『野ざらし紀行』の旅と禅

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-bashou/nozarasi-basho.htm 【『野ざらし紀行』の旅と禅】 より

『野ざらし紀行』の旅と禅

 仏頂に参禅して修行していた芭蕉が、この旅の途中で悟りを得て、新しい俳諧を開拓した旅である。芭蕉は、三十七歳ころから、参禅を開始していた。貞享元年(四十一歳)の八月から翌年四月まで旅に出た。門人千里(ちり)が道連れである。二人は、江戸から伊賀(故郷)へ帰り、その後、大和、美濃、尾張、伊賀、奈良、京都、尾張、木曽を通り、江戸に戻った。

 『野ざらし紀行』に収められた俳句のうち、禅にかかわりのありそうなものを見ていく。

この旅で悟る覚悟

 「千里に旅立ちて、路粮(みちかて)をつつまず、三更月下無何に入るといいけむ、昔の人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の声そぞろ寒気なり。

 野ざらしを心に風のしむ身かな  (旅だち)」

(語注)

路粮をつつまず=食糧を持っていかず。

三更=真夜中の十二時頃。

無何=『荘子』の「無何有の郷」、何も有ることなき郷、何もない広野。

 芭蕉の『野ざらし紀行』の冒頭にこの句が置かれている。この句は、無常の身だからいつ旅の途中で死ぬかもしれないという気持ちを詠んだものといわれている。しかし、若い芭蕉が、たかが東海道を旅するのに死を覚悟したとは思えない。おおげさすぎる。これは、禅者、芭蕉の仏道と俳諧をひとつとする新しい芸術への開眼の志の表明だったのである。今度の旅で、今までの自分に死んで(これが「野ざらしを」であり、新しい自己に生き返って新しい俳諧を創始したい、そう決心すると(これが「心に」の意味)、身がひきしまる思い(「風のしむ身かな」)であった。

 悟りに入ったという人の杖に導かれて、というごとく、最初から「無何」に入ることが暗示されている。もちろん、この旅が終わった後に、書いたものだが、読者に、禅のことが秘められていることを暗示したのであろう。

馬上で悟る

 小夜の中山を馬に乗って越えていく。

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  (小夜の中山にて)

「杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りてたちまち驚く。」の詞がある。

 中国の詩人の漢詩をふまえている。一休が杜牧に共感。通釈は、馬上で眠っていて、馬から落ちようとして驚いた、という解釈である。もちろん、俳句としてはそれでよいだろう。

 しかし、別なよみかたをしてみたい。芭蕉はこの旅の途中で悟ったと思われる。禅僧は、自己の悟りを偈頌にする。詩人は、自己の悟りを詩で表現する。この句が、芭蕉の悟りの時の句であると思う。「古池や」は、さらに後得智が深まって大悟の境地を句にしたものだろう。大垣の句、「旅寝」とも考えて、「寝る」を「自己を忘じた」ことにかけていると思う。茶は禅道場で用いられる覚醒飲料である。茶の煙りで我にかえった。芭蕉は、参禅していた。馬上でゆられながら功夫して三昧になったのであろう。この後に、以下に紹介するように、禅的な境地を秘めた句が多く出てくるので、芭蕉は、この旅の前半で、悟ったと思われる。悟ったことをよんだはずの句をさがしたが、この句のようである。

死ぬということ

 芭蕉は、一度、伊賀に帰った。そして、大和へ行く。

手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜

 (伊賀に帰ったが、母は昨年死んでいた。母の形見の白髪を見ての句。)

僧朝顔幾死かへる法(のり)の松

 伊賀には、四、五日いて吉野へ。途中、当麻寺の古い松を見た。「大いさ牛をかくすともいふべけむ。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ、幸にしてたつとし」と芭蕉の説明がある。「牛」は「十牛図」で、人が気がついていない仏性、悟りを象徴する。寺の僧、朝顔などどれほどの死を見たであろうか、この松は。今、ここに、不死の法がある。

御廟(ごびょう)年経て忍(しのぶ)は何をしのぶ草

 後醍醐帝陵をたずねて。これを見て人々は、何を忍ぶだろう。あなたなら?

 喝! 妄想するな。芭蕉に試された。草には妄想の意味がある。

 大和をたって美濃、尾張へ向かう。大垣で次の句がある。

死にもせぬ旅寝の果(はて)よ秋の暮れ  (大垣にて)

 「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、」という詞がついている。「死にもせぬ」とは、死なない、「不死」である。不死は「不生」である。無我を悟ったからである。大死する、自我が死ぬ、とはこんなことだったのか、旅で馬上で死んだ結果、新しい自分に生き返った。「家をあるじ」主(自分)と物が一体となれば、主客もないことを、転倒した言葉で表現する。この前に悟った証拠であろう。

 尾張の海を見ての句。

海暮れて鴨の声ほのかに白し   (貞享元年十二月、熱田にて)

