三位一体

∞音∞ a.k.a. 風*月@fuhgetsu

中心にある三角形 #アウワ。 千手観音の #月。 毘沙門天の #太陽。 魔王サナトクマラの #大地。尊天の三位一体。

その外側に六角形と六芒星で、#1のまわりの6。その外側に8角形と16角形になる三角形に囲まれた、#1のまわりの8。

#トホカミヱヒタメ と #アイフヘモヲスシ。


https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6402715/  【フトマニ】


https://www.kuramadera.or.jp/oshie.html 【尊天信仰】より

鞍馬山の信仰は、宇宙の大霊であり大光明・大活動体である 「尊天」を本尊と仰いで信じ、「尊天」の心を我が心として 生きてゆくことで、尊天信仰と言います。尊天とは、人間を 初め、この世に存在するすべてを生み出している宇宙生命・ 宇宙エネルギーです。真理そのもので、神仏の区別を超えて ひとつの形に固定されず、しかも本質を保ちつつ、森羅万象 、日月星辰、あらゆる神あらゆる仏の相(すがた)となって 顕現します。そのお働きは愛と光と力となってあらわれ、ま た月に代表される水の氣、太陽から放たれる氣、母なる大地 、地球の氣の三つの「氣(エネルギー)」にあらわし、それぞれを

月輪の精霊―愛=千手観世音菩薩

太陽の精霊―光=毘沙門天王

大地の霊王―力=護法魔王尊

のお姿であらわして、この三身を一体として「尊天」と称し ます。それ故に「月のように美しく、太陽のように暖かく、 大地のように力強く」と祈り、 「すべては尊天にてまします」とお唱えするのです。

羅網の教えと自然

「山川草木悉皆成仏」という教えにあるように、非生命から 生命まで、森羅万象の全てが宇宙生命エネルギーである「尊 天」の顕現です。鞍馬山一帯は、大自然の宝庫で、往古か ら社寺林として守り継がれ、「京に最も近く、最も深い自然」 と称されてきました。人の手の加わらない鞍馬山の自然は、 動植物が網のように相互に関係しあって複雑な森林生態系 を形成しており、鞍馬山ではその響きあいを「羅網」とし て表し、「共に生かされている命」を共感し、様々な命が支 え合い響きあい、生かし合っていることに気づき、私たち の「いのち」が本来、光り輝く宝珠であることに目覚めて 欲しいと願っています。


Facebook平野 鈴瑞代さん投稿記事

津軽富士、三峰三位一体の山、岩木山。アイヌ語のカムイイワキ(神のすむ所)イワーケ(岩の多い所)石の城(岩城)のよう。3という数霊と岩という言霊にひかれ、すいこまれるように勝手に脚がすすむ私。磐座、出羽三山、立山三山、白山(ハクサンシャクナゲ、ハクサンイチゲ、ハクサンシャジン)

さざれ石、いわおとなりて。インドの聖なる3音AUM。

老子曰く「道は一を生じ、一はニを生じ、ニは三を生じ、三は万物を生ずる」

山の師匠曰く「山という字は縦の三本と横の一で繋がれている。あらゆるものを三つの要素で表現し、それを一つに繋いだものということ」

歴史の師匠曰く「女人禁制なのではなく、もともと女性は穢れてない。縄文時代は、男性が祈りと共に狩猟し、動物達の命を頂いて還ってきたから御祓が必要なだけ。だから女性は御祓が必要なく、尊重される存在」

バラバラだった気づきが、かなりのはやさで一つになっていく。私が手離すものもはっきりとしていく。そして、何を受けとるかも。

一瞬たりとも同じものでない美しさに囲まれ、それを撮りたいという少年カメラマンの技術のレベルもはやい。


Facebook清水 友邦さん投稿記事

Happy Christmas !

キリスト教の教義に三位一体がありますが父と聖霊と子の中に女性が含まれていません。

カトリックでは現代になっても女性が司祭になることを認めていません。

キリスト教が最初から男性中心的だったかというと、そうではないようです。

男性原理のマインドに同化してしまった聖書の書き手たちによって聖書が意図的に男性優位に書かれたと研究者に指摘されています。

英語圏では神を彼と呼ぶ男性中心主義の翻訳ではなく「天にいるわたしたちの親よ」と男性性を弱める呼び名に見直されて来ています。

有名なフランス・パリの「ノートルダム寺院」は「私たちの貴婦人」といった意味で「聖母マリア」を意味しています。

マリア信仰の盛んな地域は教会の中央にあるのが「救世主イエス」ではなく「聖母マリア」になっています。

スペインのセヴィージャはマリア信仰の中心地です。

キリスト教は父と精霊と子で女性が省かれていますが、セヴィージャの教会の中央に鎮座しているのは祖母と幼子のイエスを抱えた聖母マリアの三位一体でした。

しかし、神の像を彫んでそれを礼拝することは偶像崇拝としてユダヤ教、キリスト教で伝統的に禁じられてきた背景があります。

プロテスタントはマリア崇拝が、神に対する崇拝から逸脱するものであり、偶像崇拝に接触するとしています。

聖書研究によると、イエスの行状を記述したQ資料があり最初にマルコ伝が作られ、後からそれを元に各福音書が書かれたといわれています。

最