https://kyoto-design.jp/spot/2828 【毘沙門堂 びしゃもんどう】より
毘沙門堂門跡
代々法親王が住持される「毘沙門堂門跡」寺院
京都市山科区安朱の毘沙門堂は、大宝三年(703年)に文武天皇の勅願により行基が創建した京都市上京区の護法山出雲寺が起源と云われています。平安時代末期には荒廃していた出雲寺は、建久六年(1195年)に平親範(圓智)が廃絶していた平家ゆかりの三寺(平等寺、護法寺、尊重寺)を合せ、天台宗の宗祖伝教大師ご自作の毘沙門天を本尊とした仏堂を再興したことから、毘沙門堂と呼ばれるようになりました。その後、たび重なる戦乱によって焼失し移転を繰り返すこととなりますが、江戸時代、後陽成天皇の勅命で天台宗の天海によって現在地(山科区安朱)に再興が始まり、寛文五年(1665年)その弟子の公海により完成しました。この毘沙門堂では後西天皇の皇子公弁法親王が受戒し、晩年には隠棲されたことから代々法親王が住持となり、門跡寺院「天台宗五箇室門跡」のひとつとなりました。
また、伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、天台五箇大法のひとつとして毘沙門堂だけに伝わる秘法です。
境内の中央に位置する霊殿は、江戸時代に御所の御霊屋が移築されたもので、歴代の天皇と徳川将軍の位牌が安置されています。霊殿の西に位置する宸殿は、同じく御所にあった後西天皇の旧殿を移築されたもので、門跡の書院とされました。宸殿とともに御所から移築された勅使門にいたる参道は紅葉の名所となっています。境内の東に位置する弁天堂には、太閤秀吉公の大政所高台尼公が大阪城内で念じていた弁財天が安置されています。
江戸時代初期の池泉回遊式庭園「晩翠園」には、心字の裏文字を形取った池、亀石、千鳥石、座禅石などが据えられ、秋には紅葉の名所として知られています。
[[[(文:kojiro)]]]
見どころ
山科駅から北へ15分から20分上り坂を歩くと、極楽橋の傍に立つ寺号の「門跡碑」そして長く急な石段、春は枝垂れ桜、秋は紅葉と四季折々、色とりどりに彩られる京都でも美しい名所のひとつ毘沙門堂です。参道をあがると阿吽の二天像がまもる本堂の表門「仁王門」があります。
春は名高い桜の名所「毘沙門枝垂れ」「一目千両」とも呼ばれる宸殿前の樹齢150余年、高さ約10m・枝張り約30mのシダレザクラ「般若桜」や約40本の桜が境内を彩り、4月のはじめの日曜日には「山科毘沙門堂観桜会」が行われ、筝の演奏と共にお茶席(有料)が設けられます。
もみじの名所としても名高く、夏には参道や境内は青もみじが色鮮やかにいきいきと映え、秋はもみじが色づき、紅葉すると境内は京都で一、二の見事な紅葉で染められて行きます。「晩翠園」や「高台弁財天」など見どころは満載で特に、参道から「仁王門」に続く石段の紅葉のじゅうたんや「晩翠園」の池や板張りの床への紅葉の映り込みは息をのむほどの美しい場面を見せてくれます。
冬の雪景色も格別で、弁天堂や晩翠園など幽玄の世界を思わせます。また、地区の振興にも貢献されており、12月14日の山科義士まつりの義士隊はここから出発します。
本尊毘沙門天、おみたけ二寸二分伝教大師作の秘仏。
代々法親王が住持される「毘沙門堂門跡」寺院でご本尊「毘沙門天像」(秘仏)は「本堂」(写真撮影禁止)に安置されています。
また、文化財の狩野益信筆の襖画「九老の図」、圓山応挙筆「板戸の衝立」や霊殿の守護龍「天井龍」は見る位置によって動くように見える不思議な絵ということでも有名です。
境内では御所にあった一般には一切開門されない檜皮葺きの総門の「勅使門」や「宸殿」「霊殿」そして「高台弁才天」。また、水を引き滝を造った江戸初期の池泉回遊式名園「晩翠園」は心字の裏文字をかたどった池に名石の亀石、千鳥石、座禅石が配置されており、一角にある鞍馬自然石の銘器「手水鉢」とともに背景の山科の山を借景にお楽しみください。
毘沙門堂はまた、京の七福神めぐりのひとつとして参拝され、商売繁盛や家内安全にご利益があり、一月初寅参りには福笹が授与されています。
