https://weekly-haiku.blogspot.com/2014/03/3_8.html 【震災発生一年目 】より
東日本大震災発生一年に合わせ『俳句』が「自然を詠む、人間を詠む」という特集を組んだ。
これを見ると俳人にとって震災詠の問題がほとんど季語との折り合いの問題として意識されているらしいことがわかる。正確には『俳句』購読者の混乱が専らその点に集約されると編集部が推測し、先回りしているというところか。
アンケートの四つの設問には当然の如く「いま大切にしたい季語」なる項目が含まれており、「震災以降、変わったこと、変わらなかったこと」という質問に対して、津波の跡に足を運んだという小川軽舟は「花鳥諷詠の季語の世界から大きくはみ出すものの存在を実感した。私もいつか季語を手放すかもしれないとさえ思った」と棄教を迫られたような深刻なショックを表明する。
小川軽舟は沈着で開明的な批評の書き手であり、有季定型以外存在を認めないといったタイプの俳人ではない。この畏れにも似た感情と軋轢はおそらく俳句の作り手の多くに共有されている。
小川の「鷹」に属する髙柳克弘は宮城入りした際、季語が邪魔になる場合もあると痛感して「瓦礫の石抛る瓦礫に当たるのみ」という無季句を残しており、このエピソードを小澤實との対談で紹介している宮城の俳人・高野ムツオも有季無季両方に跨って句作を続けている。対談は、季語に新たな陰影が加わるという形で俳句は震災の影響を受けたという見方へと進む。
俳句という別次元に身を遊ばせるにあたり、歳時記的世界観こそがその別次元を成す当のものであると感じる俳人が多数であるなら季語はそうした上書きを被らざるを得ない。平時には齟齬を見ずに済んだのかもしれない「季語」と「自然」との同一視に亀裂を走らせたのが震災なのであり、そもそもがおよそ奇怪な倒錯なのだと片付けられかねないのだが、季語こそが多くの俳人に安住と交流の他界を想像的に提供しうる所以であり、また「他者」の問題とも交錯するポイントなのである。
例えば対談で触れられている照井翠の「双子なら同じ死顔桃の花」では「桃の花」が悲惨を和らげると同時に双子の綺麗さを共示し、それが死顔となってしまったという回路を成すことで哀悼の心を担っているが、この審美性は両刃の剣だろう。
表現が惨事に迫ろうとするのを季語が浅薄なレベルであっさり救い、却って被災者を辱めるという具合に働くケースも少なくはない。
最悪の例が長谷川櫂『震災句集』だろう。「生き残る人々長き夜を如何に」の他人事ぶり、「天地変いのちのかぎり咲く桜」の戦意高揚標語じみた空疎さ等々目も当てられない。もう一つの震災句集、角川春樹『白い戦場』も「地震(ない)狂ふ荒地に詩歌立ち上がる」等地震に感応した己の興奮が表現の強度に直結しており、他者を弾き飛ばしてしまっている。
震災詠、ことに直接被災せずに済んだ人のそれは、作者が「私」と「他者」をどういう位相において相互陥入させているか、いないかを残酷なまでに露呈する。俳句もまだ緊張のさなかにあり、死=他者としての私という広やかな場を成す魂鎮めの句は少ない。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12597741710.html 【「自然」を詠むことは「人」を詠むことかもしれない。】より
世の中にすきな人は段々なくなります。そうして天と地と草と水が美しく見えてきます。
-夏目漱石~津田青楓宛ての手紙(大正3年3月29日)-
若い頃、高齢者やベテランの人たちの俳句に大いに「不満」があった。
なぜ「自然」ばかりを詠うのだろう…、しかも、「自然」の「おきれいな世界」の部分ばかり詠うのだろう…と思っていた。
世の中に存在する喜び、悲しみ…、それはほとんど「人事」の世界にある。
恋や病や死、出会い、離別、愛憎、葛藤、仕事、将来の夢、金銭…。
20代、30代の私にとって、上記のことがもっとも大きな関心事だった。
いい感動、悪い感動、すべて「人事」…つまり「生活」から生まれて来ていた。そこに「俳句」「詩」…「文学」の真実があると思っていた。
