Facebook相田 公弘さん投稿記事
「役割はそれぞれ」
自分にまわってきた役目や自分が置かれた立場にがっかりするようなとき、私はジェイミー・スコット少年のことを思い出すようにしています。
ジェイミーは学校のお芝居で何かの役をやりたがっていました。彼の母親から聞いたところでは、ジェイミーは絶対にそのお芝居に出るのだと思い込んでいたそうです。
でも母親は、役にはつけないだろうと心配していました。
配役が発表された日、私は彼女といっしょに彼を迎えに学校に行きました。ジェイミーはかけ寄ってくると、興奮と誇りで瞳をきらきらと輝かせて言いました。
「聞いてよ、ママ」彼は大声で叫びました。
それから、私の座右の銘となったひと言を言ったのです。
「ぼく、拍手喝采する役に選ばれたんだ!」
マリー・カーリング
「祈ってください」
いつものように朝の散歩をしていたとき、ゴミ収集用トラックが私のそばで止まった。
運転手に道を聞かれるのかなと思った。
ところが、運転手は5歳くらいのかわいい坊やの写真を見せて言った。
「うちの孫のジェレマイアなんだが、いまフェニックス病院で生命維持装置をつけているんだ」
治療費の寄付を頼まれるのだと思って、私は財布を取り出そうとした。
だが、運転手が求めているのは金ではなかった。
彼は言った。
「できるだけおおぜいのひとに、孫のために祈ってくれないかとお願いしているんだよ。あなたも孫のために祈ってくれないか」
私は祈った。
その日は、自分が抱えている問題が小さく思えた。
ボブ・ウェステンバーグ
※こころのチキンスープより
***
宇宙の有機的な相互作用はよく 人体に譬えられます。目には目の役割があり排泄物には排泄物の役割があり それぞれの役割は 善悪を超えて 優劣を超えて 全体のバランスを保ちます。
然し「排泄物になんか なりたくない」と思っている方は多いのではないでしょうか?
にもかかわらず 排泄物の役割を生きているとき卑屈コンプレックスの罠に陥ってしまいます。
昔 結婚式に参列した時 新カップルへのはなむけの言葉として「胸のオシャレなハンカチではなく 足元の雑巾になる喜び」という話を聞いたことがあります。
雑巾は一見汚く、胸の飾りには決してなりません。然し穢れをふき取り、全てを浄化してゆきます。黙って耐える奉仕の心を象徴します。
言いかえれば愛するものの幸せを自らの幸せとする 喜びを生きる姿とも言えます。
ハンカチも雑巾も自らが選択する役割です。
唯識論では 全てのものは心の現れであると説きます。
雑巾であることもハンカチであることも 心の現れであるということです。
言いかえれば自分だと信じている通りに 自分が現れてくるとも言えます。
「自分だと信じている自分」は「自己イメージ」とも言いかえられます。
卑屈コンプレックスを超えるには 優劣に対する視点変更が大切だと言えます。
それにより 誤った自己イメージから解放されることにもなります。
優劣に対する視点変更は 「競争原理に従えば劣って見える人」が 「共生原理に従うと優れて見える人になる」そんな視点変更ともいえます。
また優も劣も自分の選択次第・好みの問題であることを知るとき 卑屈コンプレックスを超えることになります。
人が憂うと書いて優しい、優れていると読む優の字 少ない力と書く劣の字 力を抜く、力まない、自然体とも読めます。
和多志には優は大人劣は子どものイメージがあります。
自己一致、自分を愛することがベースにあれば卑屈コンプレックスの罠にはまらずに済むのではないでしょうか?
