https://1000ya.isis.ne.jp/1599.html 【近藤信義 枕詞論】より
桜楓社 1990
編集:坂倉良一・佐々木香
装幀:桜楓社編集部
巷間、百人一首が少しずつ復活しているらしい。子供のころから親しんできた者の一人としてちょっとばかり悦ばしい。ピアノも算数も外国語も何だってそうだけれど、とくに百人一首には子供のうちに親しんだほうがいい。「おとといの日本」と「あさっての日本」を意外な糸でつなぐ可能性がある。
子供時代に少しでも遊んでおけば、白洲正子さんのように壮年になっても仏像や和歌に打ち込める。白洲さんは「四十の手習い」とは歳をとってから慌てて新しい趣味に手を染めてみるということではなく、かつていろいろ中途半端だったことをやりなおすことなのだと言っていた。
ぼくも、そうだった。百人一首については、いまでも母の澄んだ読み声と、読み札を読みおわってぼくたちが目を泳がせているのをニコニコと見守っている姿が耳や目にのこっている。こういう記憶は小さな方舟の櫂になる。
母は京都の府一(現在の鴨沂高校)時代に全首を諳じてカルタ大会に出たほどで、尋ねればほとんど歌の意味を話してくれたし、早くから一字決まりの「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」なども教えてくれた。もっとも、そんなことで何かぼくに百人一首の大事なところが身についたわけではない。
産経EX連載・松岡正剛 「BOOKWARE」
2016年第1回目の「BOOKWARE」は白洲正子がテーマだった。
子供のころに好きになったのは取りやすい札か、何だか変な感じがする札だった。記憶があやふやだが、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」(蟬丸)とか「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(源融)といった言いまわしの律動がおもしろいもの、「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」(家持)とか「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ」(清原深養父)といったイメージの残像を感じさせるものが、子供ごころに口ずさめたのだったかと憶う。
だんだんオトナになると好みも見方も変じていった。たしか30代のころは「あひみての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(敦忠)や「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はんとぞ思ふ」(崇徳院)などの、時のあとさきがワンダリングする歌や、「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり」(藤原公経)というような我が身を襲う寂寥も理解するようになって、やっと「四十の手習い」も始まるわけだった。
それが50代になると、ときどき「そこ」に戻れる歌を手元の短冊に書くようになった。能因法師の「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」や、良選法師の「さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくもおなじ秋の夕暮」のような歌だ。そういうふうになったのは、『インタースコア』(春秋社)にも綴っておいたことだけれど、ぼくは「失われた十年」(ロスト・ディケード)にはけっこう充実した試みを連打していたのだが、そのぶん、茶陶や和歌や書画に“寡黙な余裕”のようなものを感じたくなっていたからだったろう。
