橙の寄り添ひて無限大かな  五島高資

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https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/092700207/ 「世界だ」と思い込んでいた場所の外に、青空が広がっていた】より

『小論理学』ヘーゲル著By岡 敦

※この記事は日経ビジネスオンラインに、2009年9月15日に掲載したものを転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。

え、「弁証法」って自分で作れるの?「弁証法」とは、「対話をモデルとした思考法」のことだ。だから、対話風の考え方をすれば、すべて「弁証法」と呼ばれる資格がある。

「プラトンの弁証法」「キルケゴールの弁証法」といった言い方もするし、山田くんが独自に対話式思考法を開発すれば、それは「山田の弁証法」と呼ばれてもおかしくない。

しかし普通「弁証法」と言えば、それはヘーゲル(1770-1831年、ドイツの哲学者)の弁証法だ。

ヘーゲルの弁証法は役に立つだけでなく、スケールが大きくておもしろい。なにしろそれは、「対話をモデルとした思考法」というだけではなく、さらに「(対話の進展に似ている)物事の変化・発展の法則性」をも指しているのだ。

 弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる生命、あらゆる活動の原理である。

三項図式で、コーヒーがカフェオレになった

ヘーゲル弁証法の第一の特徴は、思考や物事の発展を三段階でとらえることだ。 たとえば、次のように。

●例A

(1) ぼくは、目覚ましにコーヒーを飲もうと思った。

(2) しかし「健康のために牛乳を飲むべきだ」と妻に言われ、どうすべきか悩みに悩んだ。

(3) 結局カフェオレにしたら、目も覚めたし、体にも良かった。

最終的には、ぼくの希望と妻の意見両方の「良いとこ取り」をしたベストの結果になった。

上の例を抽象化し、骨格を取り出すと次のようになる。

(1)ひとつの意見がある。

(2)その反対意見が出て、対立する。どちらが正しいか迷う。

(3)対立する意見を統合して、第三の、より優れた意見になる。

「(1)→(2)→(3)」と進展していく、その各段階で出される意見を「正・反・合」「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」と言ったりする。

「涙の数だけ強くなる」のが、弁証法的発展 もうひとつ例をあげよう。

●例B

(1) 彼は彼女に夢中。「彼女はステキな女性だ、長年追い求めた理想の女性そのものだ」と友人に話す。

(2) 友人は否定的な意見を言う。「おまえは現実を知らない。彼女がどれほど悪い女か、これまでどんなことをやってきて、泣いた男がどれだけいることか」と。

まるで眼前に壮大な悪の絵巻が展開されて、その恐るべきアンチ・ヒロインとして彼女が君臨しているようだ。彼の恋心は真っ向から否定された。彼の気持ちは揺れ動く。

(3) やがて落ち着きを取り戻した彼は、「いろいろな経験をして、たくましく生き抜いてきたからこそ、彼女は最高にステキな人になったのだ!」と彼女の魅力を再確認し、あらためて夢中になる。

(3)は「彼女に夢中」という点では(1)と同じだ。

異なるのは、(1)の段階では知らなかった否定的な見解を知ったうえで、すべて承知し、なお肯定していることである。

これは強い。今後どんなに悪いウワサを聞いたって、そんなことは既に了解しているのだから、愛する気持ちは1ミリたりとも揺らぐことはない。

このように、(2)の迷いの時期を経て(1)から(3)にグレードアップすることを「弁証法的発展」と言う。

弁証法的発展をする場合は、(2)の迷いの時期も決してムダではないことになる。

実は人間は、無意識に弁証法的な考え方をしているのだ ヘーゲルは、次のように言う。

われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。

実際、人生のさまざまな局面で、われわれは弁証法的な考え方をしている。

●例C

(1) 新しい仕事を始める(あるいは、新しい技術を導入する)。最初はノンキに、うまく行くと思い込んでいる。

(2) トラブル発生。批判され、新しく始めたことは間違いだったのではないかと迷いが生じる。

(3) 批判を反映して、改善する。迷いは消えて、やっぱり正しかったと確信する。

上のような経験は誰にでもある。そして、「苦しい時期をがんばって耐えれば、以前よりも強くなる」「トラブルは、きちんと対応すれば、アドバイスや応援をもらったのと同じぐらい有益だ」といった教訓を得る。いずれも「弁証法的」な表現である。

想像以上に手強いけれど、『小論理学』を読もう

弁証法を知りたいなら、ヘーゲルの『小論理学』を読むべきだ。

と言っても、この本は「手頃な入門書」などとは間違っても言えない。タイトルに「小」がついているけれど、岩波文庫版でも上下二冊に分かれた、量も内容もかなり手応えのある本だ。

それに、この本を題名どおりの論理学の本だと思うのも間違いだ。

そもそもヘーゲルには、「人間は世界を理性的にとらえるものだ」という前提がある。

つまり、「論理=『理性の働き方』=世界認識の仕方=世界の仕組み」なのである。

だから、ヘーゲルの論理学は、認識論でもあり、存在論でもある、ということになる。想像するだけでも読みにくそうな本だ。そして、実際に手に取れば、想像など、まだまだ甘かったことがわかる。だから、一読してすべてを理解しようなどと力まず、まずは「弁証法」とはどんなものか、そのだいたいのイメージがつかめればいいと割り切って、軽く眺めてみるといいと思う。そのぐらいの読み方をしても、この本から得られるものは実に多いのだ。

