https://tsukinami.exblog.jp/27845956/ 【シェイクスピアの俳句】より
こんな句がありました。
罪もうれし二人にかかる朧月
雨ともならず唯凩の吹き募る
小夜時雨眠るなかれと鐘をつく
白菊にしばし逡巡(ため)らふ鋏かな
女郎花を男郎花とや思ひけん
骸骨を叩いて見たる菫かな
詠み手は、上から順に、ロミオ、リア王、マクベス、オセロ、ベニスの商人、ハムレットの皆さんです。
というのは、むろん冗談で、いずれも夏目金之助作だそうです。東京帝大の文科の学生が『シェイクスピア物語』を翻訳して出版したとき、本の序文を頼まれた夏目金之助講師が、シェイクスピア劇中の台詞をもとに、いたずらに拵えた俳句だとか。夏目金之助? ええ、のちの文豪漱石先生です。うまいものですねえ。
この話、古い総合俳誌『俳句研究』1997年11月号に連載されていた、半藤一利さんのエッセイから引っ張ってきました。半藤さんも、うまいなあ。
https://fragie.exblog.jp/23124174/ 【シェイクスピアと漱石と俳句】より
杜鵑草。今日は一転して寒い一日となった。これでは人間も風邪をひいてしまう。
「もうインフルエンザが流行っているそうです」とスタッフが言った。「あれまあもう、いやねえ」とわたし。「商店街の〇〇の店長さんがインフルエンザだそうです」とも。
「そ、そうなのか……」情報がすばやく行きかう仙川商店街である。
ふらんす堂も端っことはいえ、商店街通りにあるのでいろいろと注意しなくてはいけない。
新刊紹介をしたい。
大関康博著『比較文化的詩論考』(ひかくぶんかてきしろんこう)。
四六判ソフトカバー装 136ページ。
俳人・大関靖博さんは英米文学者として大学で教鞭をとらている。その研究者大関康博としての研究書が本書である。『比較文化的詩論考』と題した本書はさぞ学術的な硬い専門書と思いきや、ページを開けばけっしてそうではなく大変読みやすい。
本著は詩の問題を比較文化の領域のひとつとして考察を加えたものである。詩を文化というダイナミズム(dynamism)の流れにさらすことによって詩の世界が再び新たに活性化するのではないかと考えたのである。詩というものは博物館のガラスケースの中に大切に収蔵されている展示物ではなく、精神を鼓舞し血管を流れる血のように生きたものとして存在することが重要と思うのである。方法論としてはダイバーシティ(diversity)とユニティ(unity)という概念を想定して詩の問題を考えていった。詩の豊饒を支えるものが前者であり詩の世界を支えるものが後者であると感じられるからである。多様性と統一性・普遍性を大切に思う所以である。つまり悪に限らず森羅万象において天網恢恢疎にして洩らさずなのである。従って本著は具体的には英米詩と日本詩を比較文化の視点に立脚して論じ考察したものである。(略)
「緒言」より引用した。
以下目次を紹介しておきたい。
目 次
第Ⅰ部 英国と米国
第1 章 ホプキンズの鷹とホイットマンの鷲
第Ⅱ部 英米と日本
第1 章 英米詩と俳句における類似的発想について
第2 章 沙翁と漱石
第3 章 俳句と『武士道』
第Ⅲ部 西洋と東洋
第1 章 ホプキンズと華厳経
第2 章 ブレイクと華厳経
わたしの個人的興味でこのブログでは、「第Ⅱ部 英米と日本」のなかの「第2 章 沙翁と漱石」について紹介したい。漱石が俳句をよくするということは周知のことであるが、この章では夏目漱石の俳句との関係においてシェークスピア(Shakespeare)の品がどのように扱われているかに考察を加えて、夏目漱石とシェークスピアにおける比較文学的理解を探求してゆきたい。と興味深い。また、漱石が俳句を海外文学を理解するのにどう位置づけていたか、その漱石の文章があるのだが、それが大変おもしろいのだ。
私は近頃スツカリ俳句を廃めたのですが、夫れには別に深い理由のあるのでも無いのです。(略)今日も尚俳句に対する面白みを充分に認めて、殊に趣味の取捨と云ふことには、俳句から多分の利益を得て居ると云ふことを信じて疑はないのであります。此の趣味の取捨と云ふことは、外国の文学抔にも、応用することが出来るものであると思ふ。夫れは趣味とか又、標準の上にも、種々の点に於て、外国と我との間に、差異のあることは云ふ迄も無いことであるが、亦た明かに共有点と云ふものもある。其の共有なる点に就ては、外国の文学を研究するにも、日本人の標準を用ゐて可からうと思ひます。(略)斯んな場合矢張り自分に標準が定まつて居たら、遠慮無くつまらないと云つて、排斥することが出来ると思ふ。是等の点から見て、所謂趣味の取捨と云ふ様なことは、俳句から得て来た利益が非常に多いと、自分で今思て居るのであります。即ち趣味の上に於ては、自分は、自分を主とすることが出来ると云ふ利益があるのです。
私が今日外国文学を研究するにも、単に西洋の批評家の詞に計り、文字通りに従ふことを潔く無いと考へて居るのは、即ち是等の結果であらうと考へます。(略)従来斯んな研究をした人が無いのですから、若し我々が、外国の文学でも研究して行かうと、云ふのには、其の下地として、俳句抔を学んで置くと云ふことは、極めて利益あることと考へます。而して我々は此点に於て、飽くまでも俳句から利益を得て居ると云ふことを、信じて居るのであります。今外国人が日本の文学を批評するには、矢張り彼れの標準に由るのです。然るに我は彼の標準に由る。既に起スタート点の間違つた話です。(略)斯く云ふことの為に自分の標準を作り、趣味を固めて置くと云ふことは凡ての文学を研究して行く上に、大なる原エ㆑メント素を為す所以でありませう。(略)而かも其の俳句の趣味なるものが、文学の標準に資する所は、極めて大きいのであります。
これは夏目漱石の「俳句と外国文学」と題された文章を大関さんが引用している。そして大関さんは夏目漱石にとっての俳句をこのように語る。