歌の好みとはちがって、百人一首というしくみに関心をもつようになったのは、別の興味からだ。この百首のセットを藤原定家が生み出したのはなぜだったのかということ、その百首がどうしてここまで日本人を虜にしたのかということ、そのぶんここからひょっとして何かが抜け落ちていったのではないかということ、そもそも「和歌を選ぶ」という作業はアワセ・カサネ・キソイ・ソロエの日本の社会文化の何にあたっていたのかということなどが気になった。
そういうことが気になったのは藤原定家の『明月記』を読んだのちのことで、それを促してくれたのは堀田善衞の含蓄がすさまじい『定家明月記私抄』(新潮社→ちくま学芸文庫)だった。目から鱗がずいぶん落ちた。
そこへ尼ヶ崎彬の『花鳥の使』(勁草書房)などが入ってきて、しだいに宣長の言説に目が届くようになると、「ただの詞」に対する「あやの詞」が担ってきた意義がほっとけなくなった。日本という方法はほとんど「あやの詞」のほうに、その本質が隠されていたのである。あとはけっこうぞくぞくするばかり、宗祇や良基の試みも、談林派たちの遊び方も見えてきた。こういうことは百人一首の一首ずつの歌についての関心からではなく、たいていは日本の文芸史や遊芸史の奥に見え隠れする淵に誘いこまれて気になりだしたことである。
千夜千冊 0017夜『定家明月記私抄』 堀田善衛
千夜千冊 0992夜『本居宣長』 小林秀雄
百人一首はいろいろある。なかで、定家が京都嵯峨野小倉山の山荘で撰首揮毫したと言われる山荘色紙の百首が「小倉百人一首」として知られるようになった。そういうふうになったのは宗祇のせいだった。
何事にも「折紙付き」(古今伝授には必ず「折紙」が付けられた)が生まれることが好きだった宗祇は、小倉色紙を評価して「極め付き」とみなし、連歌師とそれにつらなる茶の湯の宗匠たちがこれを後生大事に広めていった。そこに加えて、侘茶の心は「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」という定家の歌に代表されているという価値観が確立して、そこから書としての「定家様」の流行まで広がっていった。連歌と茶の湯は、利休以前の武野紹鷗が連歌師だったことにも象徴されているように、ほぼつながった遊芸だったのだ。2つとも一座を一味同心にする遊芸だった。百人一首はそういう一座を組む遊芸の発端でもあった。
実際には、定家には山荘での百首の選歌以前すでに『百人秀歌』があって、そこから一条院皇后宮などの歌を取って、代わりに後鳥羽院と順徳院の“怨み節”ともいうべき二首を入れたものが定番になったわけで、この入れ替えはかなりドラスティックで大胆な思わせぶりだった。
けれども、なぜそうなったのかについての本格的な研究はない。そのためさまざまな憶測が生まれ、これはこれで古典ミステリーの有力な素材になってきた。
日本の歌には「類想」「類景」「類物」「類趣」が多い。ぼくはそこに「日本という方法」の一端を感じてきた。たんに類推や連想の歌などの類歌が多いというのではない。日本の表現文化や選好文化における「類」が追い求められてきた。
この「類」は何かというと、社会学や数理統計学や認知学でいうような、グループ(グルーピングする)、クラス(クラシファイする)、インスタンス(例示する)というものではない。日本人が好きな「類」は「分類してナンボ」なのではない。そうではなくて、まさに「類によって類を見る」ために「類想・類景・類物・類趣」に長じようとした。区別や差別をするために「類」を分けるのではなく、何かと何かを「つなげる」ために類を見た。本気で「類似による景色」を求めたのだ。
これを俗っぽくいえば「類は類を呼ぶ」が好きだったということになるのだが、どの類が何の類を呼ぶのかということに傾注する必要があった。それには「類としての見立て」に深みや広がりがなければならない。われわれの文化が「見立て」や「本歌どり」に熱心だったのはそのせいだ。それを作庭から屛風絵まで、茶の湯から浮世絵まで、俳諧から歌舞伎まで、陶芸から漆芸まで広げ、それらが職人の仕事のあらわすところを含めて類から類を呼ぶようにした。分類ではなく分出をやってのけたのである。
