https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00kusakawa.htm#yuyakekoyake 【なっとく童謡・唱歌】より抜粋
夕燒小燒 作詞 中村雨紅 作曲 草川 信
池田小百合なっとく童謡・唱歌
池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より
日本音楽著作権協会 許諾番号 J100917445号
▲絵・池田千洋『神奈川の童謡33選』より
全国の市町村で夕方のチャイムにこのメロディーが使われています。この曲を知らない人はいないでしょう。どこにでもある夕暮れの風景です。
【発表と経過】
大正十二年七月、文化楽社から文化楽譜『あたらしい童謡』として楽譜集が出版されましたが、二ヵ月後におきた関東大震災にあって大半が焼失してしまいました。十三部ほどが焼け残り、歌い継がれ広がって行きました。
これは、神田のピアノ輸入商の鈴木亀寿が、ピアノ購入者に新作童謡を集めた楽譜集を進呈したいという希望から「夕燒小燒」「ほうほう螢」など五曲を一冊にまとめ出版したものです。
★八王子市中央図書館編集『追想・中村雨紅』(八王子市教育委員会)昭和61年3月31日発行の30ページには「大正十二年の七月十一日付で神田の文化楽社から楽譜が出た」と書いてあります。
★厚木市立図書館叢書『夕焼け小焼け・中村雨紅の足跡』平成二年発行104ページには「奥付には大正十二年七月三十一日発行となっていたという」と書いてあります。
●どちらかが間違い。「十一日」は「三」が欠落した可能性がある。
【童謡楽譜集のタイトルについて】★どのタイトルが正しいのだろう。
・中村雨紅が書いた「夕焼け小焼けを作詩する頃」という一文では“「文化楽譜、あたらしい童謡」と表紙をつけ大正十二年七月三十一日に、神田の文化楽社から発行”と書いてあります。
(『夕やけ小やけ 中村雨紅 詩謡集』(世界書院、昭和四十六年七月十五日発行) 126ページで見る事ができます)。この一文には、「その一」という文字は書かれていない。
・『夕やけ小やけ 中村雨紅 詩謡集』20ページ「夕焼け小焼け」の詩の解説には“文化楽譜「あたらしい童謡その一」に掲載された”。と書いてあります。
・『夕やけ小やけ 中村雨紅 詩謡集』掲載、中村雨紅年譜(白井禄郎 浜田蝶二郎 編)には“大正12年7月 文化楽社刊「文化楽譜―あたらしい童謡―」その一に、「ほうほう螢」「夕焼け小焼け」が掲載された”。と書いてあります。
・厚木市立図書館叢書『夕焼け小焼け・中村雨紅の足跡』平成二年発行の中村雨紅年譜では『文化楽譜―あたらしい童謡その一』となっている。
・鶴見正夫著『童謡のある風景』(小学館)1984年7月10日発行では、「文化楽譜・あたらしい童謡」となっている。
・与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)では、『あたらしい童謡(一)』です。
・八王子市中央図書館編集『追想・中村雨紅』(八王子市教育委員会)では、『文化楽譜―あたらしい童謡―』その一と書いてあります。
・藤田圭雄著『日本童謡史Ⅰ』(あかね書房)では、文化楽譜「あたらしい童謡」となっている。
≪私、池田小百合の考え≫
まず、出版社は文化楽社。雨紅の文章に出てくる「文化楽譜、あたらしい童謡」の「、」が気になります。文化楽譜は、セノオ楽譜と同じ事で、そのタイトルは「あたらしい童謡」だったのではないかと思います。また、「その一」「その二」と、次々出す予定だったのかもしれません。楽譜集が残っていないので、正確な楽譜集のタイトルは不明。
【雨紅・作詞のいきさつ】
この詩が書かれたとされる大正八年頃の中村雨紅は、東京・本郷に下宿し、日暮里町第三日暮里尋常小学校で教師をしていました。ときおり実家に帰郷しました。 雨紅自身が『教育音楽』昭和三十一年八月号・第十一巻第八号に掲載した「夕焼け小焼けを作詩する頃」という一文があります。これは、非常に重要な証言です。 中村雨紅著『夕やけ小やけ 中村雨紅 詩謡集』(世界書院、昭和四十六年七月十五日発行)122ページから127ページで見ることができます。
