「無念の死」に寄り添い言葉をつむぐ……藤沢市在住の俳人・長谷川櫂さん

https://www.fujisawabito.net/report/208/ 【「無念の死」に寄り添い言葉をつむぐ……藤沢市在住の俳人・長谷川櫂さん】より

 藤沢市在住の俳人、長谷川櫂さん。数多くの句集や俳句の評論、エッセイを発表し、現代の俳壇をリードし続けています。2022年1月に発表した最新のエッセイ集「俳句と人間」(岩波新書)に込めた思いや、地元・藤沢市の魅力について語っていただきました。

●がん体験、生と死を思う契機に

 しんかんとわが身に一つ蟻地獄

 「俳句と人間」は、長谷川さんが2018年夏に皮膚がんを患った経験から始まります。それまで手術になど縁のなかった長谷川さんは、ヘルニアの手術と合わせ、わずかの間に9回も手術を受けました。

 ヘルニアの手術を終えて病室に戻り、ベッドから立とうとした時、長谷川さんは突然意識を失い、ばったり倒れてしまいました。

 「死の疑似体験だ」後にそう感じるようになりました。

 「がんを宣告され、意識を失う経験をすると、どうしても『死』について考えるようになります」 がん宣告そのものには、不思議とショックは受けませんでした。「俳句は自然を題材にする。自然が通じている宇宙とか、その先の『無』というものに常に接しているから、死に対してもあまりショックを受けなかったのかも」。むしろ「これはいい機会だ。俳句の題材が増えた」と感じたそうです。 

 その一方で長谷川さんは「『死』を通じて自分のあり方を見つめ直すという意識も、はっきりと生まれました」と振り返りました。

●戦争、震災、コロナも題材に

 先の戦争における沖縄戦や原爆、東日本大震災と原発事故。長谷川さんはこれまでも、こうしたテーマを数多く俳句の形で表現してきました。「文学とは『何かに寄り添う』こと。無言で死んでいく多くの人たちが言えなかったことを聞き取るために、俳句があると思うのです」

 例えば沖縄。ある時、目の前の小高い丘を見ていて、不思議なことに気づきました。中腹だけ緑が特別に濃いのです。案内してくれたタクシーの運転手が教えてくれました。

 「戦争の時、ここで人がたくさん死んだ。その人たちが埋まっている場所は、植物が人の体を養分にして、他の場所より余計に繁る。だから濃い緑に見えるのです」

 それはとても美しい景色でした。しかし、一皮めくればそこには、至るところに恐ろしい戦争の痕跡がある。少し想像力を働かせれば、戦争の悲惨さをはっきりと体験できるのです。

 夏草やかつて人間たりし土

 例えば広島。「沖縄では地上戦があったけれど、原爆は(加害者側が)手を汚すことなく、十何万人もの人が一瞬にして命を落としました。広島にはまた別の悲惨さがあります」

 そして福島。「『復興した』と強調されるけれど、今も住むことのできない土地が多くあります。そんな福島を、政府だけでなく、日本人全体が見捨ててしまっているのではないでしょうか」

 福島をかの日見捨てき雪へ雪

 長谷川さんががんを経験して間もなく、世界は新型コロナウイルスの感染拡大という、大きな惨禍に見舞われました。

 「家族とも会えないまま、無念の死を迎えた人たちの思いに寄り添って俳句を作る。がんを体験したことで、そういう意識がすごくはっきりしたんです」

 南無金剛病魔退散白団扇

●俳句は「言葉だけでは終わらない」

 中学生の頃から俳句を作り始めた長谷川さん。きっかけは国語の授業でした。

 「先生は詩人でした。授業がとても面白くてね。教科書で宮沢賢治を取り上げていたら、授業の半分くらいは、教科書に載っていない賢治の詩について、独自の解説をしてくれました」

 授業を聞くうちに「言葉って面白いな」と思うようになりました。「人間が一生かかっても解き明かせない問題を秘めている」

 特に俳句にひかれたのは、五・七・五という「短さ」。

 「俳句は言葉だけでは終わらない。言葉になっていない部分が、言葉より大きかったりする。十七文字を置くと、その周りは全て空白。言葉が『無と接している』ことを、常に意識させられるのが俳句です。短いからこそ、永遠とか無とか、沈黙の世界に触れることができる。長編小説のような長い文学では、はっきり意識されない部分ですね」

