暗闇も光も同じことです

https://www.bible.com/ja/bible/83/MAT.16.2.JCB 【マタイの福音書 16:2-3 JCB】より

イエスの返事はこうでした。「あなたがたは、天気を予測するのが得意です。夕焼けになると、『明日は晴れだ』と言うし、朝焼けを見ると、『今日は荒れ模様だ』と言います。そんなに上手に空模様を見分けるのに、これほどはっきりした時代の兆候が読み取れないのですか。


https://blog.canpan.info/shikioriori/archive/103 【第二十六回 夕焼けこやけ】より

   夕焼け こやけ

   あした天気に

   なあれ

みなさ~ん、空が紅に染まる夕焼けはお好きですか。美しい夕焼けを眺めるとなんだか心は別世界につつまれますね。

以前、旅に出て瀬戸内海の小さな島に滞在したとき、その島の小高い山に登って、空から海に沈んでいく太陽の美しさに圧倒されたことがあります。

そして、生きているというのはなんと素晴らしいことかと思ったのです。

今回の夕焼けの唄は、そのような夕焼けの中で「あした天気になあ~れ」と歌います。

それはお天気占い!

歌いながら、自分の履いている靴やサンダルをポォ~ンと空に向かって蹴り上げます。

落ちてきた履物が地面に落ちたら、さてどうなのでしょう。

表か裏か?この表裏でお天気占いなのです。落ちた履物が表を向いていたら明日は晴れ!

裏になっていると、そう、雨なのです。では横向きに立ったらどうしましょう。

そのときは曇りなのです。よく天気予報に、晴れのち曇り雨とあるように、晴、雨、曇りが占われるのです。

この「わらべうた」で、履物を蹴り投げるのは、“お願い”なのです。「夕焼けこやけ あした天気になあれ」と。

それもそのはず、「夕焼けになったら、次の日は晴れ」と言い伝えられてきているので、そこからこの歌詞ができたようですね。

天気予報じゃないですが、当たる確率はいいのです。つまりは、願いがかなうことが多いのです。明日の天気を占うにはいろいろ方法があるといいますが、父は古傷が痛むと「明日は雨かも」とよく言っていました。

『なつかしの わらべ歌』 川原井泰江著では、昔からの言い伝えとして次のようなものが書かれています。

・猫が耳までこすって顔を洗っていたら、雨。   ・からすが鳴き騒ぐと、雨になる。

・雀がにぎやかにさえずると、晴れる。      ・かたつむりが木に登ると、雨が降る。

・雨蛙が低いところにいると、晴れ。       ・蛇が木に登ると、雨が降る。

・くもが巣を作ると、晴れる。         ・赤とんぼが高く飛ぶと、明日は晴れ。

・夜、蛙が鳴くと明日は晴れ。         ・ありが忙しく動いていると、雨になる。

・ありがたくさん出てくると、晴れる。      ・魚がはねると雨になる。

沢山ありますね。言い伝えということですが、結構当たるそうです。

皆様の経験ではいかがですか。「僕は晴れ男」とか、「私は雨女」とか、仲間と出かけるときに言う人がいますね。それがよく当たったりするから不思議です。

まあ運命みたいなものでしょうか。では歌ってみましょう。

明日、晴れていい天気になるように祈りながら!

資料:『なつかしの わらべ歌』 川原井泰江著 いそっぷ社


https://www.seishobridge.com/content/detail/id=1267 【朝明けのよろこひ?】より

[旧約聖書] 詩篇 30篇4節

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。今日は、旧約聖書の詩篇30篇4節の言葉を最初に紹介しましょう。

「夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」これは、イスラエルの国を統一したダビデが、大きな病であったか、または死の危険に見舞われるという、そんな経験を通して記した言葉です。人が、自分の一生を全うしていくとき、順調なときもあれば、逆境のときもありますね。何が起こるかわからないのが人生です。

 私たちは、自分にとってあって欲しくないもの、無くなって欲しいもの、そのようなものに、時には助けられて生きているという事実があるのではないかと思います。考えてみれば、誰もが苦悩がなくなればいいと思いますよね。でもそうすると、すぐに自分の限界を忘れて調子にのってしまうことも多々ありますね。