Facebook小原 美由紀さん投稿記事
何度も 読み返す。人間は忘れてしまうのでそのたび気づかされる。
是非、いまゆっくり読んでほしい。坂本龍一さんと、平野友康さんの対話です。
大切な人を戦うことでしか守れないのか どうかのひとつの答え
http://skmtsocial.tumblr.com/post/37903508145
「ねえ教授、平和だけを叫ぶだけだと理想主義で現実を見ていないような気持ちになる。これって教授はどう考えてます?これって答えがあるんですか?」
そのとき教授と僕は、陸前高田のチャリティーライブを終えて、山間をバスで走っていました。横を走る川を縫って山を登る道には雪が降り始めていました。
「ねえ、中国攻めてきたらどうします?っていうか、どうしたらいいと思います?」
教授は一回息をゆっくりと吸うと、しっかりとバスの椅子に座り直し、僕のほうに乗り出して言った。「攻められないようにする。」と一言。きっぱりと。
ん?分からない。どういうこと?ねえ、教授、もっと詳しく。
「んー、あのね、、、攻める側には攻める理由があるから攻めるんです。だから攻めて来れないように、攻められない理由をつくるんです。」
教授は説明を続けました。
「僕は・・・えっと、地政学的にね、中国が強大化していくなかで、日本はアジアの広い地域の中で、各国の中国との関係を慎重に見極めながら、中国との絶妙なバランスをとっていくことがものすごく重要なことだと思うわけ。そのバランスが悪いほうに崩れたら、戦争は起きますよ。そりゃ。」
地政学とは地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を巨視的な視点で研究のことらしい。
どうやら教授は、日本と中国の話ではなく、いきなりアジア全体、あるいは地球全体をイメージしながら話をしているようだ。
もう一度椅子に座り直し、両手で丸い<地球>のようなものを空に地図を描きながら、身振り手振りを添えて話を続ける。
「日本、韓国、台湾、フィリピン、ベトナム、、そしてグルっとインドにかけての地域でね、フィリピンもベトナムも、日本と同様に中国との領土問題をかかえている。みんなどの国も中国とどういう距離感で、どういう関係でやっていくかがさ、これからの東アジアでの最重要課題でしょ?
だからアジアから見たら、この地域で中国に対峙できる勢力の中心に、日本がなってほしいと思う国もあるでしょう。その場合、例え過去に日本に侵略された記憶があるとはいえ、日本には軍備拡張してもらっても存在感を増してほしいと思うかもしれない。また、中国にもの申すには、日本と韓国が協力することが、すごく重要だと思う。」
僕の質問は、「中国から攻められたらどうする」という<日本>と<中国>の内容だったのに、教授はアジア中のさまざまな国名を挙げて、そしてそれぞれの国の大まかな事情の説明を添えながら、ひとまずの結論にたどり着く。
車内の熱気で曇ったバスのガラスに、アジア地域の地図のようなものを描きながら言う。
「平野くんはさ、<日本>が<中国>に対してどうしたらいいのかって質問したよね?
でもさ、世界というのはいろんな要素が複雑にかみ合って、様々なバランスの上に成り立っている訳だよね。そこには<攻められたら攻める>なんて単純な構図ではなく、もっと広く見るべきこと、調べるべきこと、常に備えておくこと、仲良くすべき人たちや国、勢力、そして地政学的なものも大きいよね、そういうものがあるわけ。」
バスのガラスは、おそらく色々な要素を表現したのであろう、たくさんの重なる丸印の教授の落書きでいっぱいになっている。「当たり前だけど、単純じゃないんです。単純な対立軸にしたがる人は歴史の中で常にいるわけだけど、それで解決できるなら苦労しないですよ。
はは。」少しだけ皮肉っぽく笑い、一息つくと教授は続けた。
「・・・そりゃ平野くんが言うとおり、ただ何もせずに平和だけを叫んでも意味ないですよ。撃たれたら死ぬわけだから。でもね、戦争が起きるとしたら、それは<攻められる状況をつくってしまった>という外交の<失敗>の<結果>なんですよ。
例えば平野くんは、ちゃんと「なぜ中国が攻めて来るか」っていう背景と理由について考えてみた?その背景と理由をなくせば攻めて来ないから、そここそをみんなで真剣に解消しようと努力したほうがいいとボクは思うワケ。」
