http://sophia.city.kashiwazaki.niigata.jp/siraberu/teisinni/hisseki/hasu.htm 【蓮の露(はちすのつゆ)】より
貞心尼自筆の歌集。体裁は、縦24センチ、横16.5センチで和紙を袋とじにした冊子本である。表紙と裏表紙を除いて50丁・100ページからなっている。
昭和50年7月1日柏崎市文化財第55号に指定を受け、当館中村文庫に大切に保管されている。「蓮の露」の構成は、序文で良寛の略伝等が記され、本文では、良寛歌集、及び良寛・貞心唱和の歌と続き、この後には、不求庵のこと、山田静里翁のこと、良寛禅師戒語、「蓮の露」の命名のことなどが、すべて貞心尼の筆によって書かれている。
唱和の歌は、二人が出会ってから別れるまでの4年余りが、あたかも物語のように綴られていて、清く美しい愛のドラマと見ることもできる。
「良寛禅師と聞えしは・・・ 」 から始まる序文部分は、1頁から7頁までつづく。良寛の略伝と本書を編むにいたった動機等が記されている。良寛禅師の愛した古典「秋萩帖」 にも似た筆致で書かれていると言われている。
加藤喜一氏は、その著書「良寛と貞心」の中で、貞心尼の書について次のように著してる。
『一度つけた墨が次第にかすれてゆく様は何ともいえません。貞心尼の線を目で追ってゆく時、そこにはっきりと、貞心尼の息づきや心臓の鼓動を感じることが出来、思わずドキリとさせられます。』
9頁から83頁が本文で歌数は長歌・施頭歌・短歌あわせて151首と、良寛禅師が臨終に近い頃口ずさんだ俳句1首、良寛自作の俳句8首、そして良寛貞心合作の短歌1首等がおさめられている。
「師つねに、手まりを、もてあそび給う、と、ききて奉るとて、貞心尼」
「 これぞこの、仏の道に、あそびつつ つくやつきせぬ、みのりなるらん」
これは、貞心尼が、島崎の良寛禅師にはじめて送った歌と言われている。
するとさっそく、良寛禅師からお返しの歌が届く。
「つきてみよ、ひふみよいむなや、ここのとお とおとおさめて、またはじまるを」
この歌が届いた時、貞心尼はどんなにうれしかったことであろう。
唱和の歌はこの贈答歌から始まり、初対面のシーン、良寛から訪問の催促へと急速に展開する。「つきてみよ・・・」と返歌を受けた貞心尼は、早速島崎の良寛禅師のもとへ参ずる。
「はじめて、あい見奉りて」
「きみにかく、あいみることの、うれしさも まださめやらぬ、夢かとぞおもう」
「良寛様にお会いしていることは、夢ではないかしら」と の心のうちをうちあける。
良寛禅師の返歌
「ゆめの世に、かつまどろみて、夢をまた かたるも夢も、それがまにまに」
良寛禅師70歳、貞心尼30歳の時のことである。
良寛禅師と貞心尼は、歌を通して急速に心の通い合いが深まってゆく。そして、良寛歌で次のような絶唱を生む。
「 いついつと、まちにし人は、きたりけり いまはあいみて、何か思わん」
そして良寛禅師との最後の別れを迎えることになる。
「うらをみせ、おもてを見せて、ちるもみじ」
本文最後に良寛禅師のなくなった日が記されている。
「天保2年、卯年正月六日遷化よわい74」貞心尼34歳の時のことである。
「蓮の露」が完成したのは、序文の最後の記録に「天保6年5月1日」とあるため、良寛没後4年目、貞心尼38歳の時ということになる。貞心尼はこの冊子を肌身はなさぬほど大切にし、おかげで釈迦堂火災の難をも逃れたといわれている。
表紙 序文冒頭 本文末尾 裏表紙
▲表 紙 ▲序文冒頭 ▲本文末尾 ▲裏表紙
※蓮の露の原本は基本的に非公開となっております。閲覧には数種類出版されている複製本をご利用ください。
また、ビデオ「蓮の露―海を愛した貞心尼」(8分34秒)や「貞心尼―図書館所蔵遺墨」(18分)もご利用ください。
●新潟県立図書館・文書館の越後佐渡デジタルライブラリーでは、蓮の露を全ページ見ることができます。
https://nagaoka-navi.or.jp/feature/ryoukann/top 【人々に慕われ、自然の中に生きた「良寛(りょうかん)さん」を知っていますか?】より
名主の家に生まれながらも争いごとを好まず出家し、地位も名誉も捨て、ただひたすら子どもたちと遊ぶことを喜びとした良寛さん。豊かな芸術的天分があり、人柄を感じられる温もりの書や詩歌をたくさん創作した良寛さん。様々な欲や競争に縛られながら生きている現代の私たちにとって、良寛さんの生き方はまぶしく映ります。貧しい生活の中にも自由と豊かさを感じられるのはなぜ・・・?今回は、そんな私たちを魅了してやまない良寛さんについて少しお話します!