(略)幸運にも夏目漱石は『俳句と外国文学』という文章を残しているので多少なりとも彼の考え方や姿勢といったものを窺い知ることができる。上記の引用によれば夏目漱石はわれわれ日本人が外国文学を研究・批評する際に立脚する立場の標準として俳句が大いに参考になり役に立つというのだ。ここでは他民族やその文化を自己の文化を基準に判断する傾向すなわち夏目漱石におけるethnocentrism を認めることができるであろう。恐らくこうした考えを夏目漱石は現実の外国文学研究のよりどころとして考えていたのではあるまいか。従って俳句は夏目漱石の外国文学研究の上で大きな位置を占めていたものと思われる。
漱石の文学において俳句がいかに重要なものであったか、改めて知るところとなる。さらに興味ふかいのは、シェイクスピアの言葉に俳句を寄せているということだ。
夏目漱石は小松武治訳の『沙翁物語集』序として以上十句の俳句を提示している。しかしながら一句一句の前にシェークスピアの章句を置いて意表を突いた意匠となっている。
十句がすべてシェイクスピアの作品の章句とともに引用されているのだが、ここでは数句の紹介にとどめたい。
I have full cause of weeping, but this heart
Shall break into a hundred thousand flaws
Or ere Iʼll weep, O fool! I shall go mad.
King Lear Act.Ⅱ .Sc.Ⅳ .
雨ともならず唯凩の吹き募る
That skull had a tongue in it, and could sing once;
Hamlet Act.Ⅴ .Sc.Ⅰ .
骸骨を叩いて見たる菫かな
Lady, by yonder blessed moon I swear,
That tips with silver all these fruit-tree tops.
Romeo and Juliet Act.Ⅱ .Sc.Ⅱ .
罪もうれし二人にかかる朧月
邦訳がないのが残念であるが、「リア王」「ハムレット」「ロミオとジュリエット」にどういう俳句を漱石がつけたかがわかる。ほかに「テンペスト」「マクベス」「十二夜」「オセロー」「ヴェニスの商人」「冬物語」「お気に召すまま」などへの俳句がある。
以下に俳句のみ記しますので、興味のある方はどの俳句がどの作品につけられたものか当ててみてくださいませ。
そしてそっとわたしに教えてください。
当たった方は、金一封ならぬわたしのお褒めの言葉をさしあげましょう。
では、まいります。
小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く
世を忍ぶ男姿や花吹雪
白菊にしばし逡巡らふ鋏かな
見るからに涼しき島に住むからに
女郎花を男郎花とや思ひけん
伏す萩の風情にそれと覺りてよ
人形の獨りと動く日永かな
いかがでしょう、分かりました?
いやいや、こんなことをしていてはいけなかった。
紹介にもどろう。
大関さんは、この漱石のシェイクスピアに寄せた俳句について、さらにこう記している。
英語の章句と俳句の組み合わせは、英語を単なる俳句の前書や説明とは考えにくいであろう。これはシェークスピアの章句と夏目漱石の俳句との付け合いと呼ぶべきものであろう。恐らくこのような英語と日本語の俳句の付け合いは夏目漱石の引用の例がひとつあるだけではなかろうか。
そして外国語の章句と日本語の詩歌とを付け合せて高級な知的言語遊戯とも思われる形態は夏目漱石が発明したものではないように思われる。
とし、『和漢朗詠集』における和歌と漢詩句との付け合いに言及し夏目漱石は漢詩の作者として高名な存在でもあることから考えても、こうした日本の文学的伝統を頭に置いた上で、日本人にとって外国語である漢詩文の代わりにやはり同じ外国語である英語の章句を入れかえた形でこのような一対の英語と俳句の付け合いを試みたのではなかろうか。勿論夏目漱石のこの場合はシェークスピアの数行の章句はそれぞれが劇全体の背景をになっているのである。このように見てくると一見意外な付け合いと思われる英語と俳句の取り合わせも実は日本文学の伝統に呼応する形式なのであると納得できるのである。というのも漢詩と和歌の付け合いなどいわばbilingual の形式による詩的空間を楽しむという日本文学のひとつの流れを認めることが可能だからである。と考察しているのだ。「英語と俳句の取り合わせも実は日本文学の伝統に呼応する形式」であるという。
大雑把な紹介となってしまったことを許していただきたい。
このブログでは本書のほんの一部のみしか紹介できないのが残念である。
この本の装丁は和兎さん。
シンプルさを心がけた。
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表紙も渋く落ち着きのあるもの。
見返し。
本文は横書き。
ジャンコクトー・の装画がなかなかいいのではないだろうか。
興味深い題材が豊富なたいへん読みやすい一書である。
今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、亀割潔句集『斉唱』より。
雨だれや昼に手折りし萩の色 亀割 潔
夜の萩である。昼間、手折った萩が花入れに挿してある。その花の紅が昼よりもしっとりと深みをまして見えるのだろう。一日の時間帯によって同じ花の色合いが少しずつ変わる。誰でも見てはいることだが、誰もが気づくとはかぎらない。
写真は「萩まつり」と題して、京都の梨木神社の萩の写真が添えてある。
わたしはまだ「梨木神社」に行ったことがないが、きっと萩が美しい由緒ある神社であるのだろう。
萩の季節にいちど行ってみたい思う。
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