ぶつかり稽古

http://heiseiinnyokujiten.blog.fc2.com/blog-entry-1056.html 【橋本多佳子◆橋本多佳子全句集  …………☆西東三鬼、平畑静塔たちとの“ぶつかり稽古”で生まれた名句集『紅絲』】より

罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき (紅絲)

 「天狼」創刊後、日吉館の奈良俳句会の作です。

 深夜まで続くこの句会で、私は鍛錬されました。

 この句の想を抱きながら、上五に据えるものが見つからず迷っていましたとき、ぱっと私の眼前に真紅なけしの花が浮びました。

「罌粟ひらく」で、「髪の先まで寂しさとき」が、ぐっと支えられたように思えて嬉しかったことを思い出します。

 この句は、その夜の句会で三鬼、静塔、暮石の三氏に採って貰いました。

  ――自句自解

 俳句のアンソロジーとして当方が愛読したものに、平井照敏編『現代の俳句』(1993・講談社学術文庫)がある。高浜虚子をはじめとする107人の俳句を集めたもの。

 好きな句に〇印をつけているが、その数の多い俳人ベスト3は、久保田万太郎、橋本多佳子、橋閒石である。

 のちに『久保田万太郎全句集』(1971・中央公論新社)、『橋閒石全句集』(2003・沖積舎) を購入したが、このほど文庫版の『橋本多佳子全句集』を手に入れた。

 橋本多佳子、1899(明治32)年~1963(昭和38)年。

 好きな句10句と思ったが、どうしても絞り切れないので、20句選んだ。

霧を航き汽笛の中を子が駆くる――第1句集『海燕』(1941年)

月光にいのち死にゆくひとゝ寝る

七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ――第2句集『信濃』(1946年)

母と子のトランプ狐啼く夜なり

乳母車夏の怒濤によこむきに――第3句集『紅絲』(1951年)

いなびかり北よりすれば北を見る

雪はげし抱かれて息のつまりしこと

祭笛吹くとき男佳かりける

ゆくもまたかへるも祇園囃子の中

星空へ店より林檎あふれをり

あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ

かじかみて脚抱き寝るか毛もの等も

ひと死して小説了る炉の胡桃

春空に鞠とゞまるは落つるとき

生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣

罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき

雪まぶしひとと記憶のかさならず ――第4句集『海彦』(1957年)

嘆きゐて虹濃き刻を逸したり

九月の地蹠ぴつたり生きて立つ――第5句集『命終』(1965年)

雪はげし書き遺すこと何ぞ多き

 圧倒的に第3句集『紅絲』の句が多い。

 多佳子、昭和22年(48歳)から26年(52歳)までの句。

 奈良の旅館日吉館で、敗戦の翌年、毎月1回泊まり込みの句会が開かれた。西東三鬼、平畑静塔、橋本多佳子、榎本冬一郎、右城暮石たちで、翌年には山口誓子を主宰に『天狼』を創刊した。上掲の「自句自解」にあるように、きびしい“鍛錬句会”だった。

「この日吉館句会の数年間と言うものは一同精魂をつくして俳句に打ち込んだわけであります。……歯に衣をきせない、率直で鋭く時には相手をむかむかさす、時には相手がしぼんでしまって泣きそうになる。多佳子さんなどは日吉館から帰りましても二、三日はよく寝れない、と言うことを言って居りました。口惜しくて、まあ、なぐり合いにはなりませんでしたけれどそういう厳しい句会でありました。ぶつかり稽古と言うのですか、そういう型の句会でした。 (『平畑静塔対談俳句史』)

 その座から『紅絲』収録の上掲の名句が生まれた。

 山口誓子は、ある吟行で多佳子が「一処に眼を据ゑ、それに向つて感情の火花を散らしてゐる」句作方法を眺めたと書いている。“一処一情”であると。たしかに名句のできあがる場では、同時におびただしい写生句がつくられている。そこに全集を読む楽しさがある。

 私生活では、38歳で夫を失い、4人の娘を育てた。俳句では混沌とした敗戦の翌年に泊りがけの句会を行い、「七曜」主宰となり、『紅絲』を巡っては、平畑静塔、堀井春一郎の“ヴァニティ”、“エクスタシイ”批評などで多佳子の激しい怒りを経験し、また奈良句会ではどてらを脱いで長襦袢ひとつになって怒りまくったというゴシップもある。そのうえで“スター俳人”として上掲にあるような絶唱を残した。

 その魅力をまねて当方も一句つくった(笑)。

 乳母車夏の怒濤によこむきに

 原発や春の怒濤の真正面


http://heiseiinnyokujiten.blog.fc2.com/blog-entry-534.html 【発掘本・再会本100選★密告―昭和俳句弾圧事件 │小堺 昭三】より

