金鶏山の夕日

https://tenshin.or.jp/archives/8429 【なぜ西方浄土なのか?】より

村上速水

毎週日曜日朝7時~「日曜礼拝」が勤まります。本日の担当は龍哉。和讃は曇鸞讃。御文章は吉崎建立章です。

本日の法話のテーマは「慈悲」。

先日の築地本願寺サテライトテンプル銀座SALONにて開催された『クローズアップ仏法-キリスト教から仏教へ-』では、ドイツ出身、松戸市在住のアーミンさんにこれまでの宗教遍歴を語って頂きました。今朝の日曜礼拝にも、アーミンさんがご参拝下さいましたので、キリスト教の「愛」、仏教の「慈悲」について考えました。

本日のご和讃に

世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある

鸞師こたへてのたまはく

わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず とあります。

皇帝(東魏の孝静帝)は、仏教に見識があり、曇鸞大師を訪問され、浄土についての質問に答えるように命じられました。その問いは「十方世界の仏国土はすべて清浄な国土であるが、なぜ、西方浄土と限定するのか。」

その質問に対する曇鸞大師のお答え。私には、仏になるべき智慧もなく、いまだ菩薩の位(歓喜地)にのぼっていないので、自らの力によって仏の国々を念じる(観想する)ことができないのです。 阿弥陀さまは、真実を見る眼がない凡夫の私のために「西方浄土」をお示し下さいました。それは、ああしなさい、こうなりなさいと、理想的人格を要求をするのではなく、こちらに真実がないのであるならば、阿弥陀さまがご苦労をなされ、阿弥陀さまが選択された名号を称えて我が国に生まれんと欲えと誓われました。それは、私たち人間が選択した私の行(行為)ではなく、あらゆる生きとし生ける者を、我が国に生まれさせると立ち上がられたが阿弥陀さまの願いです。そしてそれは、太陽が沈み往く西の彼方に、阿弥陀さまの覚りの世界・浄土があるのですよ。阿弥陀如来は、悲しみの中命終えていくものを必ず浄土へ迎え取る、南无阿弥陀仏とお念仏をを称える者は、やがてこの命終わった時、浄土往生させるぞ。まさしく、「西方」とお示し下さったことに仏さまのお慈悲が込められているのです。

そこに、慈悲の宗教の神髄が込められており、「極悪最下の人の ために極善最上の法を説く」という浄土教のお心をお聞かせ頂きます。


雨上がり山を走れる夕焼かな  高資

夕焼けて金鶏山より無量光  高資

山並に日を入れて沸く夕焼かな  高資


http://www.uchinome.jp/oasis/zinbu/World_heritage03_1.html 【世界遺産平泉 金鶏山の夕日】より

藤原秀衡が極楽浄土を夢見たという金鶏山山頂に沈む夕日です。

金鶏山の夕日・・・

子どもの頃から知っていた藤原秀衡が一晩で土盛りをして築いた山。そして、平泉を守るために一対の黄金の鶏を埋めたと言う伝説が伝えられ、金鶏山として親しまれている標高98m程の山です。あまりにも有名な割にはその存在がはっきりとしませんが、無量光院跡の正面に見えるこんもりと盛り上がる山です。

正直の所、今まで無量光院跡は知っていましたが、通り過ぎると田んぼの中に松林がある・・、その程度の理解しかしていなかった私です。世界遺産指定の話題が出た頃、田んぼ跡に水が張られたという報道があり何回か訪れた無量光院跡です。池(ふだんは田んぼ跡)の側に駐車場があり、案内板が二枚あります。

一年に二回、山頂と無量光院本堂跡を結ぶ正面に夕日が沈みます。案内板には四月中旬と書かれていますので、お空の様子を見て4月14日に訪れてきました。日没を待ち受け、撮影時刻は17:21~17:48の間の画像から選んであります。夕日の撮影は明るさが違いますので、周辺風景と山頂部とのバランスの表現が難しいと思います。明るさや色調の変化がありますが、夕日の状況をお分かり頂ければ幸いです。

画面説明と撮影時刻は、画面代替えテキストからご覧下さい。

「金鶏山」・・・

奥州藤原氏が山頂で経塚営んだ信仰の山。ふもとは、金峯山蔵王権現堂の跡と伝えられる「花立廃寺跡」や、「義経妻子の墓」が祀られる先手堂がある。金鶏や埋蔵金の伝説に彩られた山でもある。