こうして用意されたのが、花鳥風月や雪月花のリプレゼンテーション・システム(再表象化のしくみ)であり、「座」や「興」の会合のしくみだったのであり、「真行草」のインターフェースであり、そして枕詞や歌枕や縁語というものだった。いずれも日本文化の一座建立のためのしくみなのである。
枕詞とは、いまさらながら実に意味深長な言い分だ。『枕草子』や『草枕』をはじめ、日本人にとって「枕」はなんとも不思議なメタファーになっている。歌枕、旅枕、鉄路の枕木、「夢枕に立つ」、抱き枕、落語の枕、「枕を高くする」、枕絵の異名をもつ春画、枕がえし、枕芸者、膝枕……。
そもそも寝具としての枕にして安眠のためだけのものではない。寝返りのためであり、悶々とした心身のお相手であり、夢の温床であって、旅寝の手枕でもある。枕は何かの入口であって、また何かの拠りどころなのだ。
歌枕は名所の手がかりであり、落語の枕は本題のための導入部なのである。日本人にとっての「枕」はイメージング・エフェクトをおこしてくれるものだった。だから枕がないと何もかもがすっぴんになりすぎる。地歌などで枕といえば三味線が手事に移るときの曲調をいう。
夏目漱石『草枕』(岩波書店)・清少納言『枕草子』(筑摩書房)
折口信夫はそういう枕詞のことを「らいふ・いんできす」と言った。枕詞はライフ・インデックスだというのだ。ずばり「呪詞の生命標」だとも書いている。
こういう名人芸のようなことを言えるのが折口の魅力だが、そこから枕詞が無文字社会から万葉仮名で記される定型歌謡に向けてどのように定着していったかを推理しようとなると、いささか途方に暮れる。それというのも、枕詞は万葉から古今に移るにつれてしだいにその効能を薄めていったからで、早い話が百人一首では枕詞を明確につかった歌は次のような歌くらいなのである。
あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
あまのはら振りさけみれば春日なるみかさの山にいでし月かも
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
わたのはら漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波
春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
田子の浦にうち出でてみれば白妙の富土の高嶺に雪は降りつつ
侘びぬればいまはた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思ふ
ももしきやふるき軒端のしのぶにもなおあまりある昔なりけり
たちわかれ因幡の山の峯におふる松としきかば今かへりこむ
長からん心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ
ありあけのつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし
意外に少ない。このことは、百人一首に万葉の歌が少なく(天智・持統・人麻呂・赤人・家持)、古今から新古今への流れの和歌が圧倒的だったということを物語る。
いちいち説明するまでもないだろうけれど、これらの歌では「あしひきの」が「山・峰」の、「ちはやぶる」が「神・わが大君・社・宇治・氏」の、「ひさかたの」が「天・雨・月・光・都」の、「しろたへの」が「衣・袖・紐・袂・雪・雲・富士」の、「くろかみの」が「乱れる」の、「なには(難波)なる」が「み(身・実)」の、それぞれ枕詞になっている。
なぜ「足引の」が山を呼び、「千早ふる」が神を呼ぶかということは、百人一首を見ているだけではわからない。そこにひそむ由縁や暗合のリクツは、記紀万葉までさかのぼる。記紀万葉の古語そのものが枕詞とともに成立していったようなものなのだ。
古代の枕詞はおびただしい。研究者によって数え方が異なるけれど、阿部萬蔵・阿部猛の『枕詞辞典』(同成社)では1000以上、一般向けにガイドされた内藤弘作の『枕詞便覧』(早稲田出版)でも678例が紹介解説されている。