良寛さんの生涯
〈良寛さんの誕生から出家〉
良寛さんは今から約260年前の江戸末期、長岡市のとなりにある出雲崎町の名家、町名主で回船問屋の長男として生まれました。当時出雲崎は北前船が寄港する港町で、交易が栄えていました。また、佐渡金山の陸揚げ港だったため、幕府直轄の天領でした。そんな恵まれた家に生まれながらも、良寛さんは18才の時に出家したのです。当時は政治経済上の争いが絶えず、そのような争いを悲観したことが、出家した理由とも言われています。
〈良寛さんの修業時代〉
良寛さんは出雲崎を出てから、備中玉島(岡山県倉敷市)にある円通寺(えんつうじ)という曹洞宗の禅寺で12年間修業し、その後は諸国行脚の旅に出ました。どこかの寺に入ったという記録はありませんが、土佐(高知県)の庵で、良寛さんらしい僧と会ったという記述があります。
〈良寛さん、再び故郷へ。五合庵での暮らし〉
寛政7年(1795)、良寛さんの父親が京都の桂川に身を投げて自殺をしました。それを知ったのか良寛さんは翌年、実家近くに旅の乞食僧として帰郷し、しばらく不定住の時代を過ごします。その後、燕市の国上山(くがみやま)の中腹にある五合庵(ごごうあん)という隠居用の庵に48歳で定住し、約11年間暮らします。仮住まい生活が多かった良寛さんの生涯の中でも、五合庵は特別気に入ったようです。ここでの生活は、里におりて托鉢しながら日々の生活を賄うというもので、良寛さんは家々を回り、お経を唱え布施をし、里の家からは米麦などの喜捨をいただいたのです。
〈乙子草庵時代~良寛芸術の円熟期〉
五合庵から里への登り下りが辛くなったことから、良寛さんが59歳のときにより麓に近い乙子(おとご)神社の草庵に移り住みました。ここで過ごした10年間が、良寛芸術の最も円熟した時期と言われています。
〈終の住処~木村家での暮らし〉
草庵での厳しい暮らしや老齢を心配したまわりの方々の勧めで、良寛さんが69歳の時に木村家(現在の長岡市和島地域)離れの庵室に移りました。良寛さんはここを終の住処として、豊かな晩年を過ごしました。
〈貞心尼との出逢い〉
終の住処となったこの地で、良寛は貞心尼と出逢います。良寛さん70歳、貞心尼30歳。手まり遊びにたとえた和歌を詠みかわしたのを機に始まった二人の清らかな師弟愛は、良寛さんが74歳で亡くなるまで続きました。
その時の様子をまとめた歌集「はちすの露」にちなんで、和島地域には「はちすば通り」と名付けられた通りがあります。
〈良寛さんの死〉
そして、良寛さんは天保元年(1830)夏頃から下痢と腹痛を訴え、12月には危篤状態となります。そして、亡くなる前日には「裏を見せ表を見せて散るもみぢ」と言い残し、翌年の1月6日、親しい人たちが見守る中、良寛さんは息を引き取りました。享年74歳。直腸がんが主な原因と言われています。
五合庵
五合庵
五合庵
五合庵は、森の中で目立たない極めて簡素な茅葺の小庵です。良寛はここで座禅をし、古典を読み詩歌を詠じ、時に托鉢に出かけました。現在の建物は大正3年に再建されたものです。
はちすば通り
平成3年4月に「良寛の里わしま」がオープンした際に、ここを訪れる人たちから当時の良寛さんと貞心尼の清らかな師弟愛の一端を感じてもらいたいとの思いから、良寛さんと貞心尼が歌を詠みかわしながら歩いたであろう、この木村家から良寛の里までの通りを「はちすば通り」と名付けました。良寛さんのお墓や良寛さんの托鉢像など、数多くの史跡が点在しています。
良寛さんの人柄が伝わる数々のエピソード
良寛さんにまつわる心温まるエピソードをいくつか紹介します。
①かくれんぼ
子どもたちとかくれんぼをすることになった良寛さん。鬼役の子どもが見つけてくれるのをじっと隠れて待っていましたが、なかなか良寛さんを見つけられなかったため、すでに良寛さんが帰ってしまったものだと思い込み、子どもたちは良寛さんを残したまま家に帰ってしまいました。翌朝、子どもたちが同じ場所に行ってみると、なんと良寛さんは昨日と同じ姿勢のままで息をひそめながら隠れ続けていたそうです。なんとも無邪気で純粋な良寛さんの人柄が伝わります。
②泥棒さわぎ
ある日、乙子神社の草庵で寝ていたところ、泥棒が入ってきました。良寛さんは寝ているふりをして様子をみます。ところが至極質素な生活を送っているものですから、盗むものが何もありません。そこで、泥棒は良寛さんが寝ている布団を剥ぎにかかります。良寛さんは剥ぎやすいように寝返りを打ちながら知らんふりをして、布団を与えてやったそうです。このとき詠んだ歌が「盗人(ぬすびと)にとり残されし窓の月」(泥棒はなんでもむさぼるように持って行ったが、窓から見えるあの月は取り残していったようだ)です。
③子どもの凧に書いた「天上大風」
