https://shugoro.net/azami/ 【『薊』】より
薊 山本周五郎 あらすじ
山本周五郎の『薊』は、加川銕太郎とその妻ゆきをを中心に展開する、心理的葛藤と家族の秘密を描いた物語です。銕太郎は、冬枯れの庭を眺めながら、何かに思いを馳せています。彼の妻ゆきをは、彼がまたいつものことを考えていると指摘しますが、銕太郎は黙って庭を見つめ続けます。彼の心には、祖父の造った庭と、家族の歴史に対する思いが重くのしかかっています。
物語は、銕太郎とゆきをの関係に焦点を当てつつ、銕太郎の弟佐久馬や、家族の他のメンバーとのやり取りを通じて、加川家の日常を描き出します。銕太郎は、妻ゆきをとの関係において何かが欠けていると感じており、彼女の本心を探ろうとしますが、ゆきをはその心を決して明かしません。銕太郎は、妻が隠している何かが家名に傷をつける可能性があると感じ、不安に駆られます。
一方、ゆきをは銕太郎に対して、自分の寝室を別にするよう要求します。彼女は、夫の男臭さが耐えられないと訴え、夫婦の関係における肉体的な距離を求めます。銕太郎は、妻の要求に戸惑いつつも、彼女の本心を理解しようと苦悩します。
物語の中で、銕太郎は岡野弥三郎という人物に対して決闘を挑みます。岡野は、ゆきをに関する不穏な噂を広めたとされ、銕太郎は家名を守るために行動を起こします。しかし、決闘の場で岡野は謝罪し、銕太郎は彼を許します。この出来事を通じて、銕太郎は妻の秘密に迫る手がかりを得るものの、真実は明らかになりません。
結末に向けて、銕太郎は妻の真意を探るために、彼女が参加する茶会に向かいます。そこで彼は、ゆきをが他の女性と密かに会っていることを知り、彼女の秘密が明らかになる瞬間に直面します。しかし、ゆきをは最後まで本心を明かさず、銕太郎は彼女の真実を決して知ることはありません。
『薊』は、家族の秘密、夫婦間の心理的な距離、そして個人の内面と外界との葛藤を巧みに描いた作品です。山本周五郎は、登場人物たちの複雑な感情や、伝統と名誉を重んじる時代背景を通じて、人間の心の奥深さを探ります。読者は、銕太郎の視点を通じて、彼の苦悩と探求の旅に同行し、最終的には彼の心の平穏を願うことになるでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=Zjn_ga7qmFs
Facebook相田 公弘さん投稿記事
「愛のかくれんぼ」何か問題があったときや、悩んでいるときの、考え方のお話です。
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愛から逆算する。いつだって、そこに愛が隠れている。そう思って、相手の中の愛を見ようとするのが僕のマイルールです。だって、見ようと思ったものと出会うのが、この宇宙のルールだからです。だから、あなたは何を見たいの?ってことなんです。
扇風機、前から見たら、時計まわりにまわっていても、裏側から見れば逆の反時計まわりでまわっています。悩みの裏側から見れば、そこにあるのは希望です。愛です。
裏側の愛を見ないことを「裏切り」と言うのです。どんなときも、その背後にある愛を見ればいいのです。犯人が愛だとわかったとき、人は責めるのをやめます。そして、自分をゆるすことができます。どんな自分もゆるしてあげてください。自分を責めなくていいからね。
だって、それはあなたの愛だから。宇宙は愛でできているんです。それがこの宇宙の真理(ルール)です。
子どもの頃、学校のテストでは、いつも正解を探すことが求められました。
でも、大人になったら違うんです。=LOVE The answer is LOVE. 答えはいつも愛なんです。
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なぜジョブズは、黒いタートルネックしか着なかったのか?ひすいこたろう 著 滝本 洋平 著
A-Works
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相手を「愛」から見る。
遅刻してきた人も、実は前の日に家で大変なことがあったのかもしれない。そんな中、休むのは申し訳ないからと、無理を押して出勤したのかもしれない。
イライラしている先輩も、もしかしたら会社を良くしようと思ってメチャクチャ考えているから出来ない自分に苛立ちを覚えているのかもしれない。
子どものワガママも、愛を確認したくて言っているだけかもしれない。どこかに必ず「愛」が隠れている。僕は、面接の時に必ず言うことがあります。
それは、「信じる前提、楽しむ前提で入社してくださいね」
サンタクロースもカッパも神様も宇宙人も、存在する(信じる)前提でいるのと、存在しない(疑う)前提でいるのとでは、まったく違うものになってきます。
子どもの頃、サンタクロースを信じていたときは、サンタクロースがいる証拠がたくさん見えたでしょう。
しかし、実際にいるかどうかは置いといて、疑い始めてからのサンタはどうでしょう?
