俳句的死に方 長谷川 櫂

https://gaunji.com/%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E7%9A%84%E6%AD%BB%E3%81%AB%E6%96%B9%E3%80%80%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D-%E6%AB%82/  【俳句的死に方 長谷川 櫂】 より

死というと漠然としていますけれども、実は二つの意味があって。一つは死の入り口です。入り口というのは、いろんな病気であるとか、老衰であるとか、あるいは事故であるとか、そういうものを指して、これを死と呼んでいる。肉体的に言うと、心臓が止まって脳が死んでという、これがいわゆる死の入り口です。

それと死という場合、もう一つ、死の奥を指していることがあって、死んだ後どういう世界が待っているかということです。仏教でいう地獄極楽です。キリスト教には天国という言葉もあるけれども、そういう死後の世界のイメージを抱く人もいる。

この二つを分けて考えると、死の入り口と死の奥というのがあって、死の入り口も自分が一体どういう死に方をするのかは分からないわけだけれども、それから先の死後の世界となると、ますますこれは分からないということです。これが一つの大きな問題で、われわれは死を恐れるといっても、自分の死を知らないで死を恐れているわけだから、要するに知らないものを、幻を恐れているというところがありはしないかということです。

皆さんはお気付きになっているかどうか、「シ」(死)という言葉は元々、日本の大和言葉にはなかった言葉なんです。これは中国と日本が交流していく中で、漢字として日本に入って来た、つまり仏教が伝わったのと同じころに日本に入ってきた中国語でありまして、名詞で言うと「死」、動詞にすると「死ぬ」です。

これは「死」という言葉に「ぬ」という言葉を付けて日本で作った動詞なんですけれども、中国から「死」という漢字が伝わって来る以前は、日本人は死ということを知らなかったということです。つまり死という漢字、言葉からわれわれがイメージするような死を、大昔のわれわれの先祖は知らないでいたということで、われわれが「死」に抱くさまざまなイメージは言葉が生み出す一つの幻であるわけです。

古来、日本では、死ぬことを「なくなる」と言うんですね。なくなるというのは目の前からいなくなるということで、どこかへ行くわけです。じゃあ、どこへ行くかというと、山とか海へ行っていた。これが昔の死です。

だから死という言葉からイメージすると、死を境にしてどこか死後の世界へ行くような、別の次元の世界へ行くような感じがしますけれども、日本人はそういう考え方、抽象的な考え方をしなかった民族で、ここにいなくなって山や海へ移る、これが死なんです。

で、死と生の間にはっきりした境界がない。これが大昔の日本人の死の考え方だろうと思います。逆に言うと、生と死が連続している。例えば、赤ん坊が生まれる場合は「くる」です。どこからか来るわけです。お盆に魂が帰ってくるのも来るわけです。もし本当に極楽浄土へ行っているのだったら、極楽浄土からはるばる帰って来なくてはいけないわけです。しかも極楽浄土は結構、居心地のいい所らしいから、わざわざこの娑婆〔しゃば〕へ戻って来る必要もないわけでして、絶対に来ない。

だけど、裏の山とか近くの海岸とか、そういう所に行っている先祖の魂が帰ってくるというのが大昔の日本人の死の捉え方だったろうと思います。つまり死と生がそれほど隔絶していないわけです。

何かに「帰る」という言い方は、大昔の日本人の感覚を伝えている言葉だろうと思います。土に帰る、大地に帰る、あるいは宇宙に帰る、混沌の世界に帰ると言ってもいいわけですが、何かこの世と連続した場所へ帰っていく、あるいは移動するというのが、日本人が抱いていた死のイメージじゃないかなと思うわけです。

この大昔の日本人の死のイメージについて、実は俳句の世界にはおもしろい資料がありまして、それは皆さんもご存じの『奥の細道』です。あの松島のくだり、あるいはあの立石寺のくだりです。松島のくだりでは雄鳥という島に行くと、そこに幾つもの洞窟があって、お坊さんや世捨て人の修行の場所になっているということが書いてある。その海岸の洞窟というのは、元々、松島の近くの得で亡くなった人をそこへ納める。そうすると波が洗ったり風が洗ったりして亡き殻を清めてくれる。そして魂はそのまま海岸にいるわけです。