托鉢をしている良寛さんのところへ子どもが紙と墨を持って、字を書いてくれとせがみました。書の依頼ならだいたい断っている良寛さんも、子どもからの依頼には「よしよし」と快く受けます。この紙をどうするのかと訊ねると、凧にするということだったため、「大空に良い風が吹き、上手に凧揚げができますように」という願いを込め、「天上大風(てんじょうたいふう)」と書いてあげました。
「良寛芸術」の奥深さ
良寛の里美術館
厳しい修行と学問の中で、良寛さんはあたたかい人柄が感じられる書や歌、漢詩を数多く残しました。
〈良寛さんの書〉
良寛さんの書は線が細く、一見、素人が書いたようなつたない字の形をしています。
しかし、なぜかこの素朴な文字が、多くの有名人を夢中にさせてきたのです。
例えば、夏目漱石。執念で良寛の書を手に入れた漱石は、そのお返しに自分の書を求められ、こう言いました。「良寛を得る喜びに比ぶれば、悪筆で恥をさらす位はいくらでも辛抱つかまつる」。
また、現代を代表する書家のひとり、石飛博光(いしとびはっこう)さんは「良寛さんのあれを書いちゃったら、あの先が見えてこないのね。究極の、すべてをそぎ落としていったら、きっと残るのはああいう字が残るのかなと」。と評しています。
誰も真似できない、唯一無二の書のスタイルを貫いた良寛さん。なんだか書道界のピカソのような存在に感じられますね。
〈良寛さんの歌〉
良寛さんが生涯残した歌は1,400首、漢詩は600首もあると言われています。
「たくほどは風がもてくる落葉かな」(一人で生きてゆくにはこの草案の自然の恵みだけで十分であり、お金も地位も名誉も私には無縁です)
こちらの句は、乙子草庵時代に、長岡藩主が良寛さんを訪ねてやってきて、長岡藩に来ないかという誘いに対して断るために詠んだものです。風情を込めてやんわりと、しかしながら芯の強さを感じる見事な断りの句となっています。
「良寛記念館」&「良寛と夕陽の丘公園」
「良寛記念館」&「良寛と夕陽の丘公園」
良寛さんが生まれた出雲崎には、良寛さんの壮年期から晩年期までの遺墨のほか、良寛さんの逸話をテーマにした棟形志功などの作品が鑑賞できる「良寛記念館」があります。すぐ隣にはにいがた景勝百選第一位に選ばれた「良寛と夕陽の丘公園」があり、眼下には妻入りの街並み、遠くには日本海と佐渡、弥彦山などを一望できる絶好のロケーションが広がります。
愛弟子・貞心尼(ていしんに)との清らかな心の交流
貞心尼(ていしんに)という40歳も年下の尼僧との出逢いが、良寛さんの晩年に心温まる彩をもたらしました。
良寛さんの歌と書を知り、人柄に感銘を受けた貞心尼は、良寛さんの弟子になりたいと思い、住んでいた閻魔堂(長岡市福島)から20キロの道のりを歩いて、良寛さんの住む和島の木村家まで会いに行ったのです。このとき、貞心尼30歳、良寛さん70歳でした。しかし、良寛さんは寺泊のお寺に出かけていて不在でした。残念に思いながらも、貞心尼は次の歌と手毬を残して帰りました。
「これぞこの 仏の道に 遊びつつ つきや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ」(良寛さまは、仏の道を学ぶ手段として手毬をついて遊んでいますが、私も一緒に尽きない仏道を学びたいと思います)
寺泊から帰った良寛さんは、この歌と手毬を受け取り、「つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九の十(ここのとを) 十とをさめてまた始まるを」という歌を返しました。この歌の「つきてみよ」には、手毬をついてみなさいという意味と、私について(弟子になって)みなさいという意味が込められているようです。
この年の秋に無事に二人は出会い、その後、良寛さんが亡くなるまで約3年間、清らかな心の交流が続いたのです。
貞心尼は、良寛さんとの歌のやりとりを歌集「蓮(はちす)の露」としてまとめました。このおかげで、後年、良寛さんが広く知られるようになったとも言われています。
良寛さんが私たちに教えてくれるもの
現代、私たちは、便利な暮らしを送るための物質的な豊かさ(お金など)をとにかく求めています。良寛さんは、お金もなく、食べ物もない中で、なぜ多くの心豊かな書や詩歌を創作できたのでしょうか。
良寛さんは、いっさいの名誉や欲を捨て、束縛からも離れ自然に任せることで、ただ一人の人間であることを選びました。そして、子どもたちを愛し、子どもたちと同じ目線で遊び、子どもたちもまた、良寛さんを慕いました。
どこにも属さず、何も持たず、自然と子どもたちを愛し、あるがままに生きる。
良寛さんの生きざまそのものを真似するのはかなり難しいことではありますが、いま少し、「心の豊かさ」について立ち止まって考えてみるのも良いかもしれません。
その時は、良寛さんの書や歌に触れたり、良寛さんのゆかりの地に足を運んでみてはいかがでしょうか。
0コメント