そこには百人一首の選歌では浮上しなかった枕詞がいくつも動いていた。「あかねさす」といえば「照る・日・昼・紫・君」の枕詞、「からころも」(唐衣)は「着る・袖・裾・裁つ」の、「くさまくら」(草枕)は「旅・結ぶ・結う」の、「たまのをの」(玉の緒)は「長き・乱る・絶える・継ぐ」の、「ぬばたまの」は「黒・夜・ゆうべ・月・夢」の、「たまきはる」は「命・世・昔」の枕詞だった。定家は、こうした古語っぽい枕詞がつく歌をあまり選ばなかったのだ。
『枕詞辞典』(同成社)
『枕詞便覧』(早稲田出版)
枕詞を「まくらことば」というふうに捉えたのは、中世の半ばからのことだった。万葉研究の先達となった仙覚が『仙覚抄』(1269)で、「古語の諷詞」として枕詞を抽出して議論したのが先駆的だ。ついで“後の三房”と評判された北畠親房が『古今集序註』(1324)に、「久堅のあめとは、惣じて天を久堅といふ。久しく堅き義なり。かやうの詞は、古語の残れるを、今の世に枕詞と名付け」と示したあたりで、やっと枕詞という言い方が定着した。
それまでは「発語」とか「諷詞」とか、ときに「次詞」とか「冠辞」とかと言っていた。枕詞という言い方は百人一首よりずっとあとで自覚されたのだ。ということは、枕詞のことはやはり記紀万葉に戻して、しかもその後の日本中世の方法意識を縫い取って議論しなければ話にならないということである。
近代以降、そうした枕詞について、幾つかの仮説が試みられてきた。西郷信綱は『万葉私記』(東京大学出版会)で、古代歌謡のオラル・コミュニケーションにひそむ反文法的性格に注目しないかぎりは枕詞は解けないとのべ、ボーカリゼーションとしての枕詞を浮上させた。
土橋寛の『古代歌謡論』(三一書房)は古代社会がもとうとした「根ざす」という願望に言及して、枕詞が神名や地名の再生を永遠にしようとしていたことに注目し、中西進は一連の万葉集研究で枕詞を上下一体ととらえる連合表現仮説を提出した。吉本隆明は「喩」を前面に持ち出し、当時の社会にひそむ共同幻想が同格同義の「畳みかさね」を希求したのではないかと主張した。『初期歌謡論』(河出書房→ちくま学芸文庫)での仕事だが、吉本を有名にした『共同幻想論』が下敷きになっている。
一方、古橋信孝は『古代和歌の発生』(東京大学出版会)で、枕詞には共同体がもつなんらかの「始源の様式」があったはずで、それを「装う」ことこそが日本人の歴史性そのものではなかったのかと言った。神謡は枕詞がなければ支えられなかったろうというのだ。なるほど「装う」ことは必要だったろう。
仙覚抄
仙覚が文永6年(1269)に完成させた。万葉集の本格的な注釈書としては最初のものである。
西郷信綱『古代人と夢』 (平凡社ライブラリー) 『日本の古代語を探る』(集英社新書)
吉本隆明『共同幻想論』(河出書房新社)・『日本的なものとはなにか』(筑摩書房)
折口や西郷以来の議論をまとめれば、枕詞はボーカリゼーションのプロセスの中にあった特別な言葉で、したがってすこぶる反文法的なもので、特有の名辞を喚起再生させる力をもっている。それとともに古代的共同体の始源の幻想を同格同義にするためのメタファー性に富んでいたので、どんな枕詞も総じてライフ・インデックスになっていたのだろうということだ。
が、このように解義したところで判然としないこともずいぶんのこる。始源的なるものを議論するのは一筋縄ではいかない。これこそ「類」をめぐる「日本という方法」の秘密にかかわっているところが、もっともっとありそうなのである。
というわけで、今年正月の千夜千冊第二弾では、枕詞をめぐった本書をとりあげることにした。
著者は国学院出身で、のちに立正大学で長らく枕詞一筋の研究をしつづけた。研究者としてはたいへん丹念に枕詞の用例に分け入っている。ぼくは25年ほど前に読んで「あかねさす」や「ぬばたまの」や「ももつたふ」にどっぷり浸ることができた。とくに近藤信義が「葛類の枕詞」と名付けた「さなかつら」「まくずはふ」「たまかづら」といった、蔦がからまる枕詞についての論考は、のちのちまで唐草文様好きの日本人がいったんは考えてみたい「類」なので、興味深く読んだ。
