根本を貫くものは「風雅の誠」

Facebook相田 公弘さん投稿記事

お釈迦様は、この世の苦しみ・悲しみの根元は、「思いどおりにならないこと」

と悟りました。自分の思いどおりにならないことに対して、それに逆らってなんとかしようとするからこそ、人は悩み・苦しむのです。

人の苦しみや悲しみは、外から与えられるものではありません。苦しい・悲しいと思う心、

つまり、人の内(心)から苦しみや悲しみが発生しているのです。

だから、お釈迦様は、こうおっしゃっています。「すべて、受け入れなさい」と。

それは、頑張る生き方ではなく、楽に生きる生き方です。

人に頼って、人に甘えて、あるいは人に頼られて、時には人から甘えられて。自分の思いどおりに世の中を変えようとしないで、それを受け入れて、こころを楽にして生きてゆくこと。

そして、その最高の形は、「ありがとう」と感謝することだったのです。

水を飲めることに「ありがとう」息ができることに「ありがとう」食事できることに「ありがとう」仕事があることに「ありがとう」家族がいることに「ありがとう」友達がいることに「ありがとう」話ができることに「ありがとう」歩けることに「ありがとう」病気でないことに「ありがとう」生きていることに「ありがとう」

 ・◇・◇・◇・

世の中なんて思い通りにならない事ばかりですよね。

そして、それに対してどうにかしようと苦しみ、さらにもがいて負のスパイラルに陥っていく・・・

そんな経験ないですか?でも、逆らうのではなくあるがまま全てを受け入れることができた時、悩み、苦しみから解放されるのですね。それがなかなか難しいのですが、

自分がどんな環境にいても全ての事に感謝する気持ちを忘れずに「ありがとう」と言えるようになれれば、もっと人生の歯車はうまく回っていくのかもしれません。

※いい言葉は人生を変えるより


https://ooikomon.blogspot.com/2019/10/blog-post_25.html 【鍵和田秞子「日なたから木々は痩せゆく黄落期」(『火は禱り』])・・】より

 鍵和田秞子第10句集『火は禱り』(角川書店)、著者「あとがき」に、

 戦中、防空壕で読んだ『方丈記』が私の心に無常観を育てた。やがて西行から芭蕉、さらに近現代俳句へと流れる文芸の本質を考えるにつれて、根本を貫くものは「風雅の誠」であることに思い至った。

 草田男先生は、文芸の「絶対」を生涯かけて求め続けた。私はとても先生のようにはいかないが、俳諧の真実を大事にして一筋の「風雅の誠」の道を歩み続けたいと思う。老いの身にとって、まことに心許ない歩みであるが、俳句の新しみを探り、文芸の世界の無限の天空を見つめてゆきたい。

 とある。集名に因む句は、 

  火は禱り阿蘇の末黒野はるけしや    秞子

 である。鍵和田秞子はかつて大磯の鴫立庵の庵主だった。愚生が月刊「俳句界」のグラビア撮影で、そちらに伺ったおり、「髙柳(重信)さんには、『俳句研究』に随分書かせていただいたのよ」と仰っていた。また、確か、成蹊大学の構内に草田男の句碑が建立された折りもお邪魔させていただいた。現在、愚生がシルバーの委託仕事で働いている府中市中央文化センターでは、「未来図」の句会も開かれているが、今は句会指導には来られていないとのことだった。本復を祈っている。ともあれ、以下に、いくつかの句を挙げておきたい。

  西行忌歩けぬ木々は葉を鳴らす   藤揺れてみ空に汚れなかりけり

   大淀三千風は鴫立庵第一世庵主

  三千風の避寒の庵や磯晴るる    梟も老いたり鬼を追ふ日なり

   楸邨に「鰯雲人に告ぐべきことならず」あり  鰯雲なかば崩れて何を告ぐ

   回想

  敗戦の焼け跡の野も灼けてゐし    月光の瓦礫の景は胸に納む

  どんど立ち太平洋は紺を張り     開戦日雲なき空をふと恐る

    虚子の「帚木に影といふものありにけり」に和し

  帚木にたましひの紅ありにけり  いのちとは水を欲るもの原爆忌

 鍵和田秞子(かぎわだ・ゆうこ) 昭和7年、神奈川県生まれ。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12519696961.html 【松尾芭蕉 行脚掟(あんぎゃのおきて)】より