松島に瑞巌寺という大きなお寺がありますけれども、あそこも山門を入って右側に崖がありまして、その崖に洞窟がいくつも造ってある。あそこも仏教の修道者たちのすみかだったと言われていますが、元々は人を葬った場所でしょう。そこに魂は漂うわけです。

もっとはっきりしているのは山形の立石寺です。巨大な岩山が空中にそびえていて、あの岩にも洞窟がいくつもあって、ふもとの里で人が亡くなると、その洞窟に納めておく。そうすると風が吹いたり鳥が食べたりして、亡き骸が清められていくという世界。そうすると、山に魂が残る。だからお盆になったらすぐ里に帰って来てくれる。

こういう死者と非常に近い世界をわれわれは持っていて、漢字の死から死をイメージするようになっても、元々日本人が持っていた感じは、いまだに根強く残っているんじゃないかと思うわけです。

問題は死後、意識が残るかどうかですね。意識はもちろん残るんだという方もいらっしゃるし、意識は消えてなくなるだろうという人もいますが、僕はこれはよく分かりません。(「元々日本人が持っていた感じは、いまだに根強く残っている」という説との矛盾??意識と魂は別だという意味でしょうか???)死んでみないと分からない。一応、死の入り口でさっき言った死を迎える時に、意識は消滅してしまうと生きている人間は考えているわけです。だけど実際は残っているかもしれない。

この意識の消滅を、人間はすごく恐れる。(火の鳥伝説は???)自分がこの世を把握できなくなってしまうことに対して、恐怖を抱くわけです。元々混沌とした宇宙があって、そこに人類が生まれた。人類が生まれて意識を持ち始めるわけです。つまりものを見て考える。やがて言葉を生んで、言葉がこの世界に秩序をもたらすわけです。

意識が目覚めて言葉を持つことによって、この世に秩序をもたらす。もしこの世界に言葉がなければ、灰色の世界が続いているはずです。そこで、これは時計である、コップであると名付けることによって、ものがその姿を取ってくる。人類が生まれて、意識を持って言葉を持つことによって、この世界が誕生する。

そうすると、逆に言葉を失って意識を失って混沌の世界に帰っていくというのは、人類がやってきたこととは逆さまのことになるわけですから、恐るべきことであるわけです。だから、人間は本能的に意識を失う(潜在意識に漂うことを怖れるという意味でしょうか???)ということを恐れるということが言えるのではないかと思います。

 死について、こういうことを幾つか考えたんです。次は具体的な例をお話ししようと思います。(俳人)〈令和元年六月一日(土)第84回円覚寺夏期講座 講演録より 四回連載の二回目〉

◎長谷川 櫂(はせがわ かい)

 954年、熊本県生まれ。俳人。俳句雑誌「古志」前主宰、インターネット歳時記「きごさい」代表、朝日俳壇選者。『俳句の宇宙』でサントリー学芸賞、句集『虚空』で読売文学賞受賞。

著書に 『俳句的生活』『和の思想』『俳句の誕生』、句集『沖縄』『九月』『震災歌集 震災句集』などがある。インターネットのサイト「一億人の俳句入門」で「ネット投句」「うたたね歌仙」を主宰。岩波書店「図書」でエッセイ「隣は何をする人ぞ」を連載中。

和尚からの蛇足

鎌倉の円覚寺で発行している小冊子「円覚」を読んでいて、面白い記事があったので、掲載します。

誰しもある年齢になると「死」ということが気にかかってくるものである。俳人である長谷川氏の日本人がもっている意識についての文章にハッとさせられた。

「中国から「死」という漢字が伝わって来る以前は、日本人は死ということを知らなかった」というのだ。そして「死ぬことを「なくなる」と言い」「山とか海へ行っていた。これが昔の死」というのである。

毎年お盆になると先祖の魂が山から下りてきて、「すぐ里に帰って来てくれる」という信仰と仏教のあり方との整合性に多少の戸惑いを感じている。これは容易には解消することは出来ないであろう。長谷川氏の文から分かるように日本人の古来からの信仰に根ざしているのである。

