https://news.yahoo.co.jp/articles/168a86b29372af5300404bc63372d8fcfc1554e5 【 聖武天皇が仕掛けた「宗教戦争」と神仏習合】より
宗教、宗派の対立が、世界秩序の崩壊を助長している。そして、貧困と不公平、蓄積された恨みと憎しみが、混乱に拍車をかけている。それが今日の世界だろう。
古代の日本でも、宗教戦争が勃発していた。だれもが知る6世紀後半の物部守屋と蘇我馬子の、仏教導入をめぐる死闘だ。
物部氏は「蕃神(あたしくにのかみ、仏のこと)を祀れば、国神(くにつかみ)の怒りを買う」と主張し、仏像を難波の堀江(大阪市中央区)に捨てた。すると、蘇我馬子は反撃に出た。朝廷の主だった者を率いて、物部守屋を滅ぼしたのだ。
けれどもこの戦い、純粋な宗教戦争だったかというと、じつに心許ない。その証拠に、物部氏自身が、当時仏寺を建立していたし、蘇我氏は物部守屋を滅ぼしたあと、神道を弾圧していない。対立の裏に、皇位継承問題や外交問題、改革を巡る利害の対立が隠されていた。要は、宗教戦争を隠れ蓑にした権力闘争である。
ならば日本には、宗教戦争はなかったのだろうか。
「静かで長い戦い」は、起きていたと思う。それが、中臣神道の成立から神仏習合に至る間にくり広げられた、摩訶不思議な暗闘劇である。
7世紀後半から8世紀にかけて、律令制度の導入によって社会は大きく変貌した。中でも、藤原氏から別れた中臣氏が神祇官になると、神祇祭祀(神道)は激変した。藤原氏と中臣氏は神道を都合の良い形に改変していく。『日本書紀』が編纂され神話が確立し、伊勢神宮が整ったのだ。
極論すれば、この時生まれた「神道」は、伝統を無視した張りぼてだった。だから平安時代に中臣氏とともに朝廷で祭祀を司る官職を務めてきた斎部広成(いんべのひろなり)は『古語拾遺』(こごしゅうい)を記し、中臣神道に対する不満を爆発させている。「これを言っておかなければ、死んでも死にきれない」「中臣氏が神道を私物化している」と訴えた。
地方の神官に至っては「仏にすがりたい」と言い出している。これは異常事態だが、その理由ははっきりとしている。律令制度の矛盾が噴出し、農民たちが困窮すると、税を徴収する神官たちにしわ寄せが及んだからだ。
収穫したイネの一部は神に捧げるために集められた。これが税で、律令以前から運用されてきたシステムだが、ここにいたり破綻したのだ。律令制度が原始共産制だったからだ。たとえば、「農地の私有は許さず、死後返納させる」から労働意欲を削ぎ、次第に荒地が増えていった。逃亡する民もあとをたたなかった。そしてこれが、神仏習合のひとつのきっかけになっていくのである。
弥生時代から、既に日本列島には、「純粋な民間の信仰」と、「統治のための宗教」の2つの流れがあったと思う。縄文時代から続く素朴な多神教的信仰と、社会をまとめ上げるための、権力者の方便だ。じつを言うと8世紀以降に勃発した「静かな宗教戦争」は、この2つの流れの間で交わされていたように思えてならない。
弥生時代、稲作によって余剰が生まれ人口爆発が起きると、土地と水を求めて戦争が始まった。強い首長が求められ、首長は鏡や矛などの青銅器を依代(よりしろ、神霊が出現する時の媒体となるもの)にし、神を祀った。統治のための宗教の萌芽だ。そして、ヤマト建国によって、巨大な前方後円墳が青銅器に取って代わった。首長や王は墳丘上で神々や先祖の霊を祀り、王や首長の正統性を演出してみせた。
ここで注意しておきたいのは、ヤマトの祭祀様式を、地方の首長が自主的に受け入れていたことで、染みいるように、民にも浸透していったことだ。弥生時代の戦乱状態が、一気に沈静化した奇跡は、「ヤマトのマツリゴト」が、地方の信仰と融和した結果だろう。ヤマトの信仰が多神教的発想に根ざしていたから、広く受け入れられたのだ。
https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/page/page_17.html 【もっと奈良を楽しむ】より
鎌足を追いつめる入鹿の首
その時、入鹿は叫んだ。「臣罪を知らず」――私になんの罪がありましょうか、と。
しかし、訴えは聞き入れられず皇極天皇は入鹿に背を向ける。周りには後に天智天皇となる中大兄皇子、中臣鎌足。剣を構えた彼らの仲間。
皇子が告発する。「入鹿は天皇に取って代わろうとしているのです」蘇我入鹿が最期を迎えた日は大雨が降っていたと『日本書紀』は記す。乙巳(いっし)の変―― 飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)で繰り広げられた大化の改新の端緒となった出来事である。
斉明朝にまとわりつく青き影
この「乙巳の変」をもって時代は大きく前進することになる。事件の真相には諸説あるが、その真偽はともかく、庶民はどうやら「入鹿の罪」を信じていなかったと思われる。
入鹿が彷徨い出ているからだ。