“当時私は只今(ただいま)の武蔵野音楽大学校長福井直秋先生が、本郷動坂にお住まいの頃、知遇を得ていました。それで先生のお使いとして、渡辺専一氏(書肆厚生閣(しょしこうせいかく)編集者)が参りましてのお話に『神田にピアノ輸入商を営んでいる鈴木亀寿氏が、この児童文芸盛んな折から、ピアノを売った場合その買主に、よりよい歌の本を無料で上げたいという希望から、新作の童謡曲本を作りたいと福井先生に御相談があった。それで先生が作詩者の一人として、私に何か作詩するようにとの事だから、よろしく頼む』とのことでした。私はこの時「ほうほう螢」と「夕焼け小焼け」の二篇をお渡ししました。『ほうほう螢』は田中敬一先生、「夕焼け小焼け」は草川信先生の作曲で、その他二、三の方のものと合せて五曲を一冊にまとめ『文化楽譜、あたらしい童謡』と表紙をつけ大正十二年七月三十一日に、神田の文化楽社から発行され世に公(おおやけ)にされたわけです。ピアノ購入者には無料とは申したようでしたが、譜本だけ求める者のためか、奥付には定価参拾銭となっていました。
こうして世に出た「夕焼け小焼け」の作詞は、いつされたものかはっきりしません。福井先生から話があったその時新に作ったのか、既作のものを出したのか、急いでいたので、おそらく既作の中から選んだものと思われます。それは他の大正八年頃作詞したものの間に記帳しているからです。 (註)既作(きさく)=すでに作っておいたもの。
更にこの「夕焼け小焼け」がどこで、どんな場合に作詞されたかについては、三十五、六年も前の事で、これもどうもはっきりした覚えがありません。それに歌詞の中に固有名詞も個性的なものをも含んでいませんから。
私は、東京から故郷への往復に八王子から実家までへの凡(およそ)四里をいつも徒歩(その頃バスなどの便はありません)でしたので、よく途中で日が暮れたものです。それに幼い頃から山国での、ああいう光景が心にしみ込んでいたのがたまたまこの往復のある時に、郷愁などの感傷も加わって、直接の原因になって作詩されたのではないかと思っています。・・・・(続いて【信、作曲を語る】が引用して書かれている。)
要するに私が「夕焼け小焼け」を作詞したのは、二十二歳の頃で、如上のような社会情勢と身辺環境と私自身内在していた心情の集成であったと思います。”
【鶴見正夫がまとめた文章】
上記の文章を、「鶴見正夫が短くまとめた文章」が、文献としてあらゆる所で使われています。鶴見正夫著『童謡のある風景』(小学館)1984年7月10日発行から転載したものを厚木市立図書館叢書『夕焼け小焼け・中村雨紅の足跡』平成二年発行の206ページで見る事ができます。
“「夕焼小焼」の詩を作ったのは大正八年二十二歳のときだというから、雨情を知った頃であろう。しかしこの作品は、そのまましばらく、彼の机のひきだしにしまいこまれていた。世に出たのは四年後の十二年。たまたま童謡の楽譜出版にかかわった福井直秋(後の武蔵野音楽大学長)が作詩を依頼する人のひとりに雨紅をいれたことによる。雨紅はこのとき、「ほうほう蛍」と「夕焼小焼」の二篇をさしだした。直秋は、「ほうほう蛍」を田中敬一という人に、「夕焼小焼」を、後年東京音楽学校教授となった草川信に見せて作曲を頼み、それが「文化楽譜・あたらしい童謡」(大正12・7月、文化楽社刊)に発表されたのだ”
●「後年東京音楽学校教授となった草川信に見せて作曲を頼み」と書いてあるが間違い。草川信は東京音楽学校教授になっていない。
★ここでは楽譜集のタイトルが「文化楽譜・あたらしい童謡」となっている。これは、後の出版物に使われている。また、「この作品は、そのまましばらく、彼の机のひきだしにしまいこまれていた」という一文は、ここに書かれているものなのに、引用の形ではなく勝手に使われています。
●合田道人著『童謡の謎3』(祥伝社)の記載、「雨紅は五篇の詩を提出したが、その中に以前作っておいた「ゆうやけこやけ」も入れた」は間違い。上記の中村雨紅の文章を読んで、合田氏は「五曲全て雨紅の詩」と思い込んだようですが、雨紅は「ほうほう蛍」と「夕焼小焼」の二篇を渡した。「その他二、三の方のものと合せて五曲」です。
【原詩「夕燒小燒」】