 宮本三郎氏は、こう説明している。

 『師走の海に舟をこぎだすと、短い冬の日は早くもさむざむと暮れて、海上一面に薄暮れの迫る中に、波間に浮かぶカモがクッー、クッーと鳴くあたりだけが、ほの白く暮れ残って感じられるという意。この句については、暮れゆく鴨の声を「白し」と視覚的に表現したところが、詩人的感覚の鋭さだと嘆賞し、黄色い声という用例もあると説く向きもあるが、表現形式は平凡になるが、句意としては「ほのかにしろし鴨の声(ノスルアタリ)」で、これを五・五・七の漢詩的破調をもって表現したところにむしろ対象に迫る切迫した印象効果があげられている。形式上は延宝年間の「五月雨に鶴の足みじかくなれり」と全く同じだが、その詩的内容においては、雲泥の差異が認められる佳句である。』(1)

 白いのは声ではない、という宮本氏の解釈に、私も同調する。白いのは声だと解釈するのは、いかにも分別的である。ただ、クッー、クッー(鴨の声)。ただ、白い(海)。---となると無分別となる。この句は、貞享元年十二月、熱田にて作られたが、翌年三月の次の句について、芭蕉自身が「分別なし」と言っていることを考慮すれば、芭蕉はこの頃、無分別になりきったと思われる。この句は、自分もなく、海もなく、声になりきり、白いになりきった、そこを示したものである。「海くれて」は分別的、状況説明の語にすぎない。芭蕉はただ、眼前のものに無分別になりきっている。それを分別的に見える言葉で示しているのである。芭蕉の言葉に「常風雅にゐるものは、おもふ心の色、物と成りて句姿定まる。」(『あかそうし』)とある。心が色、物になる。物と我がひとつである。

(注)

(1)宮本三郎『松尾芭蕉』桜楓社、307頁。

新しい眼

 暮れには伊賀に帰った。貞享二年正月、半残あて書簡にこうある。

 「江戸句帳、なまぎたへなる句、あるいはいひたらぬ句共多く見え申候を、もし手本と思しめし候はば、いささか違ひもござあるべく候。みなし栗などもさたのかぎりなる句共多く見え申候。唯、李・杜・定家・西行等の御作等、お手本とおこころえなさるべく候」

 わづか一年半前出された『みなし栗』をけなすほどに、この旅で芭蕉には大きい変化があった。前年名古屋で編集した『冬の日』は、「俳諧といえば言葉の知的な遊び、付合いは言葉と言葉の機械的な結び付け、と考えられて来た長い歴史的な観念を根本的に変革した画期的な特色であった」(1)というようにこの旅の頃芭蕉の俳諧は大きく変わった。

 また、伊賀をたって、奈良、京都を経て尾張へ向かう。その山道で新しい句が生まれた。

山路来て何やらゆかし菫草

(また江戸に下る時、大津付近にて)

 この句も同じころ、京都から大津への山越えの道で、「何とはなしになにやらゆかし菫(すみれ)草」と歌ったが、後、尾張で改作したもの。この句の言葉使いも人から批判されたという。宮本氏は次のとおりいう。

 『北村湖春が「すみれは山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧なりと云(い)へども、歌学なきの過也(あやまちなり)」と難じたことを伝えている。だが、野にありふれて咲いている菫でなく、たまたま山路でふと見つけた菫草に心を引かれて詠んだところが、この句の生命というべきである。』(2)

 この菫は私(芭蕉)が山道を歩いて来たから、私の心に生じたのである。私が来たことで菫が生命を現した。私が菫を作った。わが生命の表現である菫。ゆかしく思うのは当然であった。それは活きた事実であった。形式にとらわれた俳諧ではない。形式にこだわらず人間の真実をよむ。そこが北村湖春には理解できない。

 近江の琵琶湖のほとりで、次の句がよまれた。

辛崎の松は花よりおぼろにて (湖南にて)

 この句について、宮本氏は、こう説明する。

 『「湖水眺望」と前書きして所収。(中略)琵琶湖上も朧々として霞んで唐(辛)崎の一つ松のあたりが、湖岸の桜花よりもなお一層朧々と見えるのどかな春の日の眺望の景にはふさわしくないため、この「朧にて」という余韻ある表現を採ることによって、ぼうっとおぼろげに溶けこんで行くような効果があげられている。ただし、「にて留め」は普通、連句の、第三句目に用いられる表現で、この句形では発句としての確かな切れ字がないという非難も、古風俳人の間などに当時あって、問題句とされたが、其角の『雑談集』には、「予が方寸の上に分別なし。(中略)ただ眼前なるは」という芭蕉の語を伝え、『去来抄』にも、「我(芭蕉)はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」とほぼ同様の趣旨が記されている。』(3)