けれども、本書を読んだから「枕詞という方法日本」が解けるわけではなかった。近藤の研究は微細なところに入りすぎて全貌の構図を失っているようにも思われた。それでもぼくには1つの峠を越えるきっかけになったので、本書は大きな足場のひとつなのである。
話を戻して、折口がライフ・インデックスだと言ったのは、日々の生活のディクショナリーあるいはレパートリーとして枕詞がつくられてきたというのではない。古代人の生命力と観念力の根幹にふれるトリガーであり、「妣が国」のインデックスであると言ったのである。
「妣が国」は折口が想定した古代観念技術王国のようなもので、古代ふうにいえば「常世」であり、一般的にいえば「心の内なる母国」のようなものをいう。しかし、その妣なる母国はマレビトなどの出入りする古語で占められている。分け入っていくには何らかのインデックスが必要なのである。
こうして枕詞はまさにわれらがマザーカントリーのイメージングの方法の秘密を解くためのコトワザ(言・技)であって、かつコトワリ(言・割)としての役割をもったのである。古来のコト(言=事)を誘い、それをコトワリとして残すために、神授の約束が言葉づかいにあらわれたものが枕詞なのだ。
折口信夫と著書『古代研究』(中央公論新社)
記紀や風土記を見ると、多くの枕詞は神託のときに発せられた神名や地名の由来に関する言葉と結びついている。そこにはさまざまな配慮の事情が生きている。
たとえば「やまと」にかかる枕詞には「あきづしま」(秋津島)「あしひきの」「しきしまの」(敷島の)「ひのもとの」などがある。その一方で、『日本書紀』神武31年の条に、ニギハヤヒ(饒速日命)が「そらみつやまとの国」という言葉を発したという記事がある。
…昔、イザナギのミコト、此の国を目けて曰はく、「日本は浦安の国、細才の千足る国、磯輪上の秀真国」とのたまひき。またオオナムチの大神、目けて曰はく、「玉垣の内つ国」とのたまひき。ニギハヤヒのミコト、天磐船に乗りて、大虚を翔り行きて是の郷を睨りて降りたまふに乃至りて、故、因りて目けて、「虚空見つ日本の国」と曰ふ。
ニギハヤヒの系図
この記事は「やまとの国」というマザーカントリーについての讃詞を蒐集している当時の編集過程を示した箇所なのだろうが、その後、このうちの「そらみつ」が「やまと」にかかる枕詞になった。
神武一族の天孫降臨とはべつに物部氏の遠祖であるニギハヤヒが天孫降臨をしたという伝承は、天皇家すなわち大和朝廷のレジティマシー(正統性)からすればあきらかに異伝である。異伝ではあるのだが、祖国をあらわす「やまと」にかかる枕詞のひとつとして、ニギハヤヒが発したとされる「そらみつ」を残しておいたほうがいいと判断する理由があったのである。むろん物部氏に対する配慮だった。枕詞には、しばしばこうした異族異種異類を慮るものがまじっている。
こうしてソラミツとかソラミツルが「国」を引き出すパスワードに昇格した。いったんそうなると、古語が忘れ去られた後代においても、「そらみつ」が「やまと」を引き出すだけではなく、「やまと」が「そらみつ」をブラウジングし、歌詠み人たちの観念と想像力の中に「大和の空」を植え付けていったのだ。
同様に「かむかぜの」(神風の)は「伊勢」の、「やくもたつ」(八雲立つ)は「出雲」の導因になるパスワードとなった。それさえあれば、いつでも、どこからでも伊勢にも出雲にも行けるようになったのだ。「ももしきの」(百敷の)と言えば、たちまち「大宮」すなわち宮都に飛んでいけたのである。
こうした特有の地に所以をもつ呪詞めいた機能を見ると、枕詞はすぐれてトポグラフィックで、アブダクティブで、かつ強力なエディティング機能をもったというふうに言える。ずいぶん痛快なものを創り出したものである。
江戸時代、国学者たちによって枕詞についての注目すべき見方がいくつか提言された。