「意識が目覚めて言葉を持つこと」と「逆に言葉を失って意識を失って混沌の世界に帰っていく」ことがある。意識を失うことを怖れることは、最近ではやらなくなってきた棺桶に釘を打って封じて魂がどこかへ行かないようにしていることに通ずるとわたしは解釈している。わたしたちの心の奥底にある大切な思いが、ここに甦〔よみがえ〕ることを覚える。


https://sadanji.hatenablog.com/entry/2019/01/26/104704  【死の種子】 より

『俳句』2月号を買う。冒頭の特別作品50句で長谷川櫂の「死の種子」と穏やかならぬタイトルが出ている。病名はわからぬが死に直面し手術を受けたことが俳句に詠まれている。死ぬことはわかっていても、それは他人事にしておきたいのが人情。しかし、誰もが直面しなければならない問題でもある。これは考えてもしかたのないことかも知れぬが。

生きてきた年数を、この後生きることができるかと言えば不可能。永遠に生きたいとも思わぬが、せめて毎日を充実したものにしたい。

白桃や命はるかと思ひしに

長谷川櫂の句。


デスエヂュケーションは ?

死と再生はセットでは???


http://gokoo.main.jp/001/?p=4937 【《俳句の相談》俳句はなぜ短いか②禅の思想】より

もうひとつは中国の宋・南宋から伝わった禅の影響が考えられます。

禅は言葉に対してふたつの相反する考え方をもっています。

1)言葉では真理に到達できない。つまり言葉を信用しない。

2)しかし言葉は真理に到達するための有効な手段ではある。

このふたつの考え方が合わさると、言葉は短くなるしかありません。

禅の語録に残されている禅の言葉が短いのはそのためです。

中世以降、禅のこの思想が日本に流れこみ、そのなかから短い俳句が誕生したと考えられます。


https://mainichi.jp/articles/20180506/ddm/015/070/026000c 【小島ゆかり・評 『俳句の誕生』=長谷川櫂・著】 より

周到な用意とゆるぎない論旨で核心に

もっとも基本的な問いが、もっとも本質的な問いである。たとえば、<わたし>について考えようとするときはじめにあるのが、「わたしは誰か」という問いであるように。果たして、俳句について考える本書の序文は「俳句とは何か」。

俳句入門でまず教えられるのは、目の前にあるものを言葉で写しとる、いわゆる写生。しかしやがて、それだけではロクな俳句ができないことに誰でも気づく。さて、どうする。「そこに何か決定的な見落としがあるのではないか」。これが本書の出発点である。

正岡子規による俳句革新の中心にあった方法論・写生は、対象を凝視し精神を集中することが求められる。しかし、「俳句ができるのは精神を集中させているときではなく、逆に集中に疲れて、ぽーっとするときである」という。重要なのは、集中ではなく遊心ではないか。(それは遊び心ではなく 顕在意識が鎮まるとき。集中した弛緩、その時潜在意識に触れるという意ではないでしょうか???)詩歌論としても実作論としても、これは見逃せないところだ。挑発的なように見えて、じつは周到な用意とゆるぎない論旨をもって核心へ攻め込む。長谷川櫂の文章のお…


http://sanova.site/?eid=254 【『俳句の誕生』(筑摩書房)長谷川 櫂 著】 より

俳句の衰退は本当に批評の衰退が原因なのか?

若き長谷川櫂の著書『俳句の宇宙』は流行のポストモダン的発想に依拠していたとはいえ、俳句における「場」の重要性を丁寧に説明しきったという点においては、なかなかにすぐれた本であったと思います。

しかし、本書『俳句の誕生』では「場」という言葉がどこかへと消えてしまって、「主体の転換」などというような批評的な用語を無理して用いているため、かえって内容が不確かで乏しいものとなっています。

本書の第一章はまさに「主体の転換」と名付けられています。

岡野弘彦、三浦雅士と長谷川による連句が紹介されていて、「歌仙を巻く人々の間では主体の転換が次々に起こる」ことを説明していきます。

ここで「主体の転換」という言葉について考えておきたいのですが、長谷川は「歌仙の連衆は自分の番が来るたびに本来の自分を離れて別の人物になる」こととします。

わかりにくいので、長谷川の説明を引用しましょう。

では主体が入れ替わるとはどういうことなのか。ある一人の連衆についてみれば、彼は付け句を詠むたびに本来の自分を離れて、しばし別の主体に成り替わるということだ。これは一時的な幽体離脱であり、魂が本来の自分を抜け出して、別の主体に宿るということである。そのしばしの間、本来の自分は忘れられ、放心に陥る。平たくいえば、ぼーっとする。いわば「魂抜け」である。