抜き書き帳「金の星」に記した原詩と思われるもの。八王子市立郷土資料館所蔵。八王子市中央図書館編集『追想・中村雨紅』(八王子市教育委員会)昭和61年3月31日発行31ページで見る事ができます。・・・この写真が厚木市立図書館叢書『夕焼け小焼け・中村雨紅の足跡』平成二年発行に掲載されていないのが残念です。もっとも重要な資料だからです。
○夕燒小燒
夕燒小燒で日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴り
小鳥は森へ皆歸る
子供も急いで皆歸る。
子供が歸へると後からは
圓い大きな月が出る
小鳥が夢を見る頃は
空には金星銀の星。
推敲後、発表された「夕燒小燒」 昭和六年、『草川信童謡全集』第一輯(日本唱歌出版社)収録の歌詞 「圓い大きなお月さん」となっている。
【「夕焼け小焼け」の「小焼け」とは何か】
雨紅の原詩は「夕燒小燒」になっています。現代仮名づかいでは「夕焼け小焼け」と書きます。「夕焼け小焼け」という言葉は、「夕焼け小焼け、あした天気になあれ」から取ったものです。
「夕焼け小焼け」の「小焼け」とは何かについて
藤田圭雄氏は季刊『どうよう』第六号(チャイルド本社)で、次のように書いています。
「日本語は、七・五あるいは八・五でリズムを作って行く。七五調とか八五調といわれる。日本語のような音数律の詩の場合、リズムを整える為に、意味のない枕言葉とか対語が使われる。わらべうたの中にはそうしたものがたくさんある。
大寒小寒、大雪小雪をはじめ、お月さまこさま(大阪)、ああ寒み小寒み(熊本)、大かご小かご(遠江)、大春小春(東京)、大風小風(新潟)、その他例句は多い。
白秋でも、栗鼠栗鼠小栗鼠(りすりすこりす)、赤い鳥小鳥、笹薮小藪(ささやぶこやぶ)、大枇杷小枇杷(おおびわこびわ)、涼風小風(すずかぜこかぜ)、仲よし小よし、その他たくさんある。意味のある言葉ではないが、邪魔にならず、その繰り返しによってリズムが整い、詩句がスムーズに流れて行く。上が「大」だから「小」なので特に理由はない。・・・・・「夕焼け」というだけでなく「小焼け」を付けて「夕焼け小焼け」と呼ぶ事で、子どもの心に鮮やかにその情景が浮かんで来る」。
この論文は、藤田圭雄著『童謡の散歩道』(日本国際童謡館)にも掲載されていて見る事ができます。出典を明らかにしないまま、いろいろな出版物に使われています。中には、わざわざ面白おかしく書き直したものまであります。この論文が優れているからです。出典を明らかにしておくことは、次の研究者に必要なことです。
稲垣栄洋著『赤とんぼはなぜ竿の先にとまるのか? 童謡・唱歌を科学する』(東京堂出版、2011年)には次のように書いてあります。
「小焼けってなんだ?・・・ 太陽が西の空に沈むときに、空が焼けたように真っ赤に染まる。これが夕焼けである。そして、太陽が沈み終わってしばらくすると、沈んだ太陽に照らされて空がもう一度、赤くなる。これが「小焼け」なのである。」
【草川信・作曲のいきさつ】
草川信の通う長野県師範学校附属小学校には、東京音楽学校(現・東京藝術大学)を卒業した福井直秋(武蔵野音楽大学の創立者)が赴任していて、信はその教えを受け、その後もずっと福井に師事しています。この出会いが、「夕燒小燒」誕生のきっかけとなりました。
▲福井直秋
▲草川 信
ピアノ購入者用の童謡曲本の出版を企画したピアノ輸入商の鈴木亀寿が、音楽教育者の福井直秋に作曲を依頼しました。集まった五篇の詩のうち、「夕燒小燒」が草川信に託されたのでした。
≪大正十一年作曲≫ こうしてできた曲は、文化楽社から文化楽譜『あたらしい童謡』として出版されたのですが、十分に市場に出回らないうちに関東大震災にあい、そのほとんどを失いました。しかし、わずかに残った十三部ばかりの楽譜が元になって歌い拡げられました。
まず、大震災後の小学校から歌い拡げられました。最初に指導したのは中村雨紅夫人の妹で第二亀戸小学校の教員であった下田梅子でした。草川信の曲ができたとき、最初にオルガンで弾いたのも梅子であったという。
やがて、麹町(こうじまち)小学校の土川五郎校長が遊戯教材として振付し、多くの教師に指導したのがもとで、急速に広まったという。