「成は、有と無の統一」--日が暮れるまで考えよう。

この本がどれほどワケがわからないか、一例を挙げよう。

 無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成(Werden)である。「成とは、有と無の統一である」などと書いてある。いったい何を言おうとしているのだろうか。自分で具体例を考えない限り、理解のしようがない。

そこで、「オトナに成る」という例を考えてみる。

今、オトナで「ある」ということは、もう子どもでは「ない」ということだ。こういう「ある」と「ない」の統一が「成る」ということの意味、なのだろうか。

あるいは、「成」とは「変化」のことかと考えてみる。

個人でも集団でも、あるいは市場でもいい。それらは常に変化している。

「それは、こういうものだ」と言葉でキッチリ定義したくなるが、言ったとたんに古くなって、実態はもう別なものになっているだろう。

つまり、物事はすべて、こういうもので「ある」と言えそうだけれど、言ったときには既にそうでは「ない」、それが物事はすべて「変化」しているということだよ、ということだろうか。

……こんなふうに自分なりに解釈しながら読むことは、たとえ学問的には間違っていたとしても、自分の成長にはとても役立つと思う。旅行のガイドブックを読んだだけでその土地を知ったつもりになるよりも、道に迷いながら自分の足で歩いたほうが、はるかによくその土地に馴染み、通じることができる。それと同じだ。たとえ、日が暮れたり、天気が崩れたりして、目的地までたどり着けなかったとしても、だ。

とりあえず出発して、後から反省する方法

また、そのような読み方こそ、「弁証法的」だとも言える。

弁証法とは、絶対に確実なことをレンガのようにひとつひとつ積み重ねていく方法ではない。

とりあえず自分の目の前の「ここ」から出発する。そして、後でどんどん修正していく。つまり、改良版から改良版へと移っていく方法だ。今やっていることは「常に暫定的(とりあえず)」なのである。

この地平の限界から、未知の地平へ出るのだ

逆に言えば、弁証法は、今ここで見ているもの、考えていることを絶対化するな、と戒めている。

上のいくつかの例で見たように、弁証法は、(1)→(2)→(3)と進んでいくが、その各段階は、まったく別なステージ、異なった地平である。

どの地平(ステージ)にいるときも、この地平に限界があるとは思えない。

次の地平がどんな地平なのかと想像することもできないし、そもそも、次の地平なるものがあるということさえ知らずにいる。

だが、それでも必ず、この地平には終わりがあり、新しい地平に進むときがやって来る。

そのとき、それまで視野いっぱいに広がっていた世界が、世界の一要素に過ぎなくなる。

自分が絶対視していた価値や意味が、実は小さな世界内だけでしか通用しない価値や意味だったと思い知る。

自分の視界は、実は閉ざされていたのだ。どこまでも広がる空だと思って見ていたのに、実は厚い雲を見ていただけだった。その雲が切れて、今、青空を見るのである。

ぼくが『小論理学』を読んだころ

ぼくが『小論理学』を読んだのは、高校時代の終わりの冬だ。高三の秋、ぼくの家は破産し、両親は離婚した。父は、その当時に個人で億円単位の負債を抱えてしまったのだ。

父は、債権者と警察の追及を逃れて姿を消した。以後は音信不通で生死もわからなくなる。

既に大学生になっていた兄は、奨学金とバイトを頼りに一人暮らしを始めた。

母とぼくは、債権者から逃れるため、親戚の家に寝泊まりするようになった。しかし、そう長く迷惑はかけられない。結局、冬には東京近郊の飯場で暮らすことになった。

ぼくは、高校を休んで、女子高の体育館建設現場で働いた。

前に書いたように、高校時代、ぼくは新左翼の活動に関わっていたが、三年の秋ごろには、自分の思考や行動に問題を感じていた(繰り返すが、ぼくは当時の運動について論評する資格も意欲もない。ここで問題視しているのは、あくまで、当時のぼく個人の思考や行動についてである)。

このままではどうにもならない、どうしたらいいのかと、ぼくは迷った。しかし、もともと、ぼくなりに考えに考え抜いて始めたことだから、簡単には方向転換できない。「いっそのこと、このまま、行くところまで行ってしまおう」というヤケクソな気持ちにもなっていた。

そんなときに生活が急変し、気がつくと、ぼくは建設現場にいた。そして、鉄パイプを運んだり、一輪車にスコップで土を入れて運んだりといった慣れない作業をして疲れ果てているのだった。