風生の返事も秋桜子と同様、なにかに気兼ねしているようにあいまいだったが、最後にはっきりとこう言った。

「嶋田くん、行くなら小野蕪子のところだよ。理由は言わないがご推察にまかせるよ」〔…〕

蕪子をさしおいて150万部の雑誌の選者の椅子にすわれば、どんな厭がらせをされるかわからない。第二第三の青峰になって留置場で喀血しなければならないかもしれない。それを怖れて秋桜子も風生も遠慮しているんだな、ということもわかってきた。

風生邸を出てから洋一は、

<全俳壇のためになることだから小野蕪子のご機嫌をとれだと。おれは厭だ! 蕪子はおやじを弾圧した張本人だ。半死半生の目に遭わせた仇だ。

俳壇を官憲に売った密告者だ。

平畑静塔や三谷昭らを、古家榧夫や東京三らを、地獄に蹴おとして笑っている悪党だ。そんなやつに頭をさげて頼めるか!>

★密告―昭和俳句弾圧事件 │小堺 昭三│ダイヤモンド社│1979年1月

<キャッチコピー>

ついに蕪子は、「虚子を征伐してやる。新興俳句派のみならずホトトギス派も弾圧してやるぞ」と高圧的な態度になった。〔…〕いかなる先輩、功労者といへども許さないつもりです。左傾、徒らなる急進、反軍、軟弱、そういう分子が萬一俳句にあるとしたら宜しく弾圧を加ふべきでせう」(本書)。

上掲の嶋田洋一は『家の光』編集部で俳句欄を担当、父の青峰が選者だったが半死半生の身。『家の光』は日本一の発行部数を誇っていた。この俳句選者になることは俳人にとっては名誉であったが、水原秋桜子も富安風生も引き受けない。そして結局、小野蕪子が選者におさまる。昭和16年のことである。「小野蕪子は、正義の密告者となって特高警察の手で合法的に新興俳句運動を弾圧させ、同時にホトトギス王国の高浜虚子をもおさえて、全俳壇に君臨しようとした野心家でもあった」(本書)。

この『密告―昭和俳句弾圧事件』(1979)は、1940年の平畑静塔らが治安維持法違反で逮捕された「京大俳句」事件、翌1941年、上掲の嶋田青峰らが逮捕された四俳誌弾圧事件を扱ったノンフィクション。生存している俳人を訪ね、その証言をもとに、取調べの実態や、事件の黒幕とされる小野蕪子をあぶりだし「治安維持法」の時代を描いたもの。

ところが、本書では登場する西東三鬼を「特高のスパイ」としたため、三鬼の弟子の鈴木六林男は、三鬼の次男斎藤直樹を原告に立て、著者小堺昭三と、出版元ダイヤモンド社を相手に故人の名誉回復と謝罪広告などを求め提訴する。

本書には以下の記述がある。

「第二次で検挙されて当然の西東三鬼も、特高当局に協力した一人であった。だから、現在でも旧同人たちの「特高のスパイ」だった三鬼に対する感情には複雑なものがある」、「三鬼はしかし、自分から特高のスパイになったわけではない。心ならずも特高当局の協力者に仕立てあげられた囮であった。当局が第二次検挙者のリストからかれだけをはずしたのは、俳壇の社交家でもあったので自由に泳がせておこうとしたからである。そして、かれの大森の自宅附近には刑事を張り込ませ、出入りする俳人たちをチェックさせていた。」(本書)

田島和生『新興俳人の群像──「京大俳句」の光と影』(2005年7月・思文閣出版)によると……。1983年の判決では「『特高のスパイ』と断定した文章は憶測による虚偽のもので、三鬼と直樹さんの名誉を傷つけ、直樹さんの父に対する敬愛追慕の念を侵害した」と、原告側の主張をほぼ全面的に認めた。著者と出版社に対し、新聞での謝罪広告掲載と慰謝料30万円の支払いを命じた。判決理由で「三鬼の逮捕が遅れたのは、警察側が他の俳人の動向をつかむおとりにしたためだった」と、小堺の小説のほぼ一致する点を指摘した反面、「三鬼は友情に厚く、友人を権力に売り渡すような性格ではなかった」とはっきり否定している。

 小堺昭三『密告―昭和俳句弾圧事件 』は、昭和史の断片。「俳句についてはまったくの素人であり、俳句のイロハから習い、闇のなかを手さぐりで一歩一歩すすむよう」「こういう時代は再びくる、駈足でやってくる、いま書いておかねば」(あとがき)。

 田島和生『新興俳人の群像──「京大俳句」の光と影』は、俳句史の断片。新聞記者であり俳人でもある著者が「俳人らが思いがけず、治安維持法違反で検挙され、劣悪な留置場や監獄に拘束され、過酷な取調べを受け、ある者は命を落とすという「法治国家」の実態を知り、肝が冷える思い」だが、「半面、権力側にとっても無視できない「俳句の力」を、そこに見たような気にさせられました」(あとがき)。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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