お友達の三浦雅士の影響を受けているのかわかりませんが、長谷川は連句の「主体の転換」を「幽体離脱」、つまり一種のトランス状態として理解しています。

これは三浦の大好きな大野一雄の舞踊などを持ち出して説明するのにふさわしい要素です。

これ以後、本書で長谷川は繰り返し「ぼーっとする」ことを俳句の中心要素として語るのですが、このような極端なまでの単純化が長谷川の論に批評性が欠けているという印象を与えてしまう原因のひとつと言えるでしょう。

長谷川は俳句の「切れ」が散文的論理を断絶することで、「ぼーっとする」空白を生み出し「主体の転換」を果たすと主張します。

俳句が「切れ」などによって散文的論理を超えるという見方については、僕も特に異論はありません。

そのような俳句の非論理性が初期の長谷川の主張では「場」に依存していることになっていたのですが、本書ではトランス的な「主体の転換」によるのだという説明に変更されています。

これは議論として後退していると思います。

なぜなら、トランス状態に基づいた芸術ならば、俳句以上にもっとふさわしいものが多くあるからです。

僕がこの長谷川の主張に三浦の影響を感じてしまうのは、長谷川の主張に大きな齟齬があるからです。

「主体の転換」とは、「転換」であるかぎりにおいて、Aという状態からBという状態への移行を意味します。

連句でいえば連衆が自分自身という主体から、句の主体へと移行することを意味するはずです。しかし、ただこれだけであれば、小説家や漫画家や演劇の脚本家であっても構わないはずです。

自分を離れて登場人物Aの気持ちを代弁し、今度は人物Bの気持ちを代弁するわけですから。

これだって作者が「幽体離脱」をしていると言えなくもないわけです。

だとしたら、散文的思考であっても「主体の転換」は十分可能ということになるのではないでしょうか。

それなのに、長谷川は別の状態への移行の間に「ぼーっとする」という空白の状態、つまりはイタコ的なトランス状態を差し挟もうとするのです。

前述しましたが、このようなトランス状態は舞踊であったり、もっといえば能の方が明確に確認できるものです。

言ってしまえば舞台芸術において成立する要素であるということです。

これを俳句を語るのに用いるのは、だいぶ力技が過ぎるという印象を受けます。

そのため、「現代思想」の編集長を経て「ダンスマガジン」を創刊した三浦の影響ではないのかと勘ぐってしまうのです。

(三浦が青森の出身であるのも興味深いところではありますが)

念のため、「ぼーっとする」ことがトランス状態を示していることを確認しておきましょう。

詩歌を作るということは、詩歌の作者が作者自身を離れて詩歌の主体となりきることである。詩歌の代作をすることである。役者が役になりきるように。神であれ人であれ他者を宿すには役者は空の器でなければならない。同じように詩人も空の器でなければならない。空の器になるということは言葉をかえれば、我を忘れてぼーっとすること、ほうとすることだ。

この文章は柿本人麻呂の歌を論じたところにあるのですが、このような「空の器」になることは、詩人の能力に負うところが大きいはずです。

俳人であろうが、役者であろうが、ミュージシャンであろうが、この能力を発揮できる場面は数多くあるのですから、俳句がトランス文芸であるという主張よりは、俳人はトランス状態に入って俳句を作らなければいけない、という論の運びにならなければおかしいのです。

