https://gotofan.net/ukujima/uku-04/ 【五島列島の祖と言われる宇久島にある平家盛の足跡
宇久島】より
五島列島の五島の名は、平家盛が宇久島に上陸して居を構えたことから始まると言われている。宇久島に残る平家盛の足跡を追ってみた。
平家盛は平清盛の異母弟
平家盛は、平清盛の異母弟にあたり壇ノ浦の戦いのあとに、宇久島に逃れて移り住んだと言われている。宇久島では、宇久性を名乗り、後の子孫が五島性に改名し五島家の祖と言われる人物である。五島列島の歴史を紐解くときには、平家盛の名は避けては通れない。
平家の紋所。丸に揚羽蝶の蝶紋と呼ばれている家紋。
宇久平港ターミナルの前に設置されている平家盛(左)と藤原久道の銅像。宇久島に訪れる人たちを迎えるように平家盛が建っている。
平家盛の像を過ぎるとすぐに盛州公園がある。平家まつりのメイン会場になっている他、憩いの広場として開放されている。和風庭園の様相で心落ち着く公園。
家盛が宇久に上陸の地 火焚崎
平家盛が宇久島に上陸した地とされている岬が火焚崎と呼ばれている地だ。平家盛が上陸した時に火を焚いて暖をとったことからこの岬を「火焚崎」と呼ばれるようになった。
この地は宇久島の西の岬で夕日を見るのにも絶好のスポット。
平家盛公以下七代の墓
平家盛が宇久島に上陸した1187年(文治3年)に宇久家(後の五島家)の菩提寺として東光寺が建立された。宇久を名乗る領主の墓。
東光寺の山門。高台にある寺からは宇久港を望める。
平家盛公以下七代の墓。
福江島の福江城にある五島家藩主の名板。この七代目までが宇久島の墓に眠っている。
宇久氏の館跡
平家盛以下宇久氏七代が住んでいた館の跡地。土台となる石垣が残されている。
館の跡は、宇久島資料館の隣に位置する。
神島神社・毘沙門寺
https://goto.nagasaki-tabinet.com/spot/61663 【富江神社 とみえじんじゃ】より
富江地区に古くからある大きな神社
五島富江藩の総社として、藩の成立(1660年)の後から明治に至るまで藩の庇護の下にあった富江神社。御神体は毘沙門天で、境内には大神宮、猿田彦神社、保食神社が摂社として祀られています。
毎年10月14日から17日にかけて行われる富江神社例大祭は、富江で300年以上続いている伝統的なお祭りです。14日の宵の祭りに始まり、15日から17日はお神輿が富江町内を練り歩きます。このお神輿は、一説には「日本一進むのが遅い」とも言われており、1時間におよそ200mほどしか進まないそうです。
https://ameblo.jp/yaoyorozu-ukiyoe/entry-12799514544.html 【【富江神社(とみえじんじゃ)】(長崎県五島市)】より
九州・長崎から西に100kmの海上に浮かぶ大小152の島々からなる五島列島。
その五島富江藩の総社として、藩の成立(1660年)の後から明治に至るまで藩の庇護の下にあった富江神社。
創建は寛文6年(1666年)で、境内には大神宮、猿田彦神社、保食神社、八坂神社が摂社末社として祀られています。
この地には、今から640年ほど前の弘和年間(1381年〜1384年)に、平家の落ち武者であった高倉某が代々、大和神社を祀っていたとされます。
五島藩成立時に、この高倉某を神職とし、福江の五社神社の許しを得て月川と姓を改め、大和国の大和神社(奈良県天理市)より勧請を受け社殿を創建し、毘沙門天を併せ祀って武社大明神と号したのが始まりとされています。
明治時代に入り神仏分離の政策によって、明治元年(1868年)八月十四日に毘沙門天の仏像を同じ富江地区の真言宗青龍山妙泉寺に移し、明治3年(1870年)十一月三日、富江神社と改めました。
明治11年(1878年)富江五島家重代の宝刀を収め御神体としました。