たび寝して我句をしれや秋の風  松尾芭蕉(たびねして わがくをしれや あきのかぜ)

芭蕉については、これまでいろいろ勉強してきたつもりだが、まだ知らないことは多い。

芭蕉には「行脚掟」(あんぎゃのおきて)というものがあることを、つい最近知った。

「行脚」とは「旅」と考えていい。弟子たちに「旅の心得」を述べたものらしい。

どこに出典があるのかわからないし、どういう内容なのかもわからない。ネットで、その断片を見つけた。

・一宿なすとも故なきに再宿すべからず、樹下石上に臥すとも、あたためるむしろと思うべし。

・腰に寸鉄たりとも帯すべからず、凡てのものの命をとることなかれ。

・衣類器財相応にすべし、すぎたるはよからず、足らざるもしかず、ほどあるべし。

・主あるものは、一枝一草たりとも取るべからず、山川江沢にも主あり、つとめよや。

・山川旧跡親しく尋ね入るべし、特に私の名をつくることなかれ。

・船代茶代を忘するべからず。

・夕を思い旦を思うべし。

―日本ボーイスカウト山口県連盟HPよりー

これをわかりやすく直してみたい。

・理由もなく同じところに、安易に連泊してはいけない。

 森や路傍など、たとえどんなところで夜を明かしても、暖かな莚に寝ていると思いなさい。

・短刀なども持ち歩いてはいけない。あらゆる命を奪ってはいけない。

・服や道具の用意は分相応にしなさい。

 多すぎてもよくない、少ないのもよくない、ほどほどにしなさい。

・所有者がある草木は一枝も、一房も取ってはいけない。

 山や川、渓谷にも所有者がいるので注意しなさい。

・山や川、名所には親しみをもって分け入りなさい。自分勝手にふるまってはいけない。

・乗船代、お茶代をケチってはいけない。

・夕ぐれになった場合のことを考え、明朝の予定をしっかり考えなさい。

これは「原文」から私が推察したもので、細かいニュアンスは間違っているかもしれない。

しかし、まあ、大筋はこういうことではないか。

一番気になるのは、一宿なすとも故なきに再宿すべからずつまり「連泊」を戒めている。

それは何故だろう。常に旅を進めろ、滞らせるな…、という意味であろうか。

今後もこの「掟」を調べ、考えてゆきたい。


https://researchmap.jp/read0059827/published_papers/15717232 【「津軽」と松尾芭蕉「行脚掟」、橘南谿「東遊記」】より

太宰治研究

本論では、太宰治『津軽』に認められる、「行脚掟」と『東遊記』との関わり方を論じた。まず、「行脚掟」については、大正中期以降の研究動向において主流となった「偽書説」の動向とは異なり、このテキストから芭蕉の意図を読み取り、その上でそれに批判的に関与する傾向が認められた。更に『東遊記』については、そこに認められる本州北端の地の表象をふまえつつも、それとは異なる現在の津軽地方の姿を効果的に強調する指向を確認した。そのような古典文学テキストへの関わり方は、古典に対する他者性を保持する点で、当時の日本浪曼派における古典受容と比較して、独自な価値をもつ。


https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-269 【『行脚の掟』に記された大淀三千風が遺した格言(俳人)[今週の防災格言163]】より

『 不借身命ふじゃくしんみょうの境界、無常迅速むじょうじんそく、夢幻泡影むげんほうよう、忘れまじき事 』

大淀三千風(1639〜1707 / 江戸前期の俳人 生涯を旅に明け暮れた)

不借身命(ふじゃくしんみょう)は、正方のため命を惜しまず尽くすこと。

無常迅速(むじょうじんそく)は、人の世の移り変わりが非常に速いこと。

夢幻泡影(むげんほうよう)は、人生がはかないことの例え。

この格言は『行脚の掟』より。

北は岩手・秋田から西は熊本・長崎まで諸国遍歴の旅に出て、多くの句文を残した「行脚俳人」として知られる大淀三千風(おおよど みちかぜ)。本名を三井友翰(ともふみ)と言い、伊勢国射和(現・三重県松阪市射和町)の商家に生まれ、十代の頃、京都の島原で俳句を学び、30歳を過ぎてから俳諧師となり、日本三景の松島見物に出かけ、そのまま仙台に住みつく。仙台松島を題材に全国の俳人から句や歌を募って 『松島眺望集(1682年)』を出版。この時の人脈を頼り、日本行脚に出かけ以降7年間に3800余里(約15,200km)を巡行した。