下河辺長流は『万葉集管見』や『枕詞燭明抄』で、「歌に枕詞あるは人に氏姓あるに同じ」と言った。「氏を置きて呼ぶ名の長きがごとく、古き歌のたけ高く聞こゆるは枕詞を置き、多くは序より続けるが故なり」ということで、氏と姓との結び付きのようなものだというのだ。
賀茂真淵の『冠辞考』は「枕は夜のもの、冠は日のもの」として、「ものを上におくことを冠らす」ように、言葉を上においたのだとみなし、「言のたらはぬときは、上にうるはしきことを冠らしめて調をなんなせりける」と説明した。この影響で富士谷御杖は『歌袋』で、上田秋成は『冠辞考続貂』で、枕詞は「かうふり」や「よそおひ」ではないかと見た。江戸後期の香川景樹が『歌学提要』に「枕詞は調べをととのふる為の具なり」としたのも、この見方の継承だった。
しかし枕詞を「調べ」に寄せるのは、ぼくにはやや肯んじがたいものがある。その点、宣長が「枕と言ってもかしらに置くから枕」というのではなく、「すべて物のうきて、間のあきたる所を支ゆる物を、何にまくらと云へば、名所を歌枕と云ふも、一句言葉のたらであきたる所に置く由の名と聞ゆれば枕詞と云ふも、そのでうにてぞ云ひそめけむかし」と見たことのほうが、おもしろかった。
さすが宣長には「空席」を見抜く力があったのである。「不足による編集」が枕詞を発達させてきたという見方だった。
『冠辞考』
宝暦7年(1757)、賀茂真淵によって発刊された。
日本の古代において「空席」に充当してくるものといえば、やはり神々か、その名か、そのミコト(御言)だった。
たとえば『日本書紀』神功皇后の条に、次のような一節がある。たいへん象徴的な言葉づかいがフルヴァージョンで組み合わさっている。
…三月の壬申の朔に、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。則ち武内宿禰に 命して琴撫かしむ。中臣の烏賊津使主を喚して、審神者にす。因りて千繪高繪を以て、琴頭尾に置きて、請して曰さく、「先の日に天皇に教へたまひしは誰の神ぞ。願はくば其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮りて、乃ち答へて曰く、「神風の伊勢国の、百伝ふ度逢県の、折鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂、天疎向津媛命」と。亦問ひまうさく、「是の神を除きて復神有すや」と。答へて曰く、「幡萩穂に出し吾や、尾田の吾田節の淡郡に所居る神有り」と……。
皇后は斎宮に入って神主の資格を得ると、琴を弾じ、シャーマン的な審神者を侍らせ、祭料を積んで神懸りを待った。こうして七日七夜にわたる秘儀がおこなわれたという記述である。
記紀のなかでこれほど詳しく神託が降りる前後の状況を綴ったところはないのだが、ここに神の名を空席にもってくるという条りがあり、そこにさまざまな枕詞が静かに去来したとおぼしい。「ことかみに」(琴頭)は神の気配の影がやってくるときの「かげ」にかかり、「はたすすき」(旗薄)は「穂」や「みほ」や「うら」にかかる枕詞だ。
「神風の伊勢国の」「百伝ふ度逢県の」では、よく知られているように「かむかぜの」は伊勢を引っ張ってくるための、「ももつたふ」は出来事や賢きことがいっぱいになることをあらわすパスワードである。「ももつたふ」は万葉の大津皇子の「ももづたふ磐余の池に泣く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」などに使われた。
これらの用法はごくごく初期のもので、枕詞が微妙と緊張の隙間をめがけて用いられたことが伝わってくる。
ぼくはそれを「空席」と表現したが、むろん「空隙」でも「隙間」でもよかった。ただそこはたいそう繊細で、かつ緊張するところなのである。そうでなければ、五十鈴宮にゐます神の名が撞賢木厳之御魂というふうには、ぴったりとやってきてはくれなかったのだ。きっと枕詞や懸詞は、このような神名や居場所に「ぴったり」をおこすための重大な「おこしことば」であり、繫辞だったのだろうと思う。
