Facebook出口光さん投稿記事【「生」を楽しむ】
みなさん、おはようございます。言い知れぬ不安や孤独に、襲われたことはありませんか?
突然、虚無の宇宙の中に放り込まれたように。それは、どこからくるのか理由はわからず、
だけど、突如それが起こり、しかもしばしば訪れる。私たちは、虚無の中にいるのかもしれません。
でもその虚無の中で、あなたは振動することができます。自分が声を発し、行動することだけは、できます。そのとき、「無」から「有」が生まれる。
行動することで、何かが生まれる。結局、どのように考え行動するかだけが、私たちの人生を創りだしていると言えるのではないえでしょうか。
このボウボウ漠々たる無の世界に、あなたが振動することで「生」が生まれ、
そして元の世界にいつかは帰ります。自分がこの宇宙で振動するだけが、「有」の証し。
あなたが人生でやるべき行動を起こすこと、そして、あなたが言葉を発することです。
そのとき、楽しい振動を選択して、一瞬一瞬の「生」を楽しみたいですよね。
体験を味わうことが人生です。
一日に、自分の生を燃やすイベントがいくつありますか?それが楽しさの度合です。
しかもそれは、あなたが人とどう関わるかに委ねられています。楽しさ指数 = イベント数/日一日に1度、人と本気で取り組むことができれば、楽しさ指数は、1。
二度あれば、楽しさ指数は、2。あなたは、有限なサムライ時間の中で、どんな体験をしたいですか?
【あなたの内なる権威】
みなさん、おはようございます。日本で最も権威がある人は、誰でしょうか?それは、天皇家ですよね。現存する世界最古の王家です。武力を持たず、国を支配する財力もなければ、強制力もない。でも時の権力者を認証する。武力も財力もある徳川家康を征夷大将軍に任ずるのも天皇でした。権威は、権力の上にあるのです。
なぜこのような不思議なことが起こるのでしょうか。その理由は少なくとも三つあると思います。
1. 過去をアマテラス大神までさかのぼって統合している ‐万世一系
2.大義を掲げている ‐日本、世界の人々のために祈る存在
3.それを歴史的にT-UPする人たちがいる
ここまでいかなくても、ノーベル賞をもらったとか、すごい資格を持っているとか、名家にうまれたとか、さまざまな外なる権威があります。
それでは、私たち普通の人には、ないのでしょうか。いえ、あります!あなたの心の奥底にあり、何よりも強い権威で、あなたの人生を支えます。それは、あなたの魂の想いであり、天命です。あなたには、究極の「内なる権威」があります。
これを受け入れることが、あなたの人生の軸を創ります。つい力が入ってしまい、長くなりそうになってしまいます。全ての人がこの人生の軸 「志」 に氣づくようになるのが、私の夢です。そのためには、宗教的なアプローチではなく、誰もができるテクノロジーにする必要があります。これが私のライフワークです。
OSHO Japanese
日の出がそこにある。それを見ることと、言葉にすることの間にある隙間に、あなたはけっして気づかない。
あなたは太陽を見る、太陽を感じる、そして直ぐにそれを言葉にする。
見ることと言葉にすることの間にある隙間が失われている。
日の出はひとつの言葉ではないという事実に人は気づかなければならない。
それはひとつの事実、ひとつの現存だ。マインドは自動的に体験を言葉に変える。
これらの言葉が、そうなると、あなたと体験の間に入り込む。
瞑想とは言葉なしで生きること、非言語的に生きることだ。 Osho
Facebook津留晃一の世界投稿記事 あるがままに
大切なことは自分が自分であること、どの瞬間もただ自分のままであり続けることです。
自分でいて下さい。自分のままでいて下さい。自分そのままで、ありのままでありのままにいることの美しさに気付いて下さい。ありのままでいることの気楽さを知って下さい。
ありのままでいることの楽しさを堪能して下さい。そこには愛があります。おしつけがましさのない、義務感のない柔らかな愛です。負い目を感じさせない風のごとき無条件の愛となります。そこには悦びがあります。最高に貢献する姿があります。他を生かす形となります。
私はあなたが善人であるか悪人であるかには興味がありません。
あなたが心の中でつぶやくいいわけは、いったい誰のためなのでしょうか?