風景が変わる、明るい建設現場

数か月にわたる我が家のドタバタ騒ぎの後にたどり着いた建設現場であるが、その風景は、意外なことに、とても明るいものだった。

季節が冬だったので、単純に、空が青く、雲が少なかった、ということもある。

いっしょに働いていた人たちが、みんな親切で優しかった、ということもある。

しかし、それだけではないと思う。

理由はわからないが、とにかくぼくは、自分が、それまでとは違うどこか、自分が想像もしたことのない土地に立っていることに気づいたのである。

見回せば、風景が一変していた。

それまでぼくの視野の中心にあって展望を妨げていた何かが、すっかり小さくなって、視界の端に退いていた。

そして、視線の先には、寂しいといえば寂しい、しかし「明るく開けている」とも言えそうな空間が、どこまでもどこまでも広がっていた。

ぼくはもう、それまでの思考の延長で考えてはいなかった。それを外から眺めるようにして、検証していた。そうして、新左翼の活動から離れたのだった。

未知の地平へ誘う思考法

ぼくが『小論理学』を読んだのは、そんなときである。

当時のぼくの理解では「弁証法」とは、単なる三項図式(正・反・合)ではなかった。

展望が見えないとき、先が見えないときに、ぼくたちは「もう限界だ」と思う。破滅の予感に恐怖したり、諦めたりする。しかし、弁証法は、そんな態度を許さない。

「もう限界だ」と思うのは、その地平の限界に過ぎない。

今、ここにいるときは見えないが、この地平の果て、その限界の先には、必ず新しい別の世界がある。今、この、どうしようもない「ここ」から、別の、より広い、より高い地平に行くときが必ず来る。そこへジャンプすれば、今は見えていないものが見えるようになって、こんな問題は解決できるようになる。新しい発想は、今の延長上ではなく、まったく新しい地平、予想外の新展望の上で生まれてくるのだ。だから今は、全力で、行けるところまで行け。

そうすれば、この地平の果てで、さらに、次の地平へジャンプできるはずだ!

弁証法とは、そのように誘う思考法である。

これが、土木作業でへろへろになりながら、高校生のぼくが理解した「弁証法」だった。

***

「永劫回帰・輪廻転生」とは?

「永劫回帰・輪廻転生」から私は ブラックホール・ホワイトホールの逆渦を連想します。

宇宙の誰もが知る公理に回転があります。回転からは遠心力、求心力が生まれます。

何かが時計回りに回転すれば、反時計回りの渦が生まれるということです。

創造のみ柱は時計回りの渦と反時計回りの渦で表現されます。

命は(現象世界は)「精神が己を外化しつつ発展してゆく過程(現象学的物理学)」であり、死とセットといえるのかもしれません。

死のスピリット(エネルギー・精神・意志・渦)が働けば生のスピリット(エネルギー・精神・意志・渦)が生まれ、生のベクトルが生まれれば死のベクトルが生まれる・・・・渦の大きさは意志の強さによるのでしょうか?

カルマン渦と呼ばれる逆渦の流れも知られています。

カルマン渦をシンボリックに表現した「命の木」の図をよく見ます。命が死と再生の逆渦であることを暗示しているのではないでしょうか?

カルマン渦とはウィキペディアでは

「カルマン渦(カルマンうず、英: Kármán's vortex[1])またはカルマン渦列(カルマンうずれつ、英: Kármán's vortex street[2] )は、流れのなかに障害物を置いたとき、または流体中で固体を動かしたときにその後方に交互にできる渦の列のことをいう。ハンガリー人の流体力学者セオドア・フォン・カルマンにちなむ。」と紹介しています。

さらにカルマについては「業(ごう)とは、仏教の基本的概念で、サンスクリットのकर्मन् (karman) を意訳したもの。

サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。業そのものは、善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。

今日、一般的にこの語を使う場合は、(因縁・因果による)行為で生じる罪悪を意味したり(例えば「業が深い」)、不合理だと思ってもやってしまう宿命的な行為という意味で使ったりすることが多い。」と記しています。

地球の北半球と南半球では渦が逆巻きになるといわれます。

リンゴの皮をむく実験を見ました。皮を細く細く向いていくと、芯を中心に反転する逆渦の形になります。

球とは芯を中心に反転する、時計回り、反時計回りのメビウスの輪が形作る世界といえるのではないでしょうか?

「悪い部分が、どうしようもなく、ますます酷くなって行く」という言説は創造のエネルギーが極まり転じ、破壊のエネルギーに傾いてゆくということではないでしょうか?死と再生がセットであり、時計回り、反時計回りの渦がセットであるということからも言及できるのではないでしょうか?

輪廻転生の基本は、エネルギー不滅の法則、そしてエネルギーである霊魂不滅の法則です。人間は「肉体」と「意識体」から構成されており、その寿命とともに「肉体」は死滅するが「意識体」=「霊魂」は死ぬことはなく、然るべき場所(魂の故郷)に帰っていくといわれています。

輪廻転生を裏付ける3つの報告があります。

1)前世の記憶をもって生まれてくる子どもがかなりの割合でいて、それらの子どもが覚えている前世に関してのインタビューから

2)臨死体験を持つ人々の聞き取り調査から

3)深層催眠によって、その人の前世の記憶を引き出すことから、何代にも亘って転生を繰り返していることが報告されています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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