 ダビデは、この詩篇の中でこんな言葉を記しています。「私が栄えたときに、私はこう言った。『私は決してゆるがされない。』」ダビデは、自分の人生が順調にいってる時には自信に溢れていました。成功、地位、名誉を手にして、私が揺るがされるはずがないと自負していたのです。

 しかし人生に、突然の困難な出来事が襲ってきました。彼はもう、私は神様から見放されてしまったのではないか、そんな思いを持ったのです。しかしそのとき彼は、真剣に心を開き、神様に祈り叫ぶものとなっていきました。ダビデは、逆境の中で、改めて神様の助けが必要であることを自覚していったのです。

 聖書が教えている神様は、この世界を造られ、永遠の存在者であり、何もない無から有を生み出すことのできる神様です。この方に向かって私たちは叫び求めていくのです。神様は、私たちの叫びにどのように答えて下さるでしょう。苦難の中で、神様に向かって叫び祈り求めていったダビデは、夕暮れがあっても、必ず朝が来る。涙が宿ってもそのあとに喜びの叫びがあると、うなずくことができたのです。私たちも同じように、「夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある」と告白し、歩んでいきたいものですね。


https://www.youtube.com/watch?v=1QRQ2ipyVig

https://www.youtube.com/watch?v=RlPOR_5jVEY&t=15s

https://www.yamanashi-eiwa.ac.jp/kodomoen/6762/  【「平和を実現する人々は、幸いである」     マタイによる福音書5章9節】より

暑い夏、平和ということを考えるとき、折に触れて何度も訪ねたいと思う場所があります。北杜市にあるフィリア美術館(小淵沢)と浅川伯教・巧兄弟資料館そして清里のポール・ラッシュ記念センター(高根)です。これらの施設に共通するのはどれもその根底にキリスト教の精神があり、平和を主題としてたてられているということです。

キリスト教の基盤である聖書によれば「平和」は、ただ戦争がない状態だけではありません。より積極的に他者との間で、お互いを尊重し、いたわってより良く生きることをめざすという意味を含んでいます。フィリア美術館はナチスによってユダヤ人虐殺が行われたアウシュビッツにかかわる品々が譲られたことから始まりました。浅川兄弟は日本によって「植民地」とされた朝鮮との人々の間に友好の絆を作った市井の足跡を伝えています。そしてポール・ラッシュの努力によって拓かれた清里の歴史は彼の宣教師としての活動の延長線上にあります。いずれの人たちも心の奥深くに、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」という聖書の一句がこだましていたのではないかと私は想像します。

マタイによる福音書の5章から7章にある「山上の説教」の一部として記されているイエス・キリストの言葉。「平和を実現する人々」と訳されている言葉は、たった一つの単語(エイレーノポイオイ)です。しかも新約聖書ではここだけにしか出てこないとても珍しい言葉です。福音書を記した人はきっと特別な思いをもってこの言葉を書いたことでしょう。別の日本語訳の聖書は、その文字を「平和を作り出す人々」とも訳しています。ある人は「平和のために働く人々」と訳しています。英語ではpeacemakersと訳しているものが多いようです。いずれにしても、平和は、それについてただ知っているだけではだめで、実際に自分達の生活の中に作り出し、実現しなければならないのです。これはとても難しいことですが、しかし難しいからと言ってあきらめてしまうのではなく、この言葉を持って私たちを励まし、力づけてくださるイエス・キリストの助けと導かいが必ずあると信じて、平和を追い求め、平和に生きようと祈り願う日々を過ごしたいと思います。

キリストが私達に告げる平和は、何か難しいこと、遠いこと、大変なことによって「実現する」の平和ではないと思うのです。日々のささやかな歩み、その中での一つ一つを通して実現する、そんな「平和」をイエス様は示されている。そう思うのです。以前、記したことがありますが、聖書のいう「平和」はシャロームという言葉です。