がんばるところはそこか!っていうか、なぜ攻めて来るかなんて、考えてなかった。「攻めて来る!ヤバい!」としか思ってなかった。なんてこった・・・。僕は自分が少し馬鹿みたいに思えてきた。
教授のイメージの中では、一国と一国の単純な対立があるのではなく、地球上のある様々な地域で必死にバランスを取り合おうとする無数の対立軸や協調しあう輪、そして流れがあった。
そういう<渦>の中で、バランスが最大に崩れると(あるいはぴったりと嵌ってしまうと?)特定の地域で戦争が<発生>する。
教授は、ただ平和を叫んでいるのではなく、様々な因子が最悪の配列になることを<現実的に防ぐべきである>と言っているのだ。
僕は言った。「教授、ちょっと自分が恥ずかしいです。僕、中国から攻められたら攻め返さないといけないという2点でしか物事が見れてなかったかも・・・」すると教授は指を組み、目をきょろきょろさせながら、少し憤っているような感じで言った。「戦争という<結果>を生まないために、するべきことはまだまだいっぱいあるよね。でも今は、何もせずに、戦いに備えてただただ武器を磨こうとしている。すべきこと、やれるべきことは、どちらかというと一切手つかずのようなもんでしょ。それ、やらないと!それが、僕の『攻められないようにする』という意味。実際的に、現実的に、子供や大切な人や美しい山河を守りたいからこそ、僕は<非戦>であることが有効だと思うんです。<非戦>というのは、決して座して撃たれるのを待つ、ということとは全然違うよ。」
僕は言う。「ねえ、教授、なんでだろう? なんで僕は、2点でしか考えられなかったんだろう? 今、教授に聞いてみれば当たり前のことばかりで、なんで俺、気づかないんだよ!って感じで・・・。」恥ずかしくて仕方なかった。ああ、馬鹿な質問しちゃったなぁ、と少し後悔もしていた。僕は話を続けた。「僕は、戦争になったらどうする、そのときの責任ある自分の行動はなんだ、ということばかり考えていた。でもこれって、例えるなら『事故にあったらどこの病院に行くべきか』と病院ばかりをいっぱいつくるようなもんですよね。そりゃ事故にあったら病院に行くけど、まず事故に合わないように必死で対策することが最優先なのに。なんで、僕はこんな恥ずかしい低レベルなところでぐるぐるしてたんだろう?」
すると教授は、「もしかしたら、だけどさ・・・」と言ったあと、ちょっと間をあけて、怖いことを言った。
「もしかしてさ、外交とか、バランスとか、この国の政治家や官僚は、やるべきことをずっと、アメリカの軍事力の傘の下にあるっていう一点で・・・サボってきたんじゃない?
それは、国民にバレないようにしたいよね。気づいて欲しくない、よね?」・・・僕はその一言に、ぞっとした。
確かに、地政学の視点や、パワーバランスを保つ<努力を怠る>と戦争が<発生する>という、<教育>や<教養>が多くの人に身に付いていたら、今の中国や韓国との情況を生み出した政治家や官僚たちは責められてしかるべきだろう。
それに日本は既に世界でも有数の自衛隊を持っている。であるとすれば、今僕らに足りないのは、軍備ではなく、国際政治のバランスをきちんと取ること、外交、経済あらゆる面で、難しくも果てしなく重要な問題に日々取り組み、逆風の中も切り込んで<良いバランス>へと向かわせる国家、官僚、国民であるはずだ。・・・だが、そうはなっていない。
中国と韓国は危険。だから備えよ、憲法変えよう、非常事態に備えて法整備、である。
何もかもが間違っていないとは思うけど、本来やるべきことは山積みのまま、それらは無視されている。
だから教授は言うのだ。もしかしたら、今までちゃんと外交をしてこなかったことを、あるいは外交に失敗しているということを、多くの国民に気づかれたくない人たちがいるかも知れない、と。
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どうぞ全文お読みくださいね。こちらも。
http://skmtsocial.tumblr.com/.../%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE...
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