https://gururinkansai.com/ekoinbishamontendo.html 【毘沙門堂】より
毘沙門堂は、和歌山県高野山恵光院にある。
堂内には、中央に毘沙門天、向かって左に愛染明王、右に不動明王が祀られている。
この不動明王は、弘法大師空海が唐に留学僧として渡った際に航海の安全を守ったことから、「舵取り不動」の名がつけられている。
毘沙門天は、仏教の護法神で、サンスクリット語バイシュラバナの音写から転じて、毘沙門天となった。多聞天、遍聞天とも称される。
インドのベーダ時代からの神で、元は暗黒界の悪霊の主であったが、ヒンドゥー教では、財宝、福徳をつかさどる神となった。
仏教では、四天王の一尊で、後世には武将姿のまま七福神の一つに数えられ、福徳を授ける神として信仰されている。
この毘沙門天は、高野山七福神(熊谷寺ー恵比寿、熊谷寺寺宝院ー布袋尊、恵光院ー毘沙門天、宝善院ー寿老人、宝善院奥の院ー福禄寿、本覚院ー弁財天、本覚院西生院ー大黒天)の一つとされている。
https://goto-acros.net/fudasyo/fukue/no44.html 【第44番札所こもりぶちびしゃもんどう篭渕毘沙門堂】より
●住所:長崎県五島市篭渕町 ●本尊 毘沙門天
●真言 おん かかかび さんまえい そわか
◆手洗い/有、トイレ/無、駐車場/無
◆場所
GS横の交差点を脇道に入って、道なりに行くと途中で右に曲がるのだが、間違えても右手を見ていれば鳥居が見えるので分かる。
◆行事:おとや(新)9月1日、2日
以前は一人の女性が長い間お堂のお世話をしてくれていましたが、高齢となって現在は養護施設に入っていますので、今は地区の役員がお堂のお世話をしています。役員は2人で2年交代、1人が1年間受け持つと後1人が残りの1年間を担当するようになっています。役員がお盆と正月にはお堂の飾りつけに行きます。町内の人で毎月お参りに行っている人もいます。 4月21日のお大師さんの日には特別なことはしていません。新の9月1日と2日は「おとや」(お通夜と書いて「おとや」という)の祭りだそうです。昔は地区のみんながお堂に集まってにぎやかだったそうです。9月1日は役員が集まりますが、2日は昼に明星院の住職に来てもらって拝んでもらいます。
この地区は「上の村(うえんむら)」と「下の村(したんむら)」に分れていて、それぞれの村で綱を作り、2本の綱を1つにして、正月3日には綱引きをします。終わってから「上の村」が作った綱は毘沙門堂に、「下の村」が作った綱はヤマズミの神の神社に納めます。綱引きは公民館の前の道で行われるということです。山の神の神社のお祭りは7年祭といって7年ごとに行われます。
◆名所・旧跡
*毘沙門天
日本では一般に革製の甲冑(かっちゅう)を身に着けた武将風の姿で表される。宝棒(仏敵を打ちすえる護法の棍棒)と宝塔(円筒形の塔身に平面方形の屋根を持つ一重塔)を持つ。無病息災、財福の神(福の神)。七福神の1つ
*大山祇神社
オオヤマツミの「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、オオヤマツミは「大いなる山の神」という意味になる。また別名を和多志大神といい、「わた」は「海」の古語なので海の神を表す。すなわち山、海の両方を司(ちかさど)る神ということになる。ニニギノミコトはオオヤマツミの娘であるコノハナサクヤヒメと結婚する。このときオオヤマツミは姉のイワナガヒメを一緒に送った。イワナガヒメは容姿が醜いので送り返された。その時オオヤマツミが「イワナガヒメを添えたのは天孫が永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と言ったといわれる。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子孫から第一代の天皇である神武天皇が生まれたということになっている。
0コメント