Facebookイーハトーブ心身統合研究所投稿記事
探求の旅で急激な意識の変容が起きると16世紀のキリスト教神秘家十字架の聖ヨハネが語った「魂の暗夜」とよばれる魂の危機を経験します。
この危機の「機」は機会(チャンス)の機でもあります。この危機を通過することにより新しい意識の次元が現れます。
しかし、今までの人生で困難で受け入れがたい経験、恋愛の破綻、親しい人との死別などの人間関係の喪失、経済の破産、計画の失敗、挫折などを受け止めずに避けてきた人は欲圧されたエネルギーが蓄積されているので、「魂の暗夜」の最中に再浮上してくるのです。
この探求の旅のプロセスは次のようになります。
1.セパレーション
今まで身につけていた偽りの自我がまわりの環境と合わなくなり葛藤が強くなって自我がゆらぎます。いままでに築き上げてきた物質的なもの、人生に価値があると思っていたもの、すべてが意味を失っていきます。
今までの古い自我を脱ぎ捨てることが起きます
2.イニシエーション
古い自我の境界を超える時にしまい込まれた過去の辛い記憶や否定的な情動と出会います。
シャーマンは地下世界へ旅たち、すさまじい拷問や試練を課す悪魔たちの攻撃を受ける経験をします。古事記のオオナムチは根の国へ行って苦しい困難な試練を受けます。
その葛藤をあるがままに受け入れることで未知の経験をします。自我の境界が溶けだし、通常の時間と空間の感覚を消失します。
超自然的なサトルの領域に入り、光と闇、善と悪、賞賛と嘲罵の相克の中で世界の創造と破壊のヴィジョンが現れます。
3.リターン
混乱の時期を過ぎると神と溶け合う経験をします。神と融合した「聖なる結婚」に至ります。
この経験は見る事も理解することも表現出来ないので6世紀の聖ディオニシウスは「神の暗闇」といいました。
十字架のヨハネは暗闇について魂はそれを識別することも命名することも出来ない。それを理解する事も説明する事、知らせる事も出来ない、語り得るような概念を形成することも出来ないと言っています。
マインドが停止したとき神と出会うのです。見る事も理解することも出来ない神との合一をどうやって理解するのかという問いに聖テレジアは「神のみが与えることが出来る心のうちに残された確信によって」と答えます。
偽りの自分から、ゆるぎない本当の自分に戻ります。
永遠の命と至福という宝物を手に入れるのです。
新しい自我を得て故郷(日常世界)に帰還します。古事記の英雄神話でオオナムチは試練を乗り越えスセリ姫と結婚をして人間界に戻り中つ国の王となります。
探求の旅は驚きと至福と美しさに満ちています。それと同時に困難と危険な旅でもあります。恐怖と悲しみと不安、深淵な虚無の暗黒が待ち受けています。探求の旅では目の前に繰り広げられる冒険に魅了される自我から影響されない自覚が要求されます。
日常の覚醒意識(グロス・粗大)、夢を見ている状態(サトル・微細)、熟睡状態(コーザル・原因)、この3つの意識状態を通してどの段階にも影響されないのが観照者(プルシャ・アートマン)です。
夢を見ている(サトル・微細)段階では日常の覚醒意識はありません。眠っていて夢の中で起きる印象に巻き込まれたままです。観照者が目覚めていると眠っていても覚醒夢を見る事が出来ます。
熟睡状態では日常の覚醒意識は眠っているのでわかりません。熟睡状態(コーザル・原因)は無限の空間、空間を持たない空間、永遠の時間、時間がない時間、はてしない沈黙、今ここだけがあります。マインドは眠っているので精神的な喜びや至福を感じる事はありません。この沈黙をキリスト教神秘主義では暗闇と表現したのです。観照者が目覚めていなければコーザル(原因)の状態を知る事はできません。
観照者は3つの意識状態のどの段階にも存在しています。ですから瞑想の訓練をつんでいない人でも観照者を直感的に把握することは誰でもできるでしょう。自分が存在していることを知るのに時間は要らないのです。誰でも即座に知る事が出来るのです。本当は秘密などなく常にオープンにされていて隠されてはいないのです。
自分で目隠ししているだけなので自分で気がつけばそれはいまここにいつもあります。
偽りの自我が消えるとたちまち光に照らされた朝もやのように罪と悲しみは百合たちの間にかすんでいくのです。(百合はキリスト教で神への深い信頼、純粋さを象徴します)
The Dark Night of the Soul 魂の暗い夜 by Saint John of the Cross 十字架の聖ヨハネ
song by Loreena McKennitt from The Mast and Mirror 訳 清水友邦
Upon a dark night ある暗い夜
The flame of love was burning in my breast. 愛の炎が私の胸で燃えていた。
And by a lantern bright その燃える灯火をたよりに
I fled my house while all in quiet rest. 皆が寝静まっているあいだにわたしは家を出た
Shrouded by the night 夜の闇に包まれて
And by the secret star I quickly fled 隠された秘密の階段を使って素早く家を出た。
The veil concealed my eye 秘密のヴェールに眼が隠されて