誰に対して飾ろうとしているのですか? あなたが心の中でつぶやく不平は一体誰が聞いているのでしょう。そして人は何を得るのでしょう。それは自己愛ではありません、自身を傷つけるものでしかありません。
神はあなた自身を大切にしなさい、労りなさい、愛しなさいといいます。そこであなたはより快適でありたいと思い、快適さを追求します。
ところが、この「快適でありたい」という願望は、実はあなたの不快の種そのものとなります。あなたが今とても快適な状況に満足しているとしましょう。
そこにあなたの快適さを妨げる何者かがやってきたら、あなたはどのように感じるでしょう。
その侵入者に対し人は不快感を覚えます。とても神のごとき愛そのものとしてい続ける事は出来ません。
実はあなたが、あなたの外的世界に対して、快適さを求めた瞬間(自分が自分以外になろうとした瞬間)、あなたはその身の内に不快の種を宿すのです。
快適さと不快さは一枚のコインの表と裏にすぎません。別の何かではないのです。
あなたが外的世界に対して何かプラスを求めれば求めるほど、あなたが手に入れたプラスと同じだけのマイナスの要因をその懐深くしまい込んでいるのです。
自分が自分以外の何かになろうとすればするほど苦しみの種があなたの身の内で成長を始めます。「それじゃこの世は最悪じゃないか」、「それでは人間は幸せにはなれないじゃないか」、「だったら生きている意味がないではないか」と反論が聞こえそうです。
でもそれがこの三次元世界そのものなのです。
実に多彩で、多面的なパラドックスの世界です。
そしてそれこそがこの三次元世界の真の意味での存在理由であると知らされました。
無限の快適さの世界から、そうでない環境を体験したいと考えた意識体が、その「不快さ」なるものを体験してみたくて、この二極の対立の世界の中へわざわざ入ってきた、というのが真相のようです。
「不快さ」は根源の無の世界では決して感じる事の出来ない、大きな魂の昂揚感を体感させる要因であるとも言えるのです。黒が白を際だたせ、悪が善を引き立てます。三次元物質世界とはそういうところなのです。
英雄には敵役が必要なように・・・。あなたは意識の進化を求めて今存在しています。
人はこれまで意識の進化を求め続けて転生を繰り返してきました。
それを外的社会環境で成功を求め続ける事と勘違いし続けてきました。
意識の進化とは、神に還るという事です。神に還るとは、元々自分が神そのものであった事を
思い出す事です。元々神であるものが、神以外の何者にもなる事など出来ません。
あなたは今現在もその本質は神であり、今後のどの時点においても神以外の何かになる事など
出来ません。今そこが、その瞬間がすでに完全です。今はその不自由ささえ感じてみたくて、そこにそうしているだけです。「そんなことを言っても信じられない」という人がたくさんいます。でもこれはあなたが信じるか信じないかという問題ではなく、あなたがこの考えを受け入れるか受け入れないかの選択の問題なのです。理性で考えて判断できる問題ではないでしょう。そのため人は気の遠くなるような年月をかけ、難行苦行の修行にはげみ続けてきました。
そしてもうそろそろ悟りとは修行の果てに手にするものではなく、元々あなたの足下にあったことに気付く時がやってきました。
あなたの表面意識がどう考えるにせよ、トータルなあなたにとって、今その状態がベストポジションなのです。そこ以外のどこかへ行こうとしないで下さい。
あなた以外の誰かのように成ろうとしないで下さい。総ては唯そうなっているだけなのです。
唯そのままを感じて下さい。それがあなたが今そこにいる理由だからです。不都合そうに見える状況に意味を与える必要もありません。唯そうであるだけなのです。
自分を愛しなさい、大切にしなさいというのは、あなたの外部に何か別のプラスを求めなさい
という事ではなく、あなたが今どんな環境にいたとしても、今のその瞬間が最高である事を
知りなさいという事です。今そこがあなたの意識の進化にとって最高の環境だからです。
あなたが今、最高の環境にあると満足しているときに、その環境が破壊されたとしたら、
そこもまたその瞬間が最高であることを疑わないでいると、「一体何が起きたのだろう」、
「この破壊によって私には一体どんな学びが出来るのだろう」と、いつもただ起きてくることをワクワクと楽しめるようになってきます。
それがあなたの悟りです。自分を大切にするという事です。自分を最高に労るということです。今あるがままを愛して下さい。そのままの自分を受け入れて下さい。
もし今あなたが「自分は自分のことを一番大切にしているのに、どうも世の中が今一つうまく行かない」と思っているとしたら、それはきっと自分を大切に思うあまり、自分の意識を小さく小さく閉じこめてしまっているのかも知れません。
