facebookYoshitane Akiyamaさん投稿記事【いよいよ私たちが分離・孤独感から目覚め、一体性を思い出す時です】
この動画は先月、一体性を思い出すためのアニメーション映画「イザヤからの手紙 イザヤの遺言」を再見し、鑑賞直後の素直な気持ちを自撮りしたものです。私たちのすべての苦しみ、悲しみはすべて、一体性を忘れ、分離・孤独の感覚に囚われたからにほかなりません。
分離は比較、競争を生み、今の地球は争いや戦争が絶えない星になってしまっています。
世界の変化、地球の変化は、ますます佳境に来ており、人類がこの地球と調和的に存在できるかは、私たち、特にヤマトの国にいる私たち日本人の意識にかかっているといっても過言ではありません。
大切なのは、我が国、「和の国」がどのような想いで創られたか、その原点を思い出すことです。
分離、比較、競争の今の価値観を続けては、この地球の未来は暗いものになるでしょう。
ですが、今、私たちの中に眠っている、レムリア・ムー・縄文のスピリットを呼び覚まし、万物の一体性を前提に意識し、言葉を発し、行動していくならば、愛と歓びの世界・エデンに戻ることも十分に可能です。
そうです、イザヤさんの直系のわたしたちがまずはこの一体性の真実を思い出し、発信し、世界に手本を示すのです。私たちのDNAの中、魂の奥には、この希望のかけらが光っています。今こそ、その内なる希望の光を見いだし、輝かせようではありませんか。
勇気をもって、恐れや不安を手放し、無限の愛の力を信頼し、自らが神の愛の体現として「在る」時が来ました。
今の生命に喜び感謝し、次の世代の子どもたち、すべての生命のために美しい新エデンを創ろうではありませんか。魂の仲間である皆さまとのご縁に深く感謝致します。
https://t-ecobito.jp/hibico/ecoaction/live/haiku/entry-285.html 【俳句で気持ちを伝えよう、共感し合おう】より
有名な松尾芭蕉の俳句もいいけれど…見たこと、感じたことを何でも文字にしてみてください。自分の記録として。
普段の話し言葉とはひと味違うから、感慨があるんですよね。
わたしもこれまで俳句を作ってきて、今読み返すと、思い出がよみがえります。
当時の悩み、悲しかった事など、つい最近のように…
逆に、どんな困難も乗り越えてきたなと思うとせ感とパワーが生まれるんですよ。
その人の生きざまがわかる、俳句。たった17文字なんですけどね。不思議ですね。
身の回りに、俳句の素材がいっぱい俳句の素材は、そこかしこにあるのですが
最も身近なところでは、台所かな。
自然から届いた食材がいっぱいだから、俳句の素材の宝庫なんですよ。
お味噌、しょうゆ、大根、まな板、包丁季語も「風呂吹き」「貝割菜(かいわれな)」「抜き菜」「干大根」大根を見るだけでも深く探っていけますね。
では、ここで一句
「まな板の 音カツカツと 冬に入る」包丁とまな板のあたる音、冬の冷たさを
「カツカツと」と表現してみました。いかがでしょう?
気持ちを伝えよう、共感し合おう俳句は自然の詩だけでなく、人間のふれあいの詩です。
「人と人との文芸」なんですよ。
だから、自分の作った句を鑑賞してもらうのも、俳句の味わいのひとつ。
わたしは句会に参加したり、吟行をして仲間と俳句を楽しんでいます。
※句会とは、複数の人が自作の俳句を持ち寄り、
お互いに評価しあったり指導者の指導を受けたりする集まりのこと。
※吟行とは、俳句の題材を求めて、名所・旧跡などに出かけ、俳句を作り詠むこと。
仲間と俳句を作ると、他の人の句に共感できたり、
同じことを経験しても人それぞれ違う句ができて、新しい発見があったり。
自作の句に対し、自分の思いより、さらに深い観賞をしてくれるのもまたうれしいです。
今ではインターネッでの俳句や句会という手軽な楽しみ方もあるんですよ。
句会に出向くのはちょっと…という方は、まずはパソコンの画面上から、こっそり始めてみるのもいいですね。
大切な人に贈る
句会だけでなく、葉書や便箋の裏に俳句を添えたことも。
先日は、入院中の大切な友人のお見舞いに俳句を詠み贈りました。
自分の心を、そっと俳句の中に閉じ込めて贈る。
相手のことをよく知っていて、相手のことを思う気持ちがあるからこそ
できたことですね。
https://jphaiku.jp/how/omoi.html 【風景や物に想いを載せる】より
喜びや寂しさ、感動などの心の動きは、そのまま「子供が死んで寂しい」などと書いてしまうと、単なる説明になってしまいます。
とんぼつり今日はどこまでいったやら
これは江戸時代の女性俳人、加賀千代女(かがのちよじょ)の作品です。
彼女には息子がいたのですが、幼い頃に死んでしまいます。
いなくなってしまった息子は、きっとどこか遠くまでとんぼつりに出かけてしまったのだろう、早く帰ってこないかなぁ、という子供を偲ぶ句です。
あるいは、息子は天国でもとんぼつりをして楽しく暮らしているのだろうか、という解釈もできます。
作者の感情を断定的に書かないで、とんぼつりに託したことで、読み手は千代女の気持ちを想像して、より深く、その悲しみや寂しさ、親心などを理解し、共感することができます。
松尾芭蕉の高弟、服部土芳(はとりどほう)は、その著書『三冊子(さんぞうし)』の中で、この点について、次のように述べています。
物によりて思うふ心を明かす。その物に位をとる。
引用『三冊子』 著者:服部土芳
「物に託して、心を表現することが大切です。 その心にふさわしい品位を物によって表します」 という意味です。
例えば、正岡子規の句で、次のような作品があります。
いくたびも雪の深さを尋ねけり
これは病気で寝たきりになってしまった子規が、雪景色を見ることができずに、どれくらい雪が積もったか、何度も尋ねてしまった、という意味です。
『雪』の儚い、それでいて冷たく冬の厳しさも感じさせるイメージが、病床にある子規の気持ちを代弁してくれています。
物に気持ちを託す場合には、その物の持つ品位、言い換えるとイメージが大切であるということです。
感情を述べずに、物に託して伝えることで、単なる説明では伝えきれない深い心の動きまで読者に伝えることができるというのが、俳句の醍醐味です。
ポイント
物の持つイメージ
物に気持ちを託す場合は、物の持つイメージが大切です。
我と来て遊べや親のない雀 これは、小林一茶が母親と幼くして死に別れた不幸な子供時代を思い出して読んだ句です。「親のない雀の子、一緒に来て遊ぼう」という意味です。
ここでは、雀の持つ、小さくて可愛らしいイメージ、いたずら子供っぽい感じが、一茶の気持ちを表現するのに役立っています。
これがキツネやタヌキだと、なんだか小ずるそうな感じがしてしまい、まったく違った印象を受けるでしょう。
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