●記者と俳句の「二足のわらじ」

 学生時代から俳人として頭角を現した長谷川さんでしたが、東大を卒業すると新聞記者として、初任地の新潟に着任します。二足のわらじを履くことになりましたが、入社した時から「記者の仕事が俳句づくりの害にならないように」と考えていました。

 職場は長谷川さんを一度は文化部に配属しましたが、長谷川さんは「一つ記事を書くと『あの表現はあれで良かったのか』ということがいつまでも気になってしまい、俳句が作れなくなった」ことに気づき、自ら願い出て編成部に移りました。記者が書いた記事に見出し文をつけ、さらに「どの記事をトップに置くか」などを決めてレイアウトして、紙面の形にまとめ上げる仕事です。

 「朝刊や夕刊の印刷が始まれば、その日の仕事は終わり。あとは何をしようと自由です。仕事の時間がきちんと限られている編成部の方が、句作をやりやすかった」

 短い見出し文でニュースの本質を突くのは、俳句づくりと似ているようにも見えますが、長谷川さんは苦笑気味にこう語ってくれました。

 「新聞の見出し文は論理立てて書く必要があるけれど、俳句は論理を無視していますからね。『何もかも奪はれてゐる桜かな』なんて、見出しにしたらデスクに怒られてしまいますよ」

 やがて長谷川さんは新聞社を退社し、句作に専念することになります。

●藤沢の海は「青い無の宇宙」

 藤沢市で暮らし始めたのは、20代の終わり頃。新聞社での初任地・新潟での勤務を終えて、東京本社に着任した時のことです。

 「生まれ故郷の熊本も、前任地の新潟も海のそば。海の近くに住みたかった。藤沢は街として明るく、自由な感じがあっていいなと思ったのです」

 現在は市内のご自宅から、江ノ電の鎌倉高校駅近くにある仕事場に、週に1度ほど通っています。仕事場の窓の外に広がる相模湾の風景。やがて長谷川さんは、その海のたたずまいに「無の宇宙」を感じるようになりました。

 「海を見ていると、自然や無や宇宙、そういうものについて考えることができる。人間が生まれて、やがて帰っていく『無の宇宙』が、目の前に広がっているのです。藤沢は常に『宇宙と接している』場所であり、僕の俳句づくりにとって、とても良い場所だと思っています」

 2020年4月。コロナ禍で政府が緊急事態宣言を発令し、国民は不要不急の外出自粛が求められました。この時期、長谷川さんは、ご夫婦で藤沢市の周辺をよく散歩しました。お気に入りの散歩コースに「辻堂コース」がありました。JR辻堂駅から辻堂海浜公園に向かって歩き、海に出たら東に折れて江の島を見ながら歩き、小田急線の片瀬江ノ島駅に向かう、というものです。

 この「辻堂コース」を歩いていた春のある日のこと。海水浴シーズンに入る少し前でしたが、コロナ禍のせいで、砂浜には数人の子供たちがサッカーボールで遊んでいるばかり。振り向くと、霞の上に富士山がぼーっと浮かんでいるのが見えました。

 「この景色がとても印象に残りましてね。富士山が黙っている……」

 そして生まれたのがこの句です。

 夏富士や大空高く沈黙す 

●スポーツジムは「句作に最適」

 散歩は句作の良い機会なのでしょうか。長谷川さんは一体、どんな時に俳句を作っているのでしょう?

 「できるのではなく『浮かんでくる』のだから、場所も時間も問いません。眠ろうとしている時に浮かんできて、急いで手帳に書き留めたこともあります。書き留めないまま忘れてしまった名句が、数限りなくありますよ」

 苦笑いする長谷川さんですが「一つ言えるのは、身体を動かしていると俳句がうまくできる」ことだそうです。

 「人間は頭や心だけでなく、体全体で考えているんじゃないかと思います。頭で考えると理屈っぽい句になってしまうけれど、体を動かしながら考えていると、余計なものが抜け落ちて(いい句になる)。松尾芭蕉が『おくのほそ道』を著すことができたのも、長い距離を歩いて体を動かしていたからなのかもしれません」