 この句には大変面白い秘密がある。その秘密の解明の鍵は芭蕉がこの句を書いて送った書簡で芭蕉がさりげなく述べているが、たいていの人は気にとめない。芭蕉は泊めてくれた門人あて「愚句、そこもとニテ之句、辛崎の松は花より朧にてと、御覚えくださるべくそうろう。」と書き送った。この書簡にある、「そこもとニテ」が秘密を解く鍵である。この芭蕉の手紙がさりげなく秘密を教えているわけで、この句が「そこもとニテ」とすれば、この句は「(辛崎の松は花より朧)にて」となる。となると、「そこもと」が、「辛崎の松は花より朧」である。「ニテ」とは、場所を表す。芭蕉のいた場所である。「--朧」という場所ニテ、である。このニテは古風の形式にとらわれた人々が考えるニテではなかった。言葉を批判された芭蕉は「分別なし」「ただ眼前なる」といった。だからこれは概念ではなく、眼前の事実であった。「朧」が芭蕉のいる場所であった。「朧」なる風景は「眺望」であり、遠くなのに、なぜ、「そこもとニテ」、「朧ニテ」となるのか。それを実現させていたのは、芭蕉、その人である。芭蕉は、対岸の風景、「--朧」を見て、我を忘れて、それと一つになった。だから、対岸の「朧(なる眺望)」は遠くではなく、芭蕉のいる場所にあった。いや芭蕉が、朧そのものになった。芭蕉は自然とひとつになった。そこを「おぼろニテ」といった。このように一見すると手の混んだまるではからいの句と、とられかねない句であるのに、芭蕉は「分別なし」「ただ眼前なる」という。分別でなく、「朧」が眼前の事実であったから、そのまま言葉にした。だから、「にて」を「かな」とすることはできなかった。この句について芭蕉は「我はただーーニテでよい」「ただ眼前なる」と言葉少なにいうばかりであった。芭蕉は禅者の自他一如を俳句という形式で現していた。

 次の句も面白い。

命二つの中に生きたる桜かな (近江水口で)

 「近江水口にて、二十年をへて故人にあふ」とあるのは伊賀からきた土芳だった。二人で桜を見ているのである。桜が生きているのは、近江の地ではなく、二人の命に、である。この句をみると『華厳経』を思う。桜がふたつの命に生きている。二つの命が同じものを共有していながら互いにあらそわない。「因陀羅網」、「事事無礙法界」のようでもあるが、どうであろうか。

 旅の途上で、禅僧、大顛(だいてん)の死を知った。芭蕉の弟子其角が大顛和尚(だいてん)に指導を受けて坐禅をしていた。旅の途上でその死を知って、其角に書簡を送りなぐさめている。その書簡にある句が、『野ざらし紀行』にも収められている。

梅恋て卯花拝むなみだかな (名古屋で)

 「この僧予に告げていはく、円覚寺の大顛(だいてん)和尚今年睦月の初、遷化したまふよし。まことや夢の心地せらるるに、先ず道より其角がもとへつかわしける。」とある。今は卯の花がさかりだが、梅のにおいの中でなくなられた和尚が思い出されて涙ながらに卯の花を拝む。

(注)

(1)宮本三郎『松尾芭蕉』桜楓社、79頁。

(2)同上、227頁。

(3)同上、228頁。

一つ峠を越えたがまだ未熟

 江戸に戻った。禅の修行は一つの峠を越えたが、まだ、なすべきことがあるとの自覚がある。

夏衣いまだしらみをとりつくさず (芭蕉庵に戻って)

 江戸に帰った芭蕉は『野ざらし紀行』の最後にこの句を詠んでいる。この句は、もちろん衣にたかるシラミのことを詠んでいるが、それだけだと受け止めるのでは、「流行」(差別、相対、表面)だけの軽薄なだけの遊びの句である。この句に「不易」(平等、絶対、真実)をも詠んでいると私は見る。自己の本性を悟ったというものの、まだ、かす(煩悩、迷い、--)が残っているとの自覚がある。しらみは「白み」「無」にも通じる。悟ったものの、見性したら、しばらくそれに捕らわれる。悟りを得たらそれをも捨てる必要がある。芭蕉は、無我の自己を自覚したが、この頃はまだ、何かふっきれないものが残っていた。句を見る限り、この頃から物我一如とみられるものが多い。しかし芭蕉の内面では、納得できるようになったのは「おくのほそみち」の旅であったと思う。慢心せず、まだ向上の余地があることを自覚するのは、芭蕉の禅の綿密さである。

 芭蕉はこうして、野ざらしの旅で「物我一致」の境涯に達した。そもそも、野ざらしの旅へ思いたったのが、今度の旅で、「死にたい」という希望をもっていた。禅者にとって「死」は、「悟り」を意味する。悟ることを「身心脱落」、大死ともいう。「大死一番、絶後蘇息」という。自我はない、と今までの自分が死んで、新しい自己に息を吹き返す。芭蕉は、この旅で、一度、死んだ。芭蕉が『冬の日』で、自らをこの旅で「わびつくしたるわび人」となったといっているのはそれを裏づけるものだろう。

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