皇極天皇は弟の孝徳天皇の死後、いわくつきの飛鳥宮(飛鳥板蓋宮)で斉明天皇として再び即位。『書紀』はこの時に、葛城山の方から“油を塗った青い絹の笠(雨具)をかぶった唐人風の者”が空を駆ける龍に乗って現れた、という奇妙な一文を記している。
それが不吉な兆しとなったのか飛鳥宮は火災にあい、宮を転々と移すことになる。青き衣の異人は斉明天皇の葬儀にも現れ、じっと視線を注いだという。
葛城地方は蘇我氏の本貫地とされており、唐人風という特徴も大陸と結びつきの強かった蘇我氏を彷彿させる。平安末期に著された『扶桑略記』は先の一文を引用し、その正体を蘇我豊浦大臣、つまり入鹿が討たれた際に自害した父親・蝦夷の霊だと言及している。
皇極(斉明)天皇との関わりから考えれば、異人の正体は入鹿とするのがふさわしいだろう。雨でもないのに雨具を着ているという表現も思わせぶりだ。
入鹿の名を口にするのは憚られたが、蘇我氏の霊が斉明朝に禍をもたらした――人々がそう噂し合っていたことが想像できる。
怨念を語り継ぐ“落ち首伝承”
平安時代を迎えるまで、「怨霊」という言葉はまだ生まれていなかった。ただ、恨みを呑んで死んだ者が霊となって現れ、憎む相手に障りをなすという考え方は広まりつつあった。
悪しき霊となるには条件がある。故なき罪に陥れられること、すなわち冤罪による死者にのみその資格が与えられた。陥れた者の心に、汚れた手で上り詰めた権力者を見る人々の目に、禍いを成す霊が立ち現れるのだろう。
やがて青き衣の異人は実態を伴うことになる。
藤原鎌足を祭神とする談山神社所蔵の『多武峯縁起絵巻』には、中大兄皇子が刎ねた入鹿の首が、天皇と彼らを隔てる御簾に飛びつく様が描かれている。『日本書紀』にはそのようなダイナミックな記述はなく、まして入鹿にとどめを刺した人物は皇子ではない。
絵巻は16世紀頃の成立と推定されているが、この頃にはすでに「宙を飛ぶ入鹿の首」は世に認知されていたと思われる。あちこちで首の出没譚が語られているのだ。
宗我坐宗我都比古神社
蘇我一族の居館があったとされる橿原市曽我町には、入鹿の祖父・馬子が創建したと社伝にいう宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社が鎮座する。入鹿の首は、この曽我町東端にある「首落橋」近くの三差路角にある家のあたりに落ちたと伝わる。それ故に家の屋号は「オッタヤ」あるいは「オッテヤ」と呼ばれたとか。
首はさらに大和と伊勢の国境の高見山まで飛んだとの話も残す。
曽我町の東南に面した小綱(しょうこ)町には入鹿を祭神とする 入鹿神社がある。あたりには入鹿が幼少期を過ごした家があったとか、入鹿の母が身を寄せた家があったなどと伝わる、蘇我氏とはゆかりの深い一帯だ。
談山神社
飛鳥からは相当の距離があるが、氏子たちが入鹿の無念をそうして語り継いだのだろう。
曽我と小綱生まれの者は多武峰 (談山神社)には決して参拝せず、縁組みもしないとされた。筋金入りの鎌足嫌いだったのだ。
入鹿の首、鎌足に牙をむく
皇子と鎌足が入鹿討伐をたくらむ密談をしたという故事により、別名・談山(かたらいやま)と呼ばれる多武峰。落ち合った場所は談山神社の上手とされるが、ここにも入鹿の首が飛んできたと語られる。ふたりを恨む入鹿の執念の深さを表すように、首が落ちた夜は天地が大いに荒れたという。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)飛鳥寺
やがて“飛んでいただけ”の入鹿の首は、鎌足に反撃を開始する。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)の北に、馬子が建立した日本最古の寺院・飛鳥寺(安居院)が立つ。その西方、田んぼの中にぽつんとたたずむ五輪塔が「蘇我入鹿首塚」。この場所に飛んできた入鹿の首が執拗に鎌足を追い回そうとするので、供養のために建てたという。
鎌足は首から逃れるため多武峰方面へ逃げた。細川の上流へと向かい、氣都倭既(きつわき・けつわき)神社へ至り、「茂古(もうこ)の森」へ隠れる。「ここまでくれば“もう来ぬ”だろう」。鎌足の呟きが不思議な名の由来となっている。力尽きたか、ホッと胸をなで下ろしたのか、鎌足が腰掛けたという石が境内の手水舎横に残されている。
蘇我入鹿首塚氣都倭既(きつわき・けつわき)神社(境内の手水舎)
どういうわけか入鹿の恨みは鎌足にのみ集中しているが、それは事件を機に後世まで繁栄を続けた藤原氏へのやっかみゆえか、さすがに天智天皇をそのような話の主役に置くのは憚られたせいなのか……。
いずれにせよ、“語り”とは供養の機能を果たすものだ。語り、騙ることで人々は記憶を共有し、伝えていく。その行いこそが、力をもたない人々のささやかな抵抗となる。
正史に描かれずとも、入鹿の無念が忘れ去られることはない。
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