それなのに、長谷川はあくまで俳句がトランス文芸であるという主張を崩しません。

長谷川自身は論理を超えた俳句の魅力を訴えようとしているのかもしれませんが、肝心の著書が論理に依存したパッチワークで形成されているのでは格好がつきません。

というのは、ただ「主体の転換」だけを根拠にするならば、そんなものは頭で考えて行っているだけだと反論されたら終わってしまうからです。

むしろ長谷川は「ぼーっとする」トランス状態が起こっている俳句が「すぐれている」ことを論証する必要があったのではないでしょうか。

しかし長谷川は「切れ」があるから間が生まれ、間があるから「ぼーっとしている」のだ、という論理にしてしまうのです。

こうなると、俳句の形式から必然的にトランス状態が生まれることになってしまい、作り手の状態や能力など考える必要もないことになってしまいます。

僕は俳人ではないため、俳人たちが俳句の「形式」に過剰なまでの役割を負わせることはある種の依存心だと感じています。

彼らはまるで「形式」が芸術を生み出すかのように語るのですが、たしかに俳句が大衆に開かれた文芸であるにしても、「形式」自体に価値があると考えるのは一種の倒錯です。

このあたりは俳人たちに真摯に反省してもらいたいところだと僕は思っています。

俳句にもいい俳句や悪い俳句がありますし、いい俳人もダメな俳人もいます。

俳句「形式」に則っていれば必ずいい俳句になるというなら、こんな簡単な創作はありません。そうでないから俳人は苦労をするのですし、努力もするのです。

それなのに、俳人は自らの依り代の価値を高めたいという邪心が強いのか、やたら俳句の「形式」自体に価値を負わせようとがんばります。

小説家や漫画家や劇作家など他の多くのジャンルでは絶対にそんなことは考えません。

こういう発想は「伝統」に守られたマイナージャンルの「甘え」であると、長谷川をはじめとする俳人たちには理解してほしいものです。

長谷川は本書の最後で、現代の俳句界が衰退していることを嘆くのですが、その原因を批評と選句という「俳句大衆の道標」の衰退に見ています。

長谷川は『俳句の宇宙』ではそれを共有できる「場」の衰退に見ていたはずです。

それがどうして批評と選句になってしまうのか、僕には理解に苦しむのですが、僕のような俳句を作らない純粋読者から言わせていただけば、俳人がこのように「作り手」ばかりに目を向けていることが衰退の原因ではないかと思っています。

僕は連句については前の文脈を意図的に脱臼させるため、トランス状態によるのではなく、知的な作業によって成立していると考えます。

ただし、もし俳句に長谷川が言うようなトランス状態があるとするとするなら、それは「読み手」の持つ能力を前提としないと成立しない気がします。

作り手が提出した句を、読み手の側が自分を離れて「ぼーっとする」ことにより、作り手の生み出した句の「場」へとトランスして近づいていくからです。

読み手のトランス作業によって質の高い「主体の転換」が行われ、短い断片の言葉からイマジネーションを感じ取ることが可能になるのではないでしょうか。

つまり、良い俳人とは例外なく良い読み手であり、だからこそ選句も批評もうまかったのではないでしょうか。

しかし読者のほとんどが俳人であることにあぐらをかいた俳句界は、俳句を作る作業ばかりを重んじて、読者を育てることをサボってきました。

あげく僕のような純粋読者が俳句批評をすると、「俳句をやらないなら謙虚でいろ」とか言う偽俳人が出てくる始末です。

外山滋比古が和歌と俳句には「声」を基礎とした「二人称読者」が欠かせなかったと述べていますが、現代俳句はマスコミや出版(もしくはネット)によって俳句を流通させることを当然と考えるあまり、句が顔のある誰かに向けられたものとしてあることを忘れているのではないでしょうか。

俳人はつまらぬ自意識を反映した下手な句を作ってアーティストぶるより前に、俳句の良い読み手であるように努めるべきだと思います。

(もちろん、俳句を読むより観念的な言葉を振り回すことに熱心な「批評もどき」は良い読みとは言えません)

結論を語ってしまったのですが、本書にはどうしても指摘しておきたい部分があります。

長谷川は「新古今和歌集」が禅の思想を享受したことによって誕生したと書いているのですが、このような説を僕は初めて目にしました。

これは本当に信用に足る説なのでしょうか?

平安時代の仏教の影響は『源氏物語』を読んでもわかる通り、浄土思想に現れていたはずですし、一般的には「新古今和歌集」は古典教養に根ざした技巧的な作り方や本歌取りが歌風とされていたはずです。

ちなみに沖本克己の『禅』にはこのような文があります。

禅文化とはそもそも背理を含んだ言葉である。禅は文化や芸術には本来無頓着である。(中略)もし禅が文化を領導したり時代社会の指導原理になるとしたら、それはどうも碌でもない事にちがいない。

