Facebook相田 公弘さん投稿記事
【深く掘った井戸の底からは昼でも星が見える】
筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…
私たちはこれまで目に見えるものに重きを置く唯物的な価値観に支配されすぎてきたのではないでしょうか。
給料が上がったとか、今年の売り上げは去年より伸びたとか、成績がよくなったなど、数字であらわしたり、数量で測れるものを大事に思い、そこに価値を見いだしてきました。
返す刀で、目に見えないものは価値が低い、取るに足りないものだと片づけてきました。
昼の星は目には見えません。だから、昼の空に星は存在しない。そんなふうに考えてきたのです。でも見えないだけで、昼にも星は輝いているのです。
医学の世界でも、目に見える患部だけを治療することが医学の役目だと考えられて、目に見えない患者の心は体の病気とは無関係なものとされてきました。
しかし、気の持ちよう、心のありようで病気がよくなったり悪くなったりするのは動かしがたい「科学的事実」となっています。
なぜ、近代的知性というものは目に見えるものだけを信じて、目に見えないものを非科学的としてきたのか。
それは、人間がかしこくなりすぎたからだと思います。
知識や情報ばかりが増えて頭でっかちになった結果、かしこく、利口にはなったが、死に思いをはせたり、命のつつしみを考えたりする生命本来の深い思考が不足してしまったのです。
ですから、唯物的な思考をする人ほど「昼に星は存在しない」という“正しくて浅い思考”しかない傾向が強い。
一方、深く掘った井戸の底からは昼でも星が見えるといいますが、それが科学的に事実かどうかは別にして、ものごとをそのように深くとらえられる人のほうがその思考も、その命も深いものだと私には思えます。
とくに日本人は長く、森や木や草や川や海などのすべての自然に魂や霊が宿ると考えてきました。
そのため海で魚を捕るときも山で猟をするときも神に祈ったり、小さな祠(ほこら)や神社をつくって、自分たちを生かしてくれる自然や生命への畏敬や感謝の念をあらわしてきました。
その自然を敬い、命を尊ぶ心と営みはとても深いものです。
しかし、近代的知性はそれを古くさく愚かな迷信だなどとバカにしてきました。
そうして人知の及ばないものにたいする畏敬の念や謙虚な思いを忘れたときから、私たちは目に見えないものを軽視し、目に見えるものを偏重しはじめたのです。
それはかしこさや利口のはじまりだったのでしょうが、しかし節度や調和といった生命思考の視点に立ってみれば、ほんとうは人間のおごりや思い上がりという「愚かさ」の始まりだったのかもしれないのです。
『アホは神の望み』サンマーク出版
村上和雄先生は、本書の中でこう語る。
『私はアホを自認していますから、科学者でありながら、目に見えないものの存在も信じていますし、「増えすぎない」「生きすぎない」という生命のつつしみも信じています。
また、そのつつしみを生命に備えさせた、「何か大きなものの存在」やその意思の実在もたしかなものだと考えています。
人知を超える何か大きなものの存在…それを私はサムシング・グレートと呼んでいます』
元春日大社権宮司の岡本彰夫氏はこう語る。
『目に見えないものは存在しない。
はたして本当にそういい切れるのでしょうか?
電波や音波は、見えないけれど存在します。
だから目に見えない世界が「ない」とは断言できないわけです。
「瑞気(ずいき)」とは「めでたい気」「新鮮で、かつ美しい気」という意味ですが、昔の人は、この「瑞気」をいかに家や体に取り込むかに苦心したものです。
たとえば神棚に飾る榊(さかき)の枝は、毎月1日と15日に取り替えます。
榊は「栄える樹」で「サカキ」。
つまり、榊の持っている、常に栄え続ける瑞々(みずみず)しい気を家の中に取り込むために飾る。
また、家を建てるときは、地鎮祭をして祝い、上棟祭をして祝い、落成してまた祝います。
そしてその都度、大工さんにはお酒やご祝儀をさしあげます。
ところが最近は、建築の契約金の中にすべて含まれているという理由で、「ご祝儀なんて無駄なことだ」と考える人が増えているようです。
昔の人は、なぜ、無駄と思えるようなことをしたのでしょう。
それは人を悦(よろこ)ばせるためなのです。
つまり、地鎮祭や上棟祭にお酒やご祝儀を出して、宴をし、大工さんや職人さんに悦んでもらう。その悦びの歌声や笑い声が「瑞気」を呼びます。
その瑞気を新しい家に取り込むと、そこに住む人は幸せになれます。
こんなふうに、昔の人は常に物事を活性化することを考えていたのです。
「瑞気」を呼ぶと家が栄えます。
来客が多い家は栄えるといいますが、人々で賑わい、談笑が絶えないと活気が家に充満し、繁栄をもたらすのです。
家だけではありません。人もそうです。
陰気な人では瑞気は呼べません。
何事にも前向きで陽気な人には瑞気も集まってきます。
笑うことが大切で、神様もよくお咲(わら)いになることが『古事記』にも書かれています』(神さまにほめられる生き方/幻冬舎)より
現代人は、頭で考えすぎるようになった。
理屈や科学で説明できないことを否定してしまう。
目には見えないが大切なものは、この世にはたくさんある。
「深く掘った井戸の底からは昼でも星が見える」
《心で見なくっちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ》(星の王子さま)より
目には見えないが、かんじんなことを大切にする人でありたい。
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https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3912000.html 【深い井戸の底だと昼間でも星が見える? - 教えて!goo】より
深い井戸の底だと昼間でも星が見える?
質問者:1-ichiko質問日時:2008/04/01 01:57回答数:6件
カテ違いでしたらすいません!
先日読んだ本の中で【深い井戸の底だと昼間でも星が見える】というのがありました。
もちろんそんなはずはないでしょうがどうしてそんな事が言われるようになったのか?
いや、実はこういう理由で本当に見えるんだよこう考えられていたから見えると思われていたんだなど、本当にどんな些細なことでもよろしいので【深い井戸の底だと昼間でも星が見える】ことについて教えて下さい!よろしくお願いします
こんにちは。
これは事実です。
もちろんその先に星がある事が前提ですけど。
随分昔ですが、天文ガイドという雑誌で、天体望遠鏡の代わりにカメラに紙の筒をつけた物を使って、昼間のこと座アルファ星ベガの写真を撮った人がいますし、廃工場の廃棄される煙突を使って、時間帯で上空を通る星の位置を計算し、子供たちを集めて煙突の下(つまりボイラーの中?)から子供たちに星を見せる実習をどっかの先生がやったのをテレビで放映してました。
テレビカメラでは、はっきり時間とともに動いていく星が見えてましたし、子供たちは歓声を上げてました。
見える理屈は、大気中にある細かい粒、(雲なども含めて)によって太陽の光が乱反射されて、その光に星の光が負けてしまって見えなくなるのですが、斜め方向から入ってくる散乱光を筒や煙突、井戸などで遮断する事により、十分星の光が対抗できる明るさになる、というわけです。
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