While all within lay quiet as the dead. 死者のように静かに寝ているあいだに。
Oh night thou was my guide. おお、汝は私の導き、
Oh night more loving than the rising sun. おお、暁の太陽よりも麗しい夜よ、
Oh night that joined the lover おお、私たちを結びし夜よ
To the beloved one 愛する者と愛される者を一つに
Transforming each of them into the other. どちらも変えてしまった夜よ。
Upon that misty night あの霧の夜、
In secrecy, beyond such mortal sight 秘密のうちに、誰にも気づかれることもなく
Without a guide or light 導きの光はただひとつ
Than that which burned so deeply in my heart. わたしの心の奥深くに燃える炎のみ
That fire, ‘twas led me on その炎がわたしを導く
And shone more bright than of the middy sun 真昼の太陽の輝きのように
To where he waited still 愛する人が待っている所へ
It was a place where no one else could come. 誰も来ることが出来ない秘密の隠れ家へ
Within my pounding heart 激しく高鳴るわたしのハートは
Which kept itself entirely for him いとしい人のためだけのもの
He fell into his sleep 杉木立の下で眠るその人に
Beneath the cedars all my love I gave. わたしは愛のすべてを捧げた
From o’er the fortress walls 砦の向こうから吹いてくる風が
The wind would brush his hair against his brow 愛する人の髪をとかし
And with its smoothest hand 滑らかなその手が
Caressed my every sense it would allow すべてを抱きしめた
I lost myself to him わたしはいなかった
And laid my face upon my lover’s breast いとしい人の胸に顔を寄せると
And care and grief grew dim 罪と悲しみはかすんでいった
As in the morning’s mist became the light. 光に照らされた朝もやのように
There they dimmed amongst the lilies fair 百合たちの間にかすんでいった
There they dimmed amongst the lilies fair 百合たちの間にかすんでいった
There they dimmed amongst the lilies fair 百合たちの間にかすんでいった
下をクリックすると魂の暗い夜の歌が流れます。聴きながらどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=MclLF473XtA
Facebook杉山 浩司さん投稿記事
「梵我一如」は、インドの6派正統哲学の1つ、ヴェーダーンタ学派の最もコアとなる思想である。梵我一如の「梵」すなわちブラフマンは、宇宙の根本原理で、インドでは、この宇宙にあるあらゆるものはブラフマンから生まれたと考えられている。「我」すなわちアートマンは、自分自身、個の根源である。人の身体や心の働きではなく、もっと根本となる意識体、真の自己である。つまり、梵我一如とは、宇宙の本質と自己の本質は同一であると言うことである。
https://blog.goo.ne.jp/dahnyoga/e/83c4ddcc42d915f6087d81c4047422cb【天符経】より
こんにちわいつも訪問ありがとうございます㈱ダンワールドブレインダンヨガです。
今日は丹学修練を基に作られているプログラムを使っているダンヨガスタジオでよく使われている『天符経』を皆さんと分かち合いたいと思います。
韓国の丹学修練には天符経は、とっても重要になってくるのですが、天符経というのは、
1万年くらい前に書かれたといわれている、81文字からなる経典で、北朝鮮と中国の国境にある白頭山というところに、原文が刻まれた石碑があるといわれています。
天符経は、すべての源であるといわれ、衝突もせず、他を排除もせず、互いに調和し、包み抱え、すべてが再び帰っていく目的なのです。
天符経
一 始 無 始 イル シ ム シ
一 析 三 極 無 盡 本 イル ソック サム グック ム ジン ボン
天 一 一 地 一 二 人 一 三 チョン イル イル ジ イル イー イン イル サム
一 積 十 鉅 無 匱 化 三 イル チョック シップ ゴム グェ ファ サム
天 二 三 地 二 三 チョン イ サム ジ イ サム
人 二 三 大 三 合 イン イ サム デ サム ハップ