だから第一句集も第二句集でも僕はほとんど生活、大げさに言えば人生を詠んだ。
自分のみっともない部分、恥ずかしい部分も隠さず詠んだ。
それこそが雅の和歌とは違う、俳句の素晴らしさだと信じていた。
それゆえ、高齢者やベテランの自然詠ばかりの作品に不満を持った、いや、持ったというより理解できなかった。
きっと「衣食住」すべて満ち足り、何も不満がなく、「おきれいな世界」に遊んでいるだけだろう…、と思っていた。
今でもそういう気持が全くないわけではない。
しかし、上記の言葉を知った時、あるいは、おくのほそ道を歩いたりすることによって、そればかりではないのかな、と思うようになった。
自分自身も今やそうなりつつあるのである。
「自然」は「自然」、「人間」は「人間」と分かれているわけではない。
おそらく…、年を経るごとに「自然」と「人間」というものは一つと溶け合ってゆくものではないか。
世の中には不幸にして親に愛されなかった、ひどい時は虐待などを受けた人もいるであろうが、多くの人は、生まれた時、「好きな人」ばかりに囲まれている。
父母、兄弟、親戚、知り合いの方々…、みんな、自分を好きでいてくれたし、自分もすべての人が好きだった。
が…、年を経るごとに好きな人は少しずついなくなってゆく。
別れたり、死別したりして、そういう人が少なくなってゆく。
その時、「なぜ自然は輝く」のだろう、と考えると、その「自然」には「その人とのぬくもり」が宿っているからだ、と考えた。
雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ、目覚めるとき、美にめぐり合う幸いを得たときには、親しい友が切に思われ、この喜びを共にしたいと願う、
つまり、美の感動が人なつかしい思いやりを強く誘い出すのです。
この「友」は、広く「人間」ともとれましょう。
また「雪、月、花」という四季の移りの折り折りの美を現す言葉は、日本においては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情の美をも含めての、美を現す言葉とするのが伝統なのであります。
―川端康成ノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」-
私はつい先日、岩手県平泉の高館に登り、芭蕉はなぜ泣いたのか…、と考えた時、「山河」に、亡くなった人の心が宿っているからだ…とわかった。
それゆえ芭蕉は泣いたのだ、と思った。
自然を詠むことは人間を詠むこと…、それが日本の詩歌の伝統でもあるのだろう。
「雪月花の思想」とは川端康成の言葉にあるように「人恋いの思想」と言ってもいい。
「自然」を詠むことは「人を恋う」ことに通じるのだろう。
https://weekly-haiku.blogspot.com/2012/04/blog-post_1407.html 【俳句の自然 子規への遡行01】より
橋本 直
子規の自然
子規のことを書いた虚子の文に子規の言葉として以下のような一節がある。
余は人間は嫌いだ、余の好きなのは天然だ。余は小説家にはならぬ。余は詩人になる。(高濱虚子「子規居士と余」四)
人は嫌いだが自然は好き。だから俳句を詠むのだ。という気分ならば、今でも結構普遍性のあるものではないだろうか。ここで正岡子規の言ったという「天然」は、いまなら「自然」と使われるのが普通であろう。では子規は、なぜ人間が嫌いで自然が好きだ、などと思わず漏らしてしまったのだろうか。
単純に自然を志向するという一点において見るなら、遡って芭蕉の「造化随順」、後年の虚子の「花鳥諷詠」、さらには昨今の金子兜太のいう「アニミズム」等まで、同じ枠に括れそうである。
俳句から離れ一般化してみると、昨今の地球温暖化に伴うエコロジーブームでの諸現象や、失われた魂の故郷を求める人々(例えば離郷した団塊の世代)に田園で暮らすことをメディアが煽る風潮にいたるまで、一つの心性の網目が日本の文化を貫いてきていると言えるかもしれない。もちろん詳細に見れば、実際は複雑多様なものだろうが、このゆるやかな網目こそが「発句」と「俳句」を下支えしてきたものであるようにも思われる。