しかしこうした神がかったものと枕詞の関係は、そんなに長くは続かなかったと思われる。律令制が崩れ、藤原摂関政治が広まり、古今・新古今になっていくにつれ、神を隙間に招くための枕詞の力は、恋の情緒や無常の心理の隙間に去来するようになったのだ。百人一首はそこから派生した。
枕詞になじんでみることは、作歌術のためというより、「類が類を呼ぶ」という日本の面影の不可思議を感じるための縫い取り作業なのである。
花鳥風月や雪月花をどのように蒔絵や和菓子やデザイン意匠に織り込むかという作業のためにも、「日本という方法」を縁側伝いのインタースコアにしていくためのヒントとしても、また、日本語というものがどの糊代によってつながっていくかという微妙きわまりないフラジリティの把握のためにも、日本の面影にアプローチする枕詞や懸詞や縁語を眺めておくことは、欠かせない。
ぼくはときどき「襲」の色目を見たり、歳時記の言い回しの微妙に注目したりしてきたのだが、「歌語」になじんでおくことはそれらのすべてに通暁する「かささぎの橋」なのだ。
それでは以下に、ぼくがつねづね気になってきた枕詞をあげておくことにする。アイウエオ順に並べておいた。
「あづさゆみ」(いそ・いちし・ひく・ゐる・はるかに・こころ・たつ・おと・もと・すえ・つる・つま・よる・かへる)。梓弓は神事の弓で、その弦の鳴りから多くの消息を想定させた。「いそのかみ」(ふる・そでふるかは・めづらしげなし・ふるさと)。石上神宮にまつわる枕詞で、布留という土地の名があるので、時を経た感慨につながった。
「いはばしる」(あふみ・たぎ・たるみ・かんなびやま・はつせかは)。水が激しく音を立てるさまをあらわしている。万葉の「命をし幸くよけむと石走る垂水の水をむすびて飲みつ」や志貴皇子の「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」が有名だが、新古今の「石ばしる初瀬の川の浪枕はやくも年の暮れにけるかな」もなんだか昭和っぽくていい。
「浮舟の」は「こがる」に、「泡沫の」は「きえ・うき」の消え方にかかわっていく。「空蟬の」は「よ・ひと・いのち・み・うつし・いも・やそ・から・わびし・むなし・かれる・つね・な」にかかる。はかなさを表現するのにもってこいだ。万葉には「空蝉の世は常なしと知るものを秋風寒み偲びつるかも」とある。カラは空であって殻であり、骸でもある。ウキ・ウタ・ウツは何かが重なって響くことをいう。
儚さにもいろいろある。「かぎろひの」なら「はる・たつ・もゆ」であるが、「かげろふの」になると「おの・あるかなきか・ほのか・ほのめく・それかあらぬか・ありやあらずや・はかなき・いはがきふち」というふうに変化する。影向の感覚に近い。『拾遺集』に「夢よりも儚なきものはかげろふの髣髴に見えし影にぞありける」とある。
漱石が好きだった「草枕」はよく知られているように「たび・たびね・かりそめ・かりね・ゆふ」につながる。覚束ないものの枕詞は他にもある。「くれなゐの」(いろ・うつし・あさは・ふりいで・あく・末摘花・やしほ)、「黒髪の」(みだれ・ながし・わかれ)、「咲く花の」(うつろふ)などなどだ。「さざなみの」もいい枕詞だ。「志賀・大津・ひらやま・なみくらやま・ながらやま・くにつ・ふるきみやこ・おほやまもり・よる・あやし」にかかるのだが、近江や淡海にかかるときは「さざなみや」になる。
枕は寝具であるが、「敷妙の」といえば昔の寝具が引き出される。万葉の「つのさはふ石見の海のますらおと思へるわれも敷きたへの衣の袖は通りて濡れぬ」に始まっている枕詞で、「ころも・そで・いも・まくら・たまくら・いへ・とこ・くろかみ・ちりはらふ・ふさず」などに関連する。「しなさかる」は「こし」、すなわち越の国のための枕詞である。「たたなづく」は山並みなどが幾重にも重なっている様子のことで、「あをかき・にきはだ」につながる。