全域が史跡指定。 (※平泉ぐるーりマップ、平泉「魅」どころ・・・より)

無量光院跡駐車場には数人の方々が車で来られていました。撮影するために三脚をセットしていたら、同年代の地元の女性に声をかけられました。「今日十四日は、金鶏山の真上に日が沈むよ・・。子どもの時から十四日と教えられていたの・・。日が出てきたから見に来ているの・・」、とのことです。

側で撮影していた地元の男性は、「毛越寺に居たら夕焼けがきれいだったのでこっちに来たが、それほどではないよね・・。昨日十三日は真上に夕日が沈むので、ここにも三十人ほど来ていたよ・・」、お聞きしていて例年の十四日は昨日だったのかなと思いました。そう言えば今年は閏年ですから、本命は昨日だったのかなあと思いました。地元の新聞報道によると、大勢の方々が訪れていたと報じられていました。

「八月は三十日だよ・・」と教えてくださった地元の女性でした。天候にもよりますが、八月にも来てみたくなりました。調子づいた私は、翌日の四月十五日に金鶏山を訪れ頂上まで登ってきました。後日紹介いたします。


https://hiraizumi.or.jp/archive/sightseeing/muryo.html 【無量光院跡むりょうこういんあと】より

平等院鳳凰堂を模した壮大な寺院

三代秀衡公が、宇治平等院の鳳凰堂を模して建立した寺院跡。調査の結果、阿弥陀堂の柱間や翼廊の左右が鳳凰堂より大きく、平等院を超えようとした意欲が感じられます。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上に沈む夕日に極楽浄土をイメージした、浄土庭園の最高傑作といわれています。


https://hukyoshikai.chion-in.or.jp/houwa/monthly/2203/ 【無量寿・無量光】より

 阿弥陀如来様のお名荊はどんな意味があるのでしょうか。

 「アミタ」とはインドの古い言葉サンスクリット語で「ア」は否定形である事をあらわし、「ミタ」とは はかる ということだそうです、即ち「アミタ」とは、はかることができないという意味で「無量」と訳します。

 では何がはかりしれないのでしょう。

 アミタの下に「アーユス」「アバー」という言葉をつけ、阿弥陀様の正式なお名前は「アミターユス」「アミターバー」となります。アーユスはいのち(寿)、アバーはひかり(光)という意味で、阿弥陀様のお名前は、無量寿・無量光となるわけです。

 どうしてそのようなお名前が付いたかというと、阿弥陀様のご寿命ははかりしれないので時間に関係なく今でも問違いなくいらっしやいます。そしてお救いのみひかりは何も遮ることができないほどはかりしれないのでどのようなところにいても私たちを見守ってくださるのです。つまり阿弥陀如来というお名前は「いつでもどこでも」私たちのそばにいてくださる仏さまという意味があるのです。

 ここで少し違う見方をして見ましょう。

 私たちはいのちをいただきこの世に生まれ今生きています。しかし私たちのいのちが今あるのには、はかりしれないご先祖からのいのちの流れの中に生まれてきました10代前のご先祖の数は単純に計算すると1024人になります。20代で1048576人、30代では1073741824人になります。途方もない数ですがこの中一人でもそのいのちがなかったら、私はいないのです。

 ご先祖のことを昔は「お蔭様」といったという説があります。なにか嬉しいこと、喜ばしいことにであったときに「お蔭様」といいますが。そうですこの世に生まれなかったら喜べなかったのです。

 お蔭様→ご先祖→はかりしれないいのちの流れ→無量寿→阿弥陀様

 次に今生きている私たち、太陽のひかりがちようどいい具合に地球にそそぎ、水が存在しいのちが生まれ、またそのいのちをいただいて今私たちを生かしてくださっているのです。辞書を引くとお蔭様は目に見え、また見えない恩恵と出ていました。

 お蔭犠→天地の恩恵→はかりしれないひかり→その象徴である太陽→無量光→阿弥陀様

 こう考えると珂弥陀如来というお名前は「お蔭様」という意味であり、私たちは生まれてきて生きているのではなく、産まれさせていただき生かされていることを教えてくださるありがたいお名前と私は思っております。 おかげさまという言葉がたくさん言え、また聞こえる生活がしたいものです。

合掌

東京 念佛寺

中野隆英


https://www.manabi.pref.aichi.jp/contents/10001841/0/kouza/section8.html 【『奥の細道』に登場する夕陽】より