さらにその根源を考えるとき、一つには、江戸以前からの漢籍、詩歌からの文学的回路との接続があるだろう。いわゆる老荘思想の実践者や、陶淵明のように官職を棄てて浮世を厭い田園自然に親しんだ漢詩人は枚挙にいとまがない。隠遁生活または、仙人願望とでもいうべきもの。あるいは、西行や芭蕉のような、世捨て人のように自然に分け入り、漂泊の中に暮らす生き様もあった。
しかし、果たしてこれらは先の子規の叫びと、同じなのだろうか。
虚子の文の引用部分は、正確には「人間よりは花鳥風月がすき也」(明治25年5月28日 碧梧桐宛子規書簡)や「僕ハ小説家トナルヲ欲セズ詩人トナランコトヲ欲ス」(同年5月4日 高浜虚子宛子規書簡)などをもとに、虚子なりに解釈・要約した文言であり、だから勘違いはできないが、そのころ正岡子規の抱えていた問題は、以下のようである。
当時の帝国大学で選ばれし者の責務として学問を全うすることは命がけの過酷な道でもあり、肺病と学問のストレスで疲れ果てていた子規は、一種の鬱病とおぼしき状況(子規自身は「脳病」と呼んでいた)になっていた。そこで気分転換して試験勉強するために出向いたはずの田園風景の中では、ついつい句作することにこの上ない喜びを見出してしまう。
何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道などをぶらり\/と歩行いて居ると其愉快さはまたとはない(中略)試験だから俳句をやめて準備にとりかゝらうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山出来る(『墨汁一滴』)
結局帝国大学を退学することになる子規は、当初小説家として世に出ることを志し、満を持して執筆した作品「月の都」を、同い歳にして既に小説家として世評の高かった幸田露伴に読んでもらったものの、芳しくない評価を受けて出版を断念してしまう。そのとき、思わず先のように手紙に書いてよこしたと虚子は書いた。
これより後の子規が「写生」による叙景の詩として俳句を近代化せしめたことは周知の通りであり、引用部分はその一節だけをみるとまるで人生に挫折して人間嫌いとなったのが原因で自然詩人になったようであるが、子規が「写生」を提唱するのはもちろん人間嫌いのためではない。
実際の子規は寂しがり屋で人間が大好きだったし、多少のまねごとはしたものの、実際に本気で隠遁することも漂泊することもなかった。
なにより、子規個人は開化後の新しい文明世界の中で、古典的趣味世界を愛しつつ、それとは一旦断裂をすることで俳諧の発句に新しい美を構成しうる技法として見出したのが俳句の「写生」だったのであり、子規の内面中「写生」提唱の前後に惹かれる自然の内実がころっと変容したとは思われない。
ではなぜ子規は私信の中で先のような書き方を選んだのであろう。単なる気分の問題では、ない気もするのだ。語った子規と読んだ虚子の差異のようなもの。
近代以降の俳句は、自然を如何に観、扱ってきたのだろう。
逆に言うなら、日本人が惹かれる「自然」の正体とは、なんなのだろう。
そもそもなぜこのような素朴な問いをいま立てているのかというと、昨今の環境問題を視野に、俳句に自然を詠む人=自然を愛する人=自然破壊をしない思想をもちうる人、というような図式を文章化したものを散見することがあって、この百年の文明文化の所行を省みない気分のお気楽さ加減にショックを受けたからである。
何かが決定的に間違っている。子規と私はちょうど百歳違う。子規以来の百数十年、俳句の詠んできた自然はどのようなものであったのかあらためて溯り、いま我々の詠もうとしている自然とは何であるのか考えてみたい。そのスタートとして、これよりしばし子規へと遡行して行きたいと思う。
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