これは「こんにちは」から「さようなら」まで、「ご機嫌いかが」から「ハーイ」まで、実に豊かな広がりがある言葉です。日常の挨拶から始まって家族、親族、共同体、国家まで、地上の動植物から神様まで、実に幅広い意味をカバーしているのが聖書の「平和」です。平和は、相手を信じ、相手との関わりを築く呼びかけから始まる。難しい議論からではなく、相手への信頼を込めた呼びかけから始まる。平和を実現する歩みはそこから始まることを心に記し、他の人との喜ばしい信頼関係を形作って行く私達でありたいと思います。

園長 大木正人


Facebook近藤裕子さん投稿記事《 平 安 》へいあん (聖書)

どんなに物質が豊かで 名誉や地位があっても 人の果てしない欲望には [平安]が

もたらされることはなく 恐れ と 不安が付きまといます。

ヘブル語の〈平安〉を意味する[シャローム]という言葉には 沢山の思いが込められています。

平和 安全 穏やか 解放 満足。。。。

それは 神 に対する 祈りと 喜びと 感謝からもたらされる〈 平安〉です。

世界中が 恐怖と 不安 に包まれている今私たちは 永遠の願いである〈平安〉について 考える必要があるのだと思います。


http://www.meguro-covenant.sakura.ne.jp/from_pastor_21.html 【 ●牧師 の書斎より その21『暗闇も光も同じことです』】より 

本を読んだり原稿を書いたりすることの多い私は,健康を考えて夕刻になると, 約一時間のウォーキングを自分に課しています。ところが最近この課題を結果的 に実行できない日が増えてきました。原因ははっきりしています。思っているよ りも日の落ちるのが早いのです。そのために夕刻のウォーキングの機会を失って しまうことがあるからです。「それなら夜歩けばいいではないか」とお思いの方 がおられるかもしれませんが,やはり,夕陽を浴びながら歩く道と,闇の中を恐 る恐る歩く道とでは,それはそれは大きな違いがあるのです。私たちは本能的に 「闇を避けようとする」生き物なのかもしれません。

さて,私たちの人生には,歩きたくはなくとも,暗い夜道を歩まなければならな い時があります。キリスト者も勿論,例外ではありません。ある方は長い夜道を 歩き続けなければならない状況に置かれます。私たちはそのような時には,ふと 心の中で「おかしいではないか,不平等ではないか」と思い,神さまに叫びそう になります。(このような時,聖書は「叫ぶことはいけない」などと教えてはい ません。いやむしろ神さまに向かって叫ぶことを奨めています。)

ところで,詩篇の139:12には大変興味深い言葉が記されています。「あなたにと っては,闇も暗くなく,夜は真昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことで す。」ここには,夜道を昼間と同じように喜びつつ歩む人の姿が詠われています。 なぜ,この人にとって,暗闇は光と同じなのでしょうか・・。そうです。ここに 詠われているこの信仰者は,その暗闇が神さまの愛に包まれた暗闇であると知っ ているからなのです。

私たちの先には,世の人々が正に暗闇の中の暗闇として恐れている死があります。 しかし,キリスト者である私たちは,その死後の世界もまた私たちを愛してやま ない神さまがご支配なさっていることを知っています。詩篇139:8には,こう詠 われています。「たとい,私が天に上っても,そこにあなたはおられ,私がよみ に床を設けても,そこにあなたはおられます。」

初代教会の指導者,使徒パウロ先生は,ピリピ4:12でこう語っています。「私は あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」 つまり,牢獄に閉じ込められ ていようと御殿で暮らすことになろうと,迫害を受けているときであろうと賞賛 を受けているときであろうと,重い病気のときであっても健やかなときあっても, 私はいつも感謝にあふれている。そう言い切っているのです。

私たちの信仰は完成に近いパウロ先生の信仰と比べればまだまだでありましょう。 しかし,そんな弱い私たちにもまた「暗闇も光も同じです。」と,小さな声で信 仰告白できる信仰が今日与えられている。 これは大変な恵みではないでしょう か。この年の暮れに,もう一度,この恵みに与っていることを思い出し,この恵 みをお与えくださった神さまに感謝しつつ新しい年を迎えていこうではありませ んか。

牧師:北澤正明



コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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