 私の故郷は岩手県の花巻であります。花巻というのは、宮沢賢治が生まれたところです。昔、その花巻からよく近くの平泉に参りました。金色堂のある平泉です。これは在来線を使って40分くらいのところなのです。何度も何度も行きました。金色堂にも何度も参りました。実は金色堂の話を今ここに持ち出したのは、芭蕉のことについて申し上げたかったからであります。なぜならば芭蕉も落日が好きな俳人だったからであります。

 「奥の細道」を辿って芭蕉は東北にやってくるのです。芭蕉を論ずる人々はたくさんおいでになりますが、芭蕉が「奥の細道」の旅を計画したとき、心の奥底に「日本海で落日を見たい」という気持ちがあった、ということを言った人は私の他に誰もいないのです。だから私の説はひょっとすると正しくないのかもしれない。けれど、私はそう信じ込んでいるのです。

 芭蕉が江戸を発つのは四月ですね。そして福島を経て、仙台に行きます。多賀城に行って壺の碑を拝見し、松島に出てから北上して平泉に行くわけであります。平泉に行って金色堂を前にして作っております。

五月雨の降のこしてや光堂

夏草や兵どもが夢の跡

 あのとき光堂(金色堂)の地下には藤原三代のミイラが収められていました。しかし芭蕉はそのことを知りません。もしも芭蕉が藤原三代のミイラが眠っていると知っていたら、どんな句を作ったでしょう。

 ところが芭蕉は、平泉までやって来て、その後引き返してしまいます。あと半日ほど歩けば花巻に来たのに、と思うと残念なんですが。私はずっと考えたのです。なぜ芭蕉は平泉まで行った後引き返したか。早いところ山形に行きたかったからではないでしょうか。

 途中山寺に寄って、

静けさや岩にしみ入る蝉の声

といった俳句を作り、出羽三山で月山・羽黒山・湯殿山にお参りをしてまた俳句を作る。そしてさっさと最上川に出て、最上川を下って酒田に出た。ここですごい夕陽を見るのです。そこで作った句が、奥の細道の中で一番輝いている作品ではないかと私は思っています。実際に芭蕉が行ったときは曇っていて、落日は見れなかったはずだと言う人もいますが、こういうリアリストの言うことを私は信じません。

暑き日を海にいれたり最上川

 足元を最上川がものすごい勢いで日本海に流れていく。その勢いに押されるようにして、真っ赤に燃え立った熱い太陽が水平線のかなたに沈んでいく。最上川の川の流れと落日の動きですよね。これが同時に低い目線でとらえられた。教科書では“五月雨をあつめて早し最上川”が良い句だと言われている。けれどそんな常識は信じません。

 日本海の落日で一番美しいのが、八月の真っ盛りだということは昔から言われていました。私は芭蕉もそれを知っていたと思います。それで真夏の真っ盛りに酒田のあの最上川の河口に立った。花巻まで行っている余裕はなかったのです。これは私の解釈ですが。

 芭蕉はもう一つ『野ざらし紀行』という旅日記を作っていますが、最初のところで富士川を渡る場面があります。そこで捨て子に会うのです。その捨て子に何と言ったか。お菓子を投げ与えて、「お前は父親が憎いか。母親が憎いか。父を恨むな、母を憎むな。」と言ってスタスタと通り過ぎて行った。あの場面の解釈がまた難しい。私はあの場面に芭蕉もまた親のない子だった、という彼の少年体験を重ねて解釈することにしています。

 自分が捨て子として、親のない子として辛い人生を生きてきたように、お前も生きていけ。親を恨むな。子供の運命とはそもそもそういうものだ。先ほどの柳田国男の子守唄ではありませんが、すべての人間が捨て子の運命をどこかに抱えている。されば夕方になって夕陽を拝め。するとそこに親のイメージが浮かび上がってくるぞ。親は夕陽の真中に。その『野ざらし紀行』の富士川の捨て子体験を『奥の細道』の酒田の落日体験と私は結びつけたい。『奥の細道』では芭蕉は、酒田で見た落日のかなたに何があるかは一言も語っていません。しかし私は、そのとき芭蕉はあの日本海のかなたに沈んでいく落日の中に、暑き日の中に、ひょっとしたら親のイメージを思い浮かべていたのかもしれないと思うのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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