https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20150607 【高原の空は一壁水すまし】より
平畑静塔
昭和46年上梓の『栃木集』所収です。各地を吟行した句集で、掲句は長野で作られました。「空は一壁」から雲はなく、広く晴れ渡った無風状態を想像します。また、「一壁」は「一碧」に通じて、空は濃い紺碧色のようです。今日の空は完璧だ、という思いもありそうです。作者の視線は、空から一転して池に目を落とします。無風の水面は、紺碧の空を映して鏡のようです。そんな、絶好の舞台に登場する一匹の水すましは、六本の細い脚がわずかに水紋を描き、明鏡止水の水面に波紋をもたらします。しかし、その崩れも束の間で、やがて一壁の空を映す水面は、完全な平面に戻ります。静中動在り。鍼ほどにか細い脚が、一瞬水面の天を動かす面白さ。なお、作者は和歌山出身なので、「水すまし」は甲虫のそれではなく、「あめんぼ」の別名として読みました。(小笠原高志)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%95%91%E9%9D%99%E5%A1%94 【平畑静塔】より
平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。
経歴
本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校[1]を経て、1931年に京都帝国大学医学部[2]を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士[3]。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、守口市京阪病院院長、布施市(現・東大阪市)阪本病院院長を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。
俳句は1925年、大学時代に「京鹿子」、ついで「馬酔木」「ホトトギス」に投句。1933年、井上白文地らと共に「京大俳句」を創刊、1935年には西東三鬼らを同誌に迎え、新興俳句運動の中心的存在として活動。1940年、新興俳句弾圧事件に連座し、懲役二年執行猶予三年の判決を受けた。戦後は西東三鬼、橋本多佳子らと句会、1948年に彼らとともに山口誓子を中心として「天狼」創刊に参加、編集に携わる。1951年、カトリックに入信。同年発表した「俳人格」説(『馬酔木』1951年4月号)では、俳句性の確立には俳人自身の俳句的な人格の発展と完成が必要と説き注目を集める。のちには俳人格の典型を高浜虚子に見るなど論を展開。他にも「天狼」の根元俳句論、季題論など各種の評論でも存在感を示した。
1971年、句集『壺国』ほかで第5回蛇笏賞、1986年、句集『矢素』で第1回詩歌文学館賞、1995年、第7回現代俳句大賞受賞。代表句は自身の「根源俳句」として挙げた「藁塚に一つの強き棒挿さる」(『月下の俘虜』)のほか、「胡桃割る聖書の万の字をとざし」(同)、「壺の国信濃を霧のあふれ出づ」(『壺国』)、「座る余地まだ涅槃図の中にあり」(『漁歌』)、「身半分かまくらに入れ今晩は」(『矢素』)など。句風は男性的・骨太と評されたが、後年は滋味とユーモアが加わり、伝統行事や生活・風土に素材をひろげ大らかな句風となった。
孫に医師の平畑光一[4]。
著書
https://www.sankei.com/article/20190418-XC4NRYRSPRL3ZA5SDWKBKIMJDE/ 【美しき人 橋本多佳子(上)美貌の俳人 男の道を歩く】より
久女は今は高く評価される俳人だが、生前は俳句へのあふれる情熱が周囲と齟齬(そご)をきたし、師の虚子にも疎まれて悲運の人生を終えた人だ。久女は多佳子の才能を認め、時間を忘れて指導しようとするが、多佳子にとっては習い事の範囲、夫が帰宅しても居座る久女に困惑する。
田辺聖子は久女の評伝小説「花衣ぬぐやまつわる…」でこの2人を注意深く対比させている。2人とも美貌の女人だった。自意識が高く不器用な久女は、男との付き合いもすぐに噂話にされた。一方の多佳子は「生来の順応力と洞察力で生活自衛的に周囲(とくに夫)の顔色を読み、敵を作らなかった」と。
多佳子は久女に俳句の恐るべきこと、格調の高さを教え込まれたと述べている。
昭和4(1929)年、多佳子は新しい出会いを得る。一家は夫の父の死に伴い大阪に帰り帝塚山に住んだが、折しもホトトギスの400号記念大会が大阪で開かれ、そこで久女に山口誓子を紹介されるのだ。
誓子は多佳子より2つ年下、新興俳句の旗手として注目の俳人だった。かねて誓子の作風にひかれていた多佳子はその後、誓子の指導を受けることになり、生涯の師とし、本格的に俳句にのめり込んでいく。
昭和16年、初めての句集「海燕(うみつばめ)」が刊行された。
「若布(め)は長けて海女ゆく底ひ冥(くら)かりき」
「月光にいのち死にゆくひとと寝る」
後の句は38歳で夫を看取ったときのもの。硬質でクリスタルのような輝き。