毎年10月14日から17日にかけて行われる富江神社例大祭は、富江地区で300年以上続いている伝統的なお祭りです。14日の宵の祭りに始まり、15日から17日はお神輿が富江町内を練り歩きます。
笛と太鼓の音色に合わせて、お神輿を左右に大きく振り動かしながらゆっくりと進み、数十センチ進むごとにお神輿を頭上まで持ち上げる動作を繰り返します。
さらに先導役は、お神輿が早く進もうとするのを阻止するために左右の担ぎ棒をしっかりと押さえつけるので「日本一進むのが遅い」とも言われており、1時間におよそ200m〜250mほどしか進まないそうです。
◆ご祭神
八千戈大神(やちほこのおおかみ) 八幡大神(はちまんおおかみ)
大山咋大神(おおやまくいおおかみ) 大綿津見命(おおわたつみおおかみ)
毘沙門天(びしゃもんてん)
摂社末社 天照大神(あまてらすおおみかみ)猿田毘古神(さるたひこのかみ)
保食神(うけもちのかみ) 素戔男尊(すさのおのみこと)
https://ameblo.jp/miiraku-gotou/entry-12130605515.html?frm=theme 【[五島列島・合併前の市町「郷土誌」復習編]】より
寺院 妙泉寺 所在地・松尾郷1667番地
開山・頼堅法印 山号・青龍山 宗派・高野山真言宗
本尊・地蔵菩薩 寺宝・大般若六00巻・木造弘法座像三体(鎌倉南北朝の作)
旧寺領・三六石三斗四計三合三勺二方六礼。
沿革
慶長8年8月21日・頼堅法印本寺を創建する。 明歴3年・五島民部盛清は当山を信仰して祈願寺となす。安永9年・京都御室仁和寺の直系に属す。寛政4年・火災のあい、本堂日記灰燼に帰す。明治8年・狩立の集月寺を当寺に合併する。明治23年・本堂改築、現在の本堂は昭和2年再び改築したものである。明治39年102月4日・女島遭難者靈屋を設けて遭難者740余名の霊を祀る。昭和25年・古儀御室流より高野山真言宗へ転派、大師堂及び毘沙門天は大正6年3月22日代覚応の代に改築したものである。毘沙門天は、五島民部盛清公が大和信貴山より富江神社の御神体として勧請して安置してあったが、明治維新の際、当山に移したもので県下でもまれな青銅の霊体である。
妙泉寺 薬師如来像
境内の設備
①大数珠・向拝に天和三年平田徳左衛門寄進の鰐口あり寺宝として堂内に保存、代わりに大数珠を下げる。
②女島近海遭難者碑・当時の住職稲生覚応師遭難現場に赴き供養を勤め妙泉寺境内に慰霊の碑を建てる。昭和52年作家が作家が訪れ女島遭難を取材し「珊瑚」という小説を執筆された。
妙泉寺 女島遭難碑
③その他の記念碑
大正6年・毘沙門天鳥居建立寄付者富江村、日向、土佐(鰹船、船名船主名記入)、
浦塩港在住者世話人等。 妙泉寺 毘沙門天宮
③像物など
明治33年・四国八十八ヶ所を模して八八体の石仏を建てる。
昭和8年・弘法大使入定1,100年御遠忌記念事業として修業大師銅像建立。
妙泉寺境内の弘法大師像
山号
「青龍山」青龍とは古来瑞兆とされる。還、龍は雲を呼び雨をもたらすといわれ青龍山にて雨乞いの祈祷を行っていた。山頂には青龍山と刻んだ石碑があり小さな祠が祭られている。因みに空海は長安の青龍寺という寺において修行した。 山号額
本尊
釈迦如来が入滅して五千億七千万年の後、弥勒菩薩がこの世に現われるといわれるが、その間衆生を救うのが地蔵菩薩の役目とされる。妙泉寺には二躯の地蔵菩薩が祀られているが、一躯は嘉慶二年(1388)の作と記してある。
節分に、近くの高野山真言宗お寺さんに招待されて
byー昭和のおじさん
Facbook坂の上 零さん投稿記事
記録された文献より。
坂上田村麻呂は実は源頼朝や足利尊氏ら、清和源氏の祖先だった。
前述のように、坂上田村麻呂は平安時代初期に征夷大将軍に任じられた人物で、蝦夷征討だけでなく、薬子の変鎮圧でも活躍した名将です。
実は坂上田村麻呂の娘・春子は桓武天皇の後宮に入っておりまして、桓武天皇との間に葛井親王を儲けます。
天皇と婚姻を結ぶというと藤原氏が思い浮かびますが、田村麻呂も娘を天皇に仕えさせていたのですね。