いない証拠ばかりが見えたのではないでしょうか。
誰かのことを、「いい人」「悪い人」と見るのは、扇風機の表と裏とで回転が逆になるのと同じで、扇風機そのものも、その人自身も、何も変わっていないのに、相手を「愛」で見ていないことになります。
もしかしたら、自分への「愛」が足りていないのかもしれません。
マザー・テレサは言いました。
「愛の欠如こそ、今日の世界における最悪の病です」
そして、こうも言いました。
「愛というのは、どれだけ多くのものを与えたかではなく、 そこにどれだけの思いやりが注がれたか、ということなのです」
今日出会う人に、どれだけ思いをこめられるか。
身近な人や、毎日顔を合わせる人にこそ、「あたりまえ」ではなく「愛」で接していきたいですね♪
迷ったら「愛」です(^^♪
※魂が震える話より
Facebook相田 公弘さん投稿記事
「笑うことと悲しむこと」※致知2012年12月号 五木寛之さん“大人の幸福論”より
明るく振る舞い、よく笑うほうがいい。けれども性格的に無理な人もいるでしょう(笑)
ただ、いろいろな外国の本なんか読んでいて面白かったのは、脳は人間の感情を支配しているけれども、結構騙(だま)されやすいともいうんです。
だから人と明るく談笑したり、大笑いできないような人は、一人鏡に向かって「アハハッ」と口を開けて笑うといいそうです。
すると脳はその楽しそうな顔を見て、あぁこの人はいま喜んでいるんだなと錯覚するらしい。
喜び上手というのはとても大事です。だけど同時に悲しみ上手も大事なんです。
最近はグリーフケアといって、人の悲しみに寄り添うことの大切さが論じられるようになりましたが、悲しい時にはちゃんと悲しむこと、泣くっていうことが大事なんです。
戦後よくなかったのは、なんでもプラス思考で、笑うこと、ユーモア、明るい気持ち、前向きと、そんなことばかり持てはやしていることです。
でもそれは車の片方の車輪でしかない。
もう片方の深く悲しむ、嘆く、涙をこぼすことも大事なんです。本居宣長も説いています。
人間は長く生きていると必ず悲しいことに出会うんだと。悲しいことに出会ったら悲しいと思え。ごまかさずに真っ直ぐ見据え、あぁ私は今悲しい、悲しいって声に出して言え。
人にも語れ、空に向って拝みもせよ。それが昇華されて素晴らしい歌になるんだと。
ちゃんと悲しむということは、笑うことと同じように大事なことなんです。
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喜怒哀楽の感情が豊かな人は、人生を愉(たの)しむことができる人だ。
うれしいときには笑い、不正なことに憤(いきどお)り、悲しいときには涙を流し、楽しいときにはともに愉しむことのできる人。
喜怒哀楽の感情を抑え込んでしまうと、それはスタンプを集めるようにたまっていき、いつか爆発する。
『災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候(そうろう)。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
是(これ)はこれ災難をのがるる妙法にて候』(良寛禅師)
良寛さんは、災難をのがれる唯一の方法は、どんなにひどい状況になろうと、そこでジタバタせず、すべてを受け入れ、淡々と生きることだと言った。逃れられない運命だと悟ったら、その中に飛び込むしかない。そして、悲しくなったら、ただただ思いっきり泣くことだ。
ちゃんと悲しむことは、笑うことと同じように大事なこと。【人の心に灯をともす】より
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