禅の研究者がこのように書いている以上、僕は長谷川の説を信じることはできません。

長谷川は「俳句は禅にはじまる新古今的語法が行き着いた最終詩型、最終の一単位なのだ」などと書いていますが、

あまりに不確かな説だけに、主張するならそれだけの根拠を示してほしいと感じました。

このあたりにも、俳人が自分の依拠する俳句をやたら高尚なものに「捏造」しようとする、さもしい欲望を感じてしまいます。


http://www.webchikuma.jp/articles/-/1295 【『俳句の誕生』(筑摩書房)長谷川 櫂 著】

放心の詩法 松浦 寿輝  より

 二百ページに満たない薄いヴォリュームのなかに沢山のことが詰まった本である。近代大衆俳句の起点は明治の子規ではなく江戸後期の一茶のうちにすでにあるとする刺激的な史的展望がある。それが子規、虚子を経て加藤楸邨、飯田龍太に至っていかなる困難に逢着したかという鋭い問題提起がある。立原道造や大岡信によるソネット形式の詩に『新古今集』の語法がいかなる影響を及ぼしているかをめぐる斬新な考察がある。その『新古今集』が『古今集』の地平から、すなわち中世が王朝から離脱することを可能ならしめた契機を禅の思想に求めたうえで、そこに不意にシュルレアリスムの自動記述の問題を重ね合わせるというスリリングな視点の提示がある。

 長谷川櫂の奔放な思考は詩的直観の論理に導かれて飛躍に飛躍を重ねるが、しかしそうしたすべてを貫いて、本書の記述が絶えず立ち返りつづける求心的な一命題がある。詩歌の創造の現場で、歌人は、俳人は、詩人は必ず主体の閉域から逸脱する、というのがそれである。

 それがもっとも鮮烈に表われるのは連句の場合だろう。芭蕉によって美的に完成された歌仙の形式を借りて、長谷川氏自身、岡野弘彦、三浦雅士とともに連俳を試みているが、その実例をつぶさに紹介しながら彼が示すのは、句から句へのダイナミックな運動が実現するには歌仙の連衆が「句を付けるたびに自分を離れ、自分ではない別の主体になる」ことが必要だという点である。それによって生じる「間」がなければ句と句は「付きすぎ」て、詩趣はたちまち停滞してしまうからだ。しかし、これは実は集団制作の芸術としての連句にかぎったことではない。単独の作者による詩歌の作品もまたことごとく、自分がもう一人の自分になることによって可能となる、とまで断言するところに長谷川氏の主張の眼目がある。

 たとえば俳句の切れ字とは何か。それは「間」の装置にほかならない。芭蕉はまず、「蛙飛こむ水のおと」と詠んだのだろうと長谷川氏は想像する(支考の証言に基づく)。そのうえで、それにふさわしい上五は何がいいかと案じる過程が来る。何秒か何分かの「間」があり、「空白の放心状態」のただなか、芭蕉は自分が自分でなくなる場所に遊ぶ。そのとき「現実の芭蕉から心の世界の芭蕉へ、主体が入れ替わ」り、そしてふと浮かび上がってきたものが「古池や」の五音だった。この放心ないし遊心の「間」を表象し、読者に追体験させてくれるものが「や」という切れ字なのである。

 ところが、この「切れ」と「間」は一句中にあるばかりでなく、実は句の前にも後にもあり、詩の生成の必須の要件をなす。「心が自分の体を離れて空白の時空に遊ぶ」この境地を長谷川氏は「魂抜け」と呼び、それをまた「ぽーっとする」というきわめて卑近な擬態語で言い換える。その背景には、たとえば詩人肌の民俗学者・国文学者であった折口信夫が「どこで行き斃れてもよい旅人ですら、妙に、遠い海と空とのあはひの色濃い一線を見つめて、ほうとすることがある」(「ほうとする話」)と表現した静謐な旅愁の反響がある。

 放心する。それは何ものかに縛られていた心を解き放つことだ。では、何が心をそれまで拘束していたのか。日々の生計をめぐる様々な思案、言葉と言葉の決まりきった慣習的な連結、因果関係に支配された合理主義的な論理連関、等々であろう。それらすべてから「切れ」て、心が無我の時空に「ぽーっと」遊ぶとき、どこからとも知れず不意に湧出するもの、それが歌であり俳であり詩なのである。

 この命題が俳人長谷川櫂にとってことさら重要なのは、子規による「写生」、それをさらに先鋭化した虚子による「客観写生」という、近代俳句を決定的に方向づけた方法の提唱に、この放心の境地を忘れさせてしまう弊があったからだ。眼前の事象をじっと凝視しそれを客観的に写しとる。そこには心が遊ぶ空白の「間」が介在する余地はなく、結果として「ガラクタ俳句」が量産されたとさえ長谷川氏は極言する。俳句における創造的な詩心の在り処をひたむきに指し示し、今日の「俳句大衆」を真摯に啓蒙しようとする、きわめて有益な警醒の書としてわたしは本書を読んだ。


http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY201106020354.html 【一度の説教 遺言だった】より 