自分が不快感を感じたくないからといって、苦手な人を避けていると、あなたはいつも、また苦手な人に出会うのではないかと怯えながら生き続けることになります。
快適でありたいと、不快さを避けてばかりいると、どんどん自分の住む世界が狭くなって、そのうち自分の部屋から出られなくなってしまいます。
あなたの外界に見える世界は実はあなたの意識が写し出す幻影です。
苦手な人と、そうでない人を分けるとは、自分の意識を半分に分けているということです。
人は好きな物と嫌いな物を分け、自分の意識を分割し、いい環境と悪い環境を分けまた
自分の意識を半分にして、都合のいい出来事と都合の悪い出来事を作りだしてはまたまた自分の意識を更に細かく分けていきます。
こうしてあなたは自分の意識を自らちっぽけな存在へと駆り立てているのです。
自分を愛するとは自分の意識を広げるという事です。自分を大切にしたい人は、人を拒絶するのではなく受け入れていく事です。あなたが今嫌いな人を受け入れるたびにあなたの意識は拡大します。都合の悪い出来事を受け入れた時、あなたの意識が広がります。
「嫌いな人を好きになれといわれてもそんなの無理だよ」と思っているのも解っています。
しかし人が人を嫌いに感じるには分けがあります。それはあなたの意識の中に、こういうことをすることはいけないことであり、許せないといった考え方があるからです。
あなたの中のこういう認識が一つ消えるたびに、他を分ける思いが消え、あなたの意識が広がります。ある人があなたを非難します。するとあなたは突然その人に敵意を感じます。
「あの人は失敬な人だ。俺は悪くない。人の話もろくに聞かずにいきなり人を罵倒するとは
なんという無礼な人だ。あんな人は断じて許せない。あんな人がいるからこの世がおかしくなって来るんだ」などと、あなたのエゴのつぶやきは心の中でエスカレートしていきます。
あなたのエゴは傍若無人、こんな時は無理やりエゴを黙らせたりせず、思う存分エゴに喋らせてあげて下さい。ただし人のいないところでやることをお奨めします。
エゴはとても飽きっぽいのです。無理やり理性でブレーキをかけたりせず、好きなだけ発散させてあげると、やがて波が引くようにあなたのエゴの声は小さくなり、おとなしくなってお休みします。その瞬間本物のあなたが意識の表面に上がってきて、「あれ、俺はどうしてこんなにイライラしていたんだ?」と感じます。
起きた現実を、目覚めた状態で観察してみると「どうやら俺は人から非難されたときにカッとなる性質があるようだな」と自分の内部にある認識に気付きます。
こうなればしめたもの。現実の渦に巻き込まれず、常に醒めた状態で観察し続けると「人から非難されたとき俺はなぜ怒りの感情が出るんだ? あいつがいきなり俺を非難したということは、きっと何か俺のことが原因であいつの感情を逆撫でしたに違いない。きっとあいつは自分の感情を癒したくて俺にあんなことを言ったんだ」人は怒りや恐れの感情にいるとき、
人を愛することが出来ず人を責めてしまいます。それが人の常です。
本当はあなたを阻害する人なんかいないのです。もしそのように見えたり感じたとしたら、単にその人は、今、自らを守るために必死で戦っている弱い人でしかありません。
本当に自分のことが解ってくると、世の中に悪い人などいないということが解ってきます。
世の中に悪い人がいないということを確信すると、嫌いな人はいなくなります。
あなたが今そのままで最高であるように、あなたのまわりにいるどの他人も例外なく、今その瞬間が最高なのです。たとえ今怒り狂っているように見える人がいたとしても、その人の進化にとってそれがよいことだから起こっているわけです。
この世界で真の意味で困っている人など一人もいません。あなたの意識が透明で無色になってくると、比較するための基準が無くなり、人や出来事や環境を比較しなくり、総てをあるがままに受け入れられるようになってきます。
まずあなた自身、今あるがままをそのまま抱きとめ、今そのままを心から愛し大切にして下さい。大切な事は自分が自分であること、どの瞬間もただ自分のままであり続けること。
それがブッダの言った中道に入るということです。自分が自分であるとは、普通であること。
あなたにとってどんな特別な状態もないところ、最もいやすいところ、それがありのまま、あなたが最も他に貢献できるポジションです。
悟りとは、手の届かない高みにあるわけでなく、総てを手放したときそこにあったことに気付きます。大切なことは自分が自分であること。それが究極の悟りです。
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