六 生 七 八 九 運 ユック セン チル パル グ ウン
三 四 成 環 五 七 一 サム サー ソン ファン オ チル イル
妙 衍 萬 往 萬 來 ミョ ヨン マン ワン マン レ
用 變 不 動 本 ヨン ビョン ブ ドン ボン
本 心 本 太 陽 明 ボン シン ボン テ ヤン アン ミョン
人 中 天 地 一 イン ジュン チョン ジ イル
一 終 無 終 一 イル ジョン ム ジョン イル
<解釈>
すべてのものはひとつから始まるが、そのひとつは無いひとつである。
一つが分かれて三つになるがその尽きることがない根本はそのままだ。
三つの中で天が一番目に現れた一つであり、地が二番目で、人が三番目に出された一つである。一つが集まり十(完成)になり、宇宙の基盤が整えられると全部で三つに分けられる。
空の星も、太陽も天の中のひとつであり、天に含まれるように、この世のすべてのものは、天に属するもの、地に属するもの、天と地の闇に属するもの、この3つに分けられるのだ。
天・地・人はそれぞれ別の三極のようで、実は天の中に地と人があり、地の中にもすべて含まれており、人の中にもすべてが含まれている。
六という数字の意味は目に見える現象の世界を示し、数の気運を示している。
天符経の中に、成・運・動の文字があるが、すべてが動的な動きを意味している。
ここに、万物のエネルギーの法則が描かれている。
この六生七八九運を経て人も地もまた、新しい生命を誕生させ、進化していく。
万物の法則は、もとに還る。九運のあと、空(くう)すなわち0(ゼロ)になる。
ここまでが宇宙の生成のルールを示している。三四成環五七一とは、人体を中心にして語られている。体には内丹田3つ(下丹田・中丹田・上丹田)があり、外丹田4つ(掌心・湧泉)がある。この三四がすべて天地気運と交流することができれば、五(土)・七(火)・一(水)が成り立つ。これはすなわち水昇火降である。
万物がこのような秩序の中で玄妙に行き来して、様々な模様を織り成すが、その本質においては変化がない。
本来の心は、太陽と同じように、ただひたすら輝き、光を願う。この明るい心を取り戻すために、人は自然と調和し水昇火降が為されなければならない。
このとき、まさに宇宙と人が一体となる。人の中に天と地がひとつになり、溶け込み、三つが一体を成す。これが即ち、宇我一体、宇宙合体、神人合一の境地であり、まさに宇宙とひとつになった状態である、
始まりも終わりも無い、これがすべてのエネルギーの循環である。
https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/RUV7TOJ33285B?ASIN=4314005181 【神との合一から、さらにその先へ】カスタマーレビュー
YRTS
キリスト教信者が神秘主義の極限的境地にまで至った記録として、大変面白い一冊。
ウパニシャッド、密教、禅、新プラトン主義、イスラム神秘主義、正教のヘシュカスム・・・
これらに関心のある人ならば、まず間違いなく興味をもって本書を読み進められるはずだ。
作者は、アメリカ人専業主婦(出版時の1982年時点でおそらく50歳前後、子供もいる)。
とはいっても、一般の市民というには、あまりに宗教的過ぎる人かもしれない。
10歳頃にいわゆる「神に頬を撫でられた」的な経験をしてから何度か同様のことがあり、
15歳頃から熱心に修道院に通って瞑想し、神学やギリシャ哲学を独学し続けた人である。
本書執筆の20年ほど前には、すでに「神との合一」体験をして著書を出しているようであり、本書はその第一段階のさらに先である、第二段階の体験についての記録と解説となっている。
第一段階「神との合一」は、いわゆる祝福、愛、歓喜、などの言葉に彩られたものであり、
万物の中に流れる神の愛をはっきり見て、卑小な己を放棄し神に総てを預けた状態とのこと。
第二段階は、放棄するべき自己(自意識、情念、意思)すら消失し、それと並行して、
身を委ねる対象としての神も消滅し、主客を超越した「一なること(訳前はOnenessか?)」
だけが残ってしまった世界、とのことだ。
彼女が不意に突入したこの第二段階の状態は、カトリックを含む西方教会においては、
まず教義に則らないものであり、ゆえに言及した書物もないことから、彼女は道中で困惑する。かろうじて、自己消失は十字架の聖ヨハネに、神の消滅はエックハルトの著作にその痕跡を見出す。
別途、インド哲学や禅を参照したものの、自らがその体系への理解を欠いているため、
十全には把握できなかったことから、腑に落ちるという状態にはならなかったようである。
だが、彼女は本書の解説部では次のような概要の提言もしている。
(※諸宗教の協力もだが、方法論として「神との合一」が役に立つ、という箇所を面白く感じた。)
第二段階(=梵我一如と同様と思われる境地へ至る道)を、無事潜り抜けるための方法論として、「神との合一」から始めれば、自己が消失しても神の中に失われるだけなので、恐怖がなくて済む。
その後、自己が神の沈黙(消滅)とともに永遠に消失する、すなわち仏教でいう無我に入り、
そこで自己と自己に伴う一切のもの無しに、万物と本質的に一つになって生きることを学び、
最後にヒンズー教の頂点をなすもの、自己が無くなったあとに残る唯一の「存在」そのもの、
すなわち「それ」に達するのです・・・・
0コメント