1989年のことである。読売新聞東京本社整理部の記者だった長谷川櫂(はせがわ・かい)(57)は、弟子入りを請う1通の手紙を書いた。あて名は、山口市に住む俳人の飴山實(あめやま・みのる)。

その4年前、長谷川は31歳で第1句集を出し〈春の水とは濡(ぬ)れてゐるみづのこと〉など清新な句で、新進気鋭の俳人として注目されていた。

    ◇

熊本県生まれ。中学で短歌や俳句を作り始めた。東大では学生俳句会に、卒業後しばらくは俳句結社に入会して学び、俳句の何たるかは知り尽くしている。

そんな彼がなぜ、この時期に師を求めようとしたのか。長谷川が振り返る。

「ある人から『最近の君の句は駄目だ』と叱られたんですよ。うぬぼれるというか、『これでいい』と自分で思った途端、駄目になるのが俳句の怖さ。精進しなくてはと」

この時、飴山は62歳。山口大教授で酢の研究では世界的権威だったが、俳壇では知る人ぞ知るといった存在。〈うつくしきあぎととあへり能登時雨〉の句に代表される平明で柔らかな作風に惹(ひ)かれ、長谷川はひそかに尊敬の念を抱いてきた。

入門を許され、毎月2、3回、原稿用紙に30句を書いて送り続けた。

10日もしないうちに、いい句の上に○が付いて、送り返されてくる。なぜいいのか、悪いのか。理由は一切ない。

自信作が無印だった時、「なぜ、駄目なんでしょうか」と尋ねたが、自分で考えなさい、というのが教え方なのか、返事はなかった。

たまに添削される句もあった。〈穴子裂いて大吟醸を冷やしある〉という句が〈穴子裂く大吟醸は冷やしあり〉と朱で直されて返ってきた。

今なら添削された句の方がいいと理解できる。その時は何でこう直すのだ、と疑問と不満が渦巻いた。

そのうち、こう思うようになった。いちいち違和感を持っていたら、何も変わらない。自分を捨てて、飴山實になりきってやれ、と。

「師の世界に一度入って、そこから抜け出さないといけない。習うということは自分を捨てること。それで壊されてしまうような自分なら、大した才能はない。一種の賭け。怖かったですけどね」

この様子を遠くから眺めていた俳人がいる。

新潟県加茂市で暮らす曹洞宗雙璧(そうへき)寺の住職坂内文應(さかうち・ぶんのう)(61)だ。駆け出し記者として新潟支局に赴任した長谷川の才能に接し、以来、師と仰ぐようになる。

「禅に薫習(くんじゅう)という言葉がある。自分の尊敬する人の徳が毛穴から自然な形で入ってくるような。俳句の師と弟子の関係も、似ておりますなあ」 代表句に〈朝顔に仏の水をこぼしけり〉がある。

    ◇

飴山、長谷川の11年にわたる師弟関係の中で、飴山が説教じみたことを口にしたのは、一回きりだ。

99年11月。長谷川らが病身の師を囲み、地元の古刹(こさつ)で句会を開いたことがある。飴山は講評で少し口調を改め、こんな話をした。

「日本語の『新しい』という言葉には、新奇と新鮮という二つの意味がある。大事なのは、目新しい素材を求める新奇ではなく、新鮮の方だ。素材は使い古されたものでも新鮮な詠み方というものがある。一句の成否は、どう詠むかにかかっている……」

亡くなるのは、その4カ月後。あれが弟子への遺言だったかと後で気づかされた。

その年、長谷川は読売新聞を退社し、俳句専念の生活に。46歳の若さで朝日俳壇選者に抜擢(ばってき)されるなど、今や俳壇を代表する一人だ。

3月11日。朝日俳壇の選句を終え、自宅に戻るJRの駅で激しい揺れに見舞われた。悲嘆や怒りの短歌、俳句があふれ出る。〈葦牙(あしかび)のごとくふたたび国興れ〉……

大震災に飴山實なら、どう対応するだろう。事あるごとに「師なら」と考えるのが、長谷川の常だ。死後も、師は弟子の前を歩み続ける。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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