「女流作家には二つの道がある。女の道と男の道。橋本多佳子さんは、男の道を歩く稀な女流作家の一人である」
誓子は句集の序文にそう書いた。今も昔もちょっと刺激的な言葉ではある。
42歳で出したこの第一句集はしかし、「女誓子」と酷評され評判が悪かった。時代は戦争へとつき進む。多佳子はここから大きく飛躍していくのだ。 =続く
https://www.sankei.com/article/20190501-OVHTEURTAROXZBREC273SW3JTY/ 【美しき人 橋本多佳子(下)いのち の きらめき 十七音に】より
昭和16(1941)年、42歳で初めての句集を出した後、橋本多佳子の句作は途絶えがちになる。
夫を亡くし、4人の娘を抱えての戦時下での生活。昭和19年には大阪の街中に住む危険を思い、奈良のあやめ池に疎開した。
「さびしさを日々のいのちぞ雁わたる」この頃の句にはさびしさを詠ったものが多い。
転機は終戦まもない昭和21年春に訪れる。奈良在住の俳人の紹介で西東三鬼、平畑静塔を紹介され、3人で奈良俳句会を始めたのだ。それは強烈な句会だった。旅館に泊まり込み、夏となれば男たちは半裸。冬には三人が三方からコタツに足を突っ込み、疲れたら眠り、目覚めたら作るという真剣勝負。「刺青の肉襦袢」や「堕し薬が煮えるうしみつ」という言葉が乱舞するすさまじいものだった。
三鬼も静塔も俳壇に大きな足跡を残した人物だが、戦時中は新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)で句作から遠ざかっており、三人が三様に空白を埋めようと力を尽くす戦後だった。
「奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまった。私は覚悟をした。厳しい二人を向うにして悪戦苦闘することによって自分を創り直さう、知らぬ世間を知らうとした」(『日吉館時代』)
誰もが望んで得られる環境ではない。一方、深窓の奥様が男たちと夜を徹して句作することに渋顔を浮かべる人もいただろう。しかし時と場所を得たとき、多佳子は恐れずそこに飛び込む。
ところで「美しい人」の気配は男たちの心を乱すことはなかったのだろうか。静塔は記している。
「いつも姿は整い、身嗜のよい人なのに、私は一回も多佳子が人前でコンパクトを使うのを見たことがなかった程、私達の間には男女の交際の感じなどはすぐに消え失せたのであった。あの三鬼さえ、多佳子を世の常の佳人としては扱わず、気の強い妹か姉としてあしらっていた」(『多佳子と私』)
そうした鍛錬の中から名句が次々生まれる。
「凍蝶を容(い)れて十指をさしあはす」「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」
「罌粟(けし)ひらく髪の先まで寂しきとき」「いなびかり北よりすれば北を見る」
これらを収録した句集『紅絲(こうし)』が昭和26年に出版され、多佳子は俳人としての地位を確かなものにした。かつて「女誓子」と酷評された時期を乗り越え、見事に自分の世界を構築したと絶賛された。
さて、多佳子の世界とは何だろう。
『北を見るひと 橋本多佳子論』の著書がある倉橋みどりさん(52)は、「七曜」同人として橋本美代子さん(多佳子の4女)の指導を受け、いまは俳人協会幹事として活躍している。多佳子の世界を「いのちきらめく世界」と表現する。
例えば先の「いなびかり」の句。北という不吉な方角に突然のいなびかりを見ながら、目をつむったり、耳をふさいだりせず、ただまっすぐ見つめ返す。
「自分の宿命を宿命として受け入れるしなやかな強さが多佳子の信条。その強さがあるからこそ、対象に深く感応できる。十七音に閉じ込めたいのちのきらめきを時空を超えて共有できる、そこが魅力」
句に込めた濃厚なきらめきを「強烈な官能」「女性ならではの情念」などと言い立てる声もあった。同志の静塔にして、「紅絲」は「嘆きの集」であり、その嘆きは「ヴァニティの致すところ」と書き、多佳子を立腹させたこともある。
「ヴァニティにはいろんな意味合いがある。静塔は精神科のお医者さまですから、ちょっとからかったんじゃないでしょうか」と美代子さんは笑う。
多佳子は生涯着物姿で過ごした。残された写真を見るとその姿はいつもすっきりと美しい。
「おしゃれ」というエッセーを書いている。終戦後のある日、突然女性の俳人が訪ねてきた。裏山でイモを掘っていた多佳子は急いで手足を洗い、もんぺを着替えたが、少々客人を待たせた。まもなく相手は所属雑誌に「多佳子は人と会うとき、お化粧に手間取る」という文章を書いた。
多佳子は粘つく視線をやり過ごしつつ、「おしゃれは紅や油をつけることではなく、おのれの身の隅々まで心を行届かせること」とし、それは「俳句に対しても同じこと」とこう反撃した。
「おのれを甘やかして、泥のついたままの句や、素朴といふ名のもとに平板な句を人の前に放り出さぬやうにしたいと思ってゐます」
美しき人は激烈だ。筆者はさぞや赤面したことだろう。
◇
【プロフィル】石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。