 長谷川さんご自身は、辻堂駅近くのスポーツジムで汗を流した後、休憩している時にいろいろな言葉が浮かんで来るそうです。

 「散歩していると目の前に花や景色といった俳句の素材が目に入ってきて、それにとらわれてしまうけれど、ジムでは周りにあるのはマシンばかり。直接俳句の題材になるようなものが目に入りません。(句作にとって)とても生産的な時間になるんです」

●フランクで付き合いやすい藤沢の人々

 藤沢のタウン誌として「後世に残してほしい藤沢の良さ」についても聞いてみました。

 「住んでいる人たちの気風ですね。長く住まないと分からない気風があります。ジムに通っていると、昔から地元に住んでいる人たちがたくさんいて、いろいろ教えてくれたり話しかけてくれます。ぶっきらぼうなんだけれど、すごくフランクで付き合いやすいです」

 忘れてはならないのが藤沢の風景です。

 「辻堂駅からまっすぐ南に伸びた道を歩くと、辻堂海浜公園にぶつかりますよね。ずっと砂浜が続いている。あれは藤沢を象徴する風景だと思います。広い砂浜があって、江の島が見えて、空が大きくて、はるか彼方に富士山が見える。あの景色は何としても残さなければいけない。夏はもちろんですが、人があまりいない冬の風景は、他の街ではなかなか楽しめない風景だと思いますね」

●俳句を詠みたい人へのメッセージ

 自ら句作を続けるかたわら、朝日新聞の「朝日俳壇」の選者を務めたり、俳句の入門書を出版したりと、俳句を楽しむ裾野を広げることにも熱心に取り組む長谷川さん。どうすれば俳句がうまく詠めるようになりますか?

 「うまく詠む必要はありません。言いたいことをちゃんと言う。俳句に限らず、文学の基本です」

 山登りを楽しんだり自然を満喫したりしながら俳句を楽しむ方は多いのですが、長谷川さんは「むしろ世の中で揉まれているとか、息苦しいとか、そういう人が俳句をやると、すごく解放される、救われると思います。言いたいことのある人、人間関係でギクシャクしている人などは、俳句をやるとすごく解放されると思います。世の中は嫌な上司や難しい部下だけではないということがわかります」と語ります。

 長谷川さんが運営している「俳句的生活」というウェブサイトには、誰でも俳句を投稿できる「ネット投句」というコーナーがあります。ふじさわびとの皆さんも、江の島を臨む海に宇宙を感じながら、一つ俳句を始めてみてはいかがでしょうか?

●プロフィール

 1954年熊本県生まれ。東京大学卒業後、読売新聞記者を経てプロの俳人に。「きごさい(季語と歳時記の会)」代表、朝日俳壇選者。評論集「俳句の宇宙」でサントリー学芸賞受賞。2021年句集「太陽の門」(青磁社)、2022年エッセイ集「俳句と人間」(岩波新書)を発表。

 「ふじさわびと」26号(2023年1月発行)にも記事を掲載しています。


https://www.pref.kanagawa.jp/documents/103737/2023shiryou_1.pdf【神奈川文化賞 長谷川は せ が わ櫂かい(69 歳)●文学●現代の俳句の振興と普及に尽力】より

中学時代、国語教師との出会いに恵まれ、古典や俳句に親しんだ。大学時代はホトトギス会、学生俳句会に所属、のちに俳人・飴山實を師とした。読売新聞社に入社し、記者生活の傍ら俳人としても活動。1985 年に第一句集『古志』で注目され、1990 年に俳論集『俳句の宇宙』でサントリー学芸賞を受賞。1993 年、俳句結社「古志」を主宰。2000 年に読売新聞社を退社し専業俳人となり、朝日俳壇の選者に就任した。2003年『虚空』で読売文学賞を受賞。2011 年の東日本大震災の折には『震災歌集』『震災句集』を緊急出版し、現在まで数多くの句集や俳句の評論、エッセイを発表し、現代の俳壇をリードしている。

2008 年に日本人が長年育んできた季語と歳時記の世界を探究する場として「季語と歳時記の会」を設立し、現在まで代表を務めている。自身が運営するウェブサイト「俳句的生活」ではネット俳句を主宰、『一億人の俳句入門』など、数多くの俳句入門書も手掛け、俳句の振興と普及に尽くしている。

2011 年から公益財団法人神奈川文学振興会副理事長をつとめ、神奈川県立神奈川近代文学館の事業に深く関わるほか、毎年開催される「かなぶん連句会」の選者も務

めている。[藤沢市在住]

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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