そして、わずか数ヵ月後には大勢の人々がこの歌を愛唱していたというのです。各学校はピアノを購入し、先生が弾きながら歌って指導し、子供たちが歌を覚え、ピアノを習い覚えて弾き、やがて全国に広まったのでした。
現在も広く愛唱され続けているのは、日本人の心にしみるメロディーに、だれにでも容易に弾ける伴奏が付いていた事があげられます。
(註)この経緯については、厚木市立図書館叢書『夕焼け小焼け・中村雨紅の足跡』平成二年発行で知る事ができます。この本は、大変貴重なものです。
【楽譜について】
ハ長調四分の二拍子、ヨナ抜き長音階でできています。四小節のフレーズ二つずつの二部形式の曲です。
鐘の音を模した前奏で始まり、夕闇が迫って来る八分音符の連続のリズムに続いて「ゆうやけこやけで・・・」と、わらべ歌の旋律の歌になります。おだやかな八分音符のリズムで作られていますが、一ヶ所(「おーおてて」の部分)だけタッカのリズムになって変化を与え引きしまった感じになっています。明るく、口をよくあけて、はっきりした言葉で楽しく歌って下さい。
伴奏部分のはじめの音と、一番の後奏の最後の音は、遠くで鳴っているお寺の鐘のような感じで弾きます。
みんなで手をつないで歌うと、いっそう楽しくなります。
昭和五年・六年には次の本に楽譜が掲載されたようです。
・昭和五年、小松耕輔編『世界音楽全集第十一巻・日本童謡曲集』(春秋社)掲載。
・昭和六年、『童謡唱歌名曲全集』(京文社)掲載。
・昭和六年、『草川信童謡全集』第一輯(日本唱歌出版社)に収録。
【信、作曲を語る】
作曲者の草川信は次のように書き残しています。
「よく私は少年の日を過ごした故郷にでも立ち帰ったような気持ちで曲を書く事がありますが、此の曲等が正にそれです。中村さんのこの歌詞への作曲をします時、善光寺や阿弥陀堂の鐘が耳の底にかすかに鳴っておりました。山々の頂が夕映に美しく光って居りました。山国の夕暮は静にしかも美しくありました。「お手々つないで」の個所は大きく然(しか)し乱暴にならない声で歌っていただきたく、「皆帰ろう」の個所はディミエンドを良く利かせていただきたく、歌と歌との間にせまる間奏は華麗に弾いていただきたいものです」。
以上は、『世界音楽全集第十一巻・日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年一月十五日発行に掲載されているので、見る事ができます。
【重要な間奏】
この楽譜の演奏方法は、一番を歌ったら、二番の間に間奏が入ります。つまり、曲の終りに書いてあるの記号まで弾いてから、前のの記号のある所にもどって繰り返し演奏します。最近の楽譜では、わかりやすくD.S. al Fine (ダル セーニョ・アル・フィーネ)と書いてあるものがあります。最後はFineまたはフェルマータ記号で終わります。ここでは「きんのほし」で終わりです。フェルマータが複縦線の上、または下についているときは、停止記号または終止記号といい、楽曲がそこで終わるのであって、延長の意味ではありません。
草川信は「歌と歌との間にせまる間奏は華麗に弾いていただきたいものです」と言っています。間奏は、三度の八分音符の連続が右手に四小節続きます。夜空に移る前の夕空の淡いきらめきが表現されている部分です。左手は二分音符で穏やかな暮れ行く時の流れです。そして鐘の音が響き、さらに夕闇がせまり、二番は月や星が出る夜空になります。一番と二番は、間奏をはさんで、時が進んでいるので重要なのです。間奏を省かないように演奏しましょう。
●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、「楽譜の一番始めと終わりに響く鐘の音の表現の仕方に<華麗に弾いていただきたい>と、作曲者が特に注文をつけているのは、仏の加護による明日への希望の鐘をシンボライズしているからです」と書いてありますが、信が<華麗に弾いていただきたいものです>と言っているのは、「歌と歌との間にせまる間奏」の事です。「楽譜の一番始めと終わりに響く鐘の音の表現の仕方」についてではありません。楽譜を見れば、すぐわかることです。
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