https://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/ab52e87c92aea956d4dfe3879dfab269 【俳句熱中時代―日吉館句会(1)】より
奈良の老舗旅館、といっても天皇様がお泊りになるような格調高い高級旅館ではなくて、訳知りは知っているという老舗で「日吉館」というのがあった。
既に廃業して今はない。(この旅館については他のサイトでいくらでも見られるので省略)。
ここで戦後すぐ、あるグループの句会が約9年間にわたって持たれた。その座から生まれたいくつもの俳句は、いまも名句として口の端にのぼる。たとえば、
乳母車夏の怒涛によこむきに
夫恋へば吾に死ねよと青葉木莬
いなびかり北よりすれば北を見る
まず俳句をやる者なら知らない者はいない橋本多佳子の傑作中の傑作。これらはすべて、日吉館のこの句会の座の中から産み落とされたといわれる。
この伝説の句会について、以前から知りたく思っていたところ、我が句会では一番勉強しないはずの連蝶が、平畑静塔対談俳句史(永田書房)に詳しく載っていると教えてくれたのだ。なんと人は見かけによらぬもの。
早速、一読した。うーん、これはまさに「俳句熱中時代」であった。
以下は本書平畑の講演記録からの引用です。
「私共俳句仲間がこの旅籠屋で所謂日吉館句会なるものをひと月一回泊り込みではじめました。最初は終戦後の昭和21年であります。多分、21年の秋だったと思います。(中略)その当時からすでに西東三鬼は戦後俳壇の関西の草分けのような役目をしておった男でありますので、三鬼が我々に命令を下しまして京三と辰ちゃん(東京三・石橋)が来るから皆あつまれと、場所は奈良の日吉館だと言うことで集まったわけであります。関西では勿論西東三鬼それから私、それから榎本冬一郎、波止影夫、桂信子さんだとか伊丹三樹彦と言ったような現在の『青玄』、草城門下の方々も入り、尚若干の人達も加わっていたと思いますが、いろいろ説明をききまして、それはそれとして久しぶりだから、戦後はじめてだから俳句会をやろうじゃないかと言うことで句会をはじめた。十人位だったと思いますが、句会をはじめたんです。残念なことに日吉館句会の記録と言うものは全くありません。全く散逸して居ります。まことに残念なことであります。どうも犯人は橋本多佳子らしいのですが、多佳子さんはいつも「これいただいて行きますわね」と言って、句稿を全部持って帰ったことは確かなのですけど。・・・・」
「・・・その時作りました俳句と言うのは今でも覚えておりまして、これは私の句集に入っていると思います。
秋祭リボン古風に来給へり
秋の夜の「どん底」汽車と思ふべし
その当時の汽車はまことにゴーリキーの「どん底」そっくりであります。こういうまあ、私としては戦後俳句をはじめて間もないこういう俳句を出した覚えがあります。そうしてこの集まりが一応終わりまして、そのあと何かこう橋本多佳子と西東三鬼の間で我々の俳句の雑誌をやろうではないかと、それには多佳子の師事している山口誓子、私共が新興俳句時代に矢張り頼るべき先輩として考えておりました山口誓子が、伊勢の海岸で療養中であると、そうだ誓子を担ぎ上げようではないかと、「馬酔木」から退いて貰って我々のトップに据えて我々の雑誌を出そうじゃないかということが、どうやら二人の間で決まったようです。私にも賛成を求められましたので、私は一も二もなく賛成いたしました。私は賛成いたしましたが、メンバーは大体、西東三鬼と橋本多佳子に任すけれども、ただし矢張り気の合った者が共に同じ道を歩める者と言うことが最低限度の条件であるから、そのつもりでやって下さいと念を押したわけであります。」
「再々東京へ行きましてメンバーの獲得,いろいろの認可を受けなくてはいけない。その当時ですからぱっぱっと出すわけには行かないのであります。・・・それともうひとつ最大の大物はその当時ご承知の通り進駐軍の監督下にあったわけですから、GHQと言うところがありまして文化関係もこれの監督下にあったわけです。そこへ出向きましていろいろ説明しOKを取らなければ雑誌発行は出来ないのであります。・・・そうして帰ってくれば伊勢の海岸で療養中の誓子のところへ馳けつけなければならない。西東三鬼はその当時は無職であります。神戸の所謂三鬼館に住んで居りましたけれど、時たま進駐軍の兵士のために日本の女に宛てたところの恋文の代筆をした。こちらに残された日本の女の人の為に、英語でアメリカへ帰った兵隊さんへの英語の代筆をした。所謂恋文代筆業といったことで、何とか凌いで居ったような状態でありますので、そう再々に東京に行き、すぐに取って返って伊勢へ参ると言ったような金の工面はなかなか大変だったと思います。(中略)その三鬼の大苦労のおかげで所謂『天狼』初会の頃のメンバーが決まり、そのメンバーが決まりましてから改めて昭和二十二年の夏頃から日吉館句会と言う我々の句会が始まったわけであります。」
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