坂上田村麻呂以前も、坂の上家は、歴代天皇の側近として天皇に代々仕え、また娘を后として天皇に仕えさせていたわけですが、坂上田村麻呂のあとも平安時代中期まで、天皇に娘を仕えさせてきたお家であり、天皇家の最も近い親戚と言う立場でもありました。
系図からは省きましたが、田村麻呂の姉妹である又子もまた桓武天皇に仕え、高津内親王を儲けていました。
さて、坂上田村麻呂の孫にあたる葛井親王には棟貞王という息子がいました。この棟貞王の王女が、今度は清和天皇に仕えて貞純親王を生みます。この貞純親王の子が源経基で、清和源氏の祖先です。坂上田村麻呂は、娘の春子を通して清和源氏の女系祖先だったというわけです。
したがって、清和源氏である源頼朝や足利尊氏は坂上田村麻呂の子孫ということになります。
源頼朝と足利尊氏は、ともに征夷大将軍となり、それぞれ鎌倉幕府や室町幕府を開きますが、彼らが平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂の血を引いているというのは面白いですよね。
もちろん、源頼朝の兄弟である源義経や、足利幕府歴代将軍も皆坂上田村麻呂の子孫となります。
なお、同じく征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康の松平氏も清和源氏を自称していましたが、こちらはちょっと出自がよくわかりません。
戦国時代まで見ると、たとえば甲斐の戦国大名・武田信玄が坂上田村麻呂の子孫に当たります。
伊達政宗と伊達家の武将たちも、坂上田村麻呂の血統を受け継ぐ、田村姓筋の坂上田村麻呂の子孫です。
坂上田村麻呂の子孫の例を上げると、源義家・源頼朝・源義経・木曾義仲・新田義貞・足利尊氏・足利義満・武田信玄、伊達政宗などがいます。
坂上田村麻呂の名将の血は、清和源氏の中に脈々と受け継がれていたのですね
Facebook渡来人の歴史と文化・古代から現代へ 姜 永根 さん投稿記事
🟧No100.古代の渡来人/坂上田村麻呂/東漢氏/田村神社
記念すべき100回目の投稿です。
◇◇
甲賀市土山町北土山に田村神社がある。神域の傍らを野洲川の支流である田村川が流れる。
祭神は坂上田村麻呂、嵯峨天皇、倭姫命である。
田村神社は、近江国と伊勢国の国境にあり、古来伊勢へと参宮する交通の要所だが、「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩まし、嵯峨天皇は田村麻呂に勅命を出してこれを平定させた」と伝えている。
そのことにより、812年、田村麻呂がこの土山の地に祀られることになったいう。
田村麻呂の生まれた坂上忌寸〔忌寸(いみき)とは、684年に制定された姓(かばね:八色の姓)で、上から4番目)〕は、中国後漢霊帝のひ孫阿智王を始祖とする、渡来系の東漢(やまとのあや)氏と同族であり、代々弓馬や放鷹の道を世襲、武芸を得意とする一族たちであった。
東漢氏は、5世紀の後半、古代朝鮮半島の伽耶という国の中にあった小国〈安羅(あら)〉から渡って来たと言われ、武器作りのための鉄工技術や馬具作りに役立つ皮の加工技術、百済の騎馬技術を有し、また中国孫子の兵法に通じていた者もいた。
そして、蘇我氏の勃興や滅亡、壬申の乱などに関わった東漢氏の流れを引く数多くの豪族の中で、平安時代、坂上氏がもっとも有力な氏族になっていく。
田村麻呂はその一族の武人であり、天性の才能に優れ、兵を用いるに神の如くであったと伝えられ、 征夷大将軍に任ぜられたことはあまりにも有名である。また京都の清水寺を開山したのも田村麻呂に他ならない。
平安時代初期に《坂上大宿禰本系帳》という書を元に書かれた〈坂上系図〉には、後漢霊帝から田村麻呂に至る系譜が今に残されている。
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