ハリー·ベン

 An old silent pond… / A frog jumps into the pond, / splash! Silence again.

 初めに、最初の上五、『古池や』の部分についてみてみる。

    

まず、池=『pond』に冠詞を付ける人と付けない人がいる。

そして冠詞を付けた人でも、定冠詞『the』派と不定冠詞『a(n)』派に分かれる。

『the』を付けた人は、その池がある特定の池としたということだろう。

芭蕉の住んでいた芭蕉庵のそばには、川魚用の生簀の池があった。

定冠詞を付けた人は、その池と特定したのだろう。

『a(n)』をつけた人はもっと一般的に『ある池』といった感じだろう。

小泉八雲は冠詞を全くつけていないが、これはこの『古池』が現実の池ではなく、空想の池としているということなのだろう。

この『古池』を芭蕉の心が生み出した『心像』とした。

 また、『古池』の『古い』を表すのに、二つの別々の形容詞が使われている。

ほとんどの人は『old』という言葉を使っている。

『old』はその池ができてから時間が経過し、単に古いという意味となる。

それに対し、ドナルド・キーンは『ancient』という言葉を使っている。

これは非常に古く、古代からのといった意味が含まれる。

ハリー·ベンはさらに『old』の前に本来の句にはない言葉を付け加えている。

『silent』という形容詞である。

カエルが飛び込んだ音が聞こえてくるわけだから、当然その辺りは静か=『silent』だったということは想像できる。

それにわざわざ彼は、『silent』という言葉を入れ込んだ。

そして最後にも『Silence again』と付け加えている。

彼は直接書かれていない『静けさ』をこの句の主題ととらえたのだろう。

 また、この上五の最後でも、元句にないものを付け加えている人もいる。

チェンバレンは『Aye! 』、ハリー·ベンは『…』を足している。

これは切れ字『や』に相当させたのだろう。

ここで考えてみるに、『古池【や】 蛙飛び込む 水の音』を

『古池【に】 蛙飛び込む 水の音』としたらどう感じは変わるだろうか?

この『に』を使うと、単にカエルが池に飛び込んだという事実の説明となってしまう。

しかし、『や』を使うと『古池』と『蛙飛び込む 水の音』は別のものとして存在した上で、密接に影響し合い、ある種の共鳴現象を起こす。

共鳴の余韻を残す。

チェンバレンやハリー·ベンはそれを表現したかったのだろう。

 次に中七、『蛙飛び込む』についてみてみよう。

   飛ぶカエルC

飛び込むという動詞については大体『jump』という言葉が使われている。

さらに、現在形が多い。

これは今まさに飛んでいるのだ、といった臨場感を出しているのだろう。

それに対し、小泉八雲は過去形としている。

その上、主語を『 Frogs』と複数形にしている。

これは、複数のカエルが大勢で一斉に池に飛び込んだという事だろうか?

聞こえてくる音は『ポチャ、ポチャ、ポチャ、ポチャ・・・』。

ほとんど喜劇のアクションである。

しかし、小泉八雲は複数形とした。

なぜか?

実はこれは複数を表しているのではなく、カエルという種全体を表しているのだろう。

『Dogs are faithful animals. 』=『犬というものは忠実な動物だ。』と同じ用法である。

これは多分『Old pond 』に冠詞を付けてないのに呼応している。

先にも書いたように、小泉八雲はこの句を松尾芭蕉の『心像』と捉えた。

そして、それをより抽象化するために『Frogs』=『カエルというものが』とした。

さらに、『jumped』と動詞を過去形として距離感を出し、幻想的にぼやかした。

この飛ぶという動詞だが、殆どが『jump』という言葉を使っているが、ドナルド・キーンとチェンバレンは『leap』という言葉を使用している。

『jump』とは一般的に飛び跳ねることだが、『leap』となると、より大きく飛び跳ねるということになる。

飛躍といった感じになる。

大きな軌跡を表現したかったのだろう。

また、『jump』『leap』に続く前置詞は『in』や『into』が使われている。

これは動詞に対応しているわけでもなく、独自に選択されている。

『in』は単に中へと言った感じだが、『into』だとドンドン中へ、といった動きが感じられる。

だから、この場合の『into』はカエルが水中に深く潜り込んだ感じを出している。

 最後に下五の『水の音』をみてみよう。

   ボチャン

これは大きく分けて2つの方法がとられている。

一つは『水/の/音』といった具合に言葉をつなぐ方法。

もう一つは擬音語を使う方法だ。

ブライスとハリー·ベンは擬音語方式を用いた。

それぞれ『Plop!』『splash!』という擬音語が使われ、共に感嘆符で強調されている。

共に『ポチャン!』といった擬音語だが、『Plop! 』は音のみに対し『splash!』は周囲に飛沫が飛ぶ感じを含む。

言葉をつなぐ方式の方だが、これも音=『sound』や水=『water』に冠詞が付いたり、付かなかったりしている。

冠詞が付く場合は定冠詞である。

『その』と特定する。

ところが、小泉八雲はここでも名詞に冠詞を付けない。

単に『Sound of water』である。

これは、『Old pond』に冠詞をつけなかったのと同じ理由によるのだろう。

つまり、この句を芭蕉の『心像』とした。

英語圏の人にとって、普通名詞に冠詞を付けないという事は非常に違和感があるだろう。

しかし、小泉八雲はこれらの普通名詞を芭蕉の『心像』という『抽象概念』とした。

『抽象概念』は数えられない。

それで、冠詞がない。

 よく言われることであるが、芭蕉は現実の事象の単なる描写をしているわけではない。

    『荒海や 佐渡によこたふ 天の河』

これは、芭蕉が『奥の細道』の旅に出かけた際に、越後 出雲崎で詠まれたものされる。

しかし、海が荒れるような荒天であれば、雲やガスで天の河も佐渡ケ島も見えないはずである。

また、

    『一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月』

こういった句もあるが、同行していた曾良の詳細な日記にそのような記述はないという。

芭蕉はペテン師だったのだろうか?

いや、そうではない。

芭蕉は単なる事実の描写を俳句とは考えていなかったのだろう。

それでは芭蕉は俳句で何を描こうとしたのか?

それは『風情』(ふぜい)だったのだと思う。

『風情』とは日本古来からの世界観、人生観といったものが一つに統合された、ある『心持ち』の事である。

『境地』という言葉に置き換えても良い。

芭蕉はこれを寂(さび)といった。

日本民族としての『基層』である。

この心の奥底触れられると、非常に心地良く、平安な気持ちに導かれる。

これを芭蕉は表現しようとしたのだ。

俳句に表現された事象は『風情』を表出するための手段に過ぎないのだ。

だから、俳句の内容が事実であるかどうかと言った事はどうでも良いことになる。

芭蕉は推敲に推敲を重ねながら『風情』に近づいていった。

そういった意味で、小泉八雲が『古池・・・』の句を芭蕉の『心像』ととらえたのは慧眼だったと思う。

 たいしたものでもないが、勉強の成果を踏まえ、最後に自分でもこの俳句を英訳してみた。

区切りで行変えをした方が伝わると思ったのでそうした。

日本民族の基層を外国語で表現できるのか?といった基本的な懸念がないこともない。

しかし、好き嫌いに関わらずグローバル化の時代である。

理解し合うことは必要なのだろう。

それとも『基層』は他の民族ともつながっているのだろうか?

 Primitive pond・・・,

 a frog leaped in,

 splash! 

<in the calm spring・・・>

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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