古代人にとって「たま」は魂であって言霊だった。「たま」にかかわる枕詞や懸詞は少なくない。「たまかぎる」が「ほのか・はろか・ひとめ・ひ・ゆふ・いはかきふち」に、「たまきはる」が「うち・いのち・こころ・いそ・いくよ・わ・むかし」に、「たまくしげ」が「あく・ふた・ふたかみ・み・みむろ・うらみ・はこ・おはふ・かけご・かがみ・かがやく・をく・あさし・ふかし」などにつながっていく。斎藤茂吉の「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」は現代短歌に枕詞を折り込んだ一首として心に残る。
ぼくが好きなのは「玉梓の」(つかひ・ひと・かよふ)、「玉響に」(みし)、「玉絹の」(さゐさゐ)、「玉釧」(てにとりもつ・まく)などで、とくに「玉藻なす」が「うかべ・よる・なびく」とともに「かよりかくより」に絡んでいくところがたまらない。
そのほか、気になってきた枕詞に、「つるぎたち」(みにそふ・とぐ・ながこころ)、「解衣の」(おもひみだる・さらなる)、「時津風」(ふけひ)、「とぶたづの」(たづたづし)、「遠つ国」(よみ)、「なぐるさの」(投ぐる箭の=とほざかる)、「鳰鳥の」(ふたりならびゐ・かづく・葛飾・おきなが)、「這ふ葛の」(いやとほながく・したよこふ・ゆくへもなく)、「引繭の」(こもる・いと・いとふ)、「吹く風の」(みえぬ・たより・あらち)などがある。いずれも興味津々である。
枕詞というものはそこに立ち会ってみないと、いったいどうしてこんな古語や歌語が連結の隙間に出入りしたのか、にわかにはわからない。しかしながら、いったんそのような連結に分け入った歌語はその後も、まことに奇妙な残響的文脈のなかで生き続けていくのである。
ぼくはかつて「ますらをの」が「たゆひ」(手結)にかかるもので、それが足結と一対になっていることや、また「もののふの」が「うぢ・いはせ・やそ」にかかるだけでなく、「おほまへつきみ」や「をとこをみな」を呼んでいることなど、まったく知らなかった。けれども越前若狭の多由比神社の「王の舞」を見たとき、いっさいの謎が解けた。
こういうことは、いくらでもある。たとえば「やへむぐら」は植物名のヤエムグラのことではなく、「さす」とかかって、雑草の茂みと人とのかかわりを意味するのだし、「やまのゐの」は山の井のことで、山の清水を石を組んでさっと囲ったものなので「あさき」なのである。いろいろ納得したものだ。
ふりかえって、このような枕詞や懸詞や歌枕にそもそも関心をもったのは、折口信夫の『日本文学の発生序説』(角川ソフィア文庫)の「声楽と文学と」の三に、このように書いてあったことに甚く痺れたからだった。最後に引用しておきたい。
「一度発生した原因は、ある状態の発生した後も、終熄するものではない。発生は、あるものを発生させるを目的にしてゐるのではなく、自ら1つの傾向を保つて、唯進んで行くのだから、ある状態の発生したことが、其力の休止、或は移動といふことにはならぬ訳である。だから、其力は発生させたものを、その発生した形において、更なる発生を促すと共に、ある発生をさせたと同じ方向に、やはり動いても居る。だから、発生の終へた後にも、おなじ原因は存してゐて、既に在る状態をも、相変らず起し、促してゐる訳なのだ。」
この折口の説明は、ひたすら1つのことを強調している。いったん「そこ」におこった大事なモノ(霊・物)やコト(言・事)は、そのまま「そこ」の起源の由緒を語る面影として、どんなところにも休止なく転移できたということ、すなわちいいかえれば、どんな文脈から「そこ」にさしかかっても、その「発生」にまつわる観念技法力は衰えなかったということだ。
枕詞は面影発生の起源と由来を象徴的に保持してきた稀なホットワードである。面影発生装置なのである。だからこそ、そうした枕詞は日本のさまざまな表現世界に出入りして、これらを自在にインタースコアしてみせたのだ。たんに何かと何かを連絡させたのではない。その発生の起源のボーカリゼーションとナラティヴィティをそのまま引きずって、インタースコアの旅をまっとうしてきたのであった。
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