三千風の影響から松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは、三千風が出発してから6年後のことであったという。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12684374268.html 【「おくのほそ道」をいろいろ考える~芭蕉と大淀三千風】より

けふぞはや見ぬ世の旅の更衣  大淀三千風(きょうぞはや みぬよのたびの ころもがえ)

大淀三千風(おおよど・みちかぜ)のことは神奈川県大磯町の「鴫立庵」に行った時、初めて知った。こまかいことは省くが、江戸期、この俳諧道場を建てたのが三千風だった。

その後、「俳諧大矢数」(一日でどれだけ多くの句を詠めるか競う俳諧興行)で「3000句」詠んだことを知った。「三千風」という俳号は、その3000句に由来する。

元禄2年(1689)、松尾芭蕉が「おくのほそ道」で宮城県仙台市を訪れた目的の一つに三千風と会う、というのがあったらしい。

が…、三千風は不在で、三千風の弟子・加右衛門と仙台を巡った。

三千風は寛永16年(1639)の生まれ、寛永21年(1644)生まれの芭蕉とは5歳上の先輩になる。調べてみると、この「三千風」…、さまざまな部分で芭蕉の生涯とダブる。

特に「旅」という点において、三千風は芭蕉の半歩先を歩いているように思える。

大淀三千風(おおよど・みちかぜ)寛永16年~宝永4年。江戸時代の俳諧師。本名・三井友翰。1639年 伊勢国飯野郡射和村(現・三重県松阪市)に生まれる。蓮生寺の祐順法印について学び、15歳春から俳諧に親しむ。俳人を志すが、両親が亡くなったため、家業に従事。1669年 (現・宮城県)松島に赴いた後、仙台に15年間居住。1679年 俳諧大矢数に挑戦、独吟3000句を成功。井原西鶴に託され『仙台大矢数』として刊行される。これ以降「三千風」と名乗る。1682年 松島に関する詩歌を集め『松島眺望集』を刊行。

1683年 7年間に及ぶ全国行脚へ出発。

1690年 元禄3年夏、旅中の句文を『日本行脚文集』を編む。

1693年 (現・神奈川県)大磯に鴫立庵を結び、西行五百回忌にあわせて、西行堂の建立や謡曲『鴫立沢』を刊行。1698年 鴫にちなんだ詩歌俳集『和漢田鳥集』を刊行。

1707年1月8日 射和村にて没。

仙台市の先に「おくのほそ道」というかぼそい街道があるが、「おくのほそ道」と命名したのは三千風だ。三千風が命名した道路名を、芭蕉は紀行文のタイトルとした。

芭蕉は「おくのほそ道」で、「松島」に凄まじい憧憬を持っているが、三千風は、芭蕉に先んじ1669年に松島に趣き、その後、仙台に15年間住み続けている。

芭蕉が松島を訪れたのは元禄2年(1689)…、20年後である。

「みちのく」への憧憬は、いにしえの詩歌人すべてが持っていたが、これも三千風が先んじている。三千風は『松島眺望集』という詩歌集まで編纂している。

「松島」への執着も三千風が勝さっている。漂泊の旅も三千風が先輩である。

1683年、三千風は7年間に及ぶ全国行脚に出ている。

芭蕉が「おくのほそ道」で訪れたところはほとんど三千風が歩いたところであり、北は岩手・秋田、南は熊本・長崎まで歩き、途中、富士山、白山、立山にも登っている。

芭蕉が仙台を訪れた時、三千風はその諸国行脚の途中で江戸におり、翌年、『日本行脚文集』を編んでいる。

「おくのほそ道」と同じ紀行文であり、『日本行脚文集』は約13,800字、『おくのほそ道』は7,344字である。量も刊行の早さも三千風が勝さっている。芭蕉は三千風をどう意識していたのか、気になる所だ。掲句は三千風旅立ちの一句。今日という日がやってきた。

未知の地、いや、これはあの世への旅かもしれないが、さあ夏衣に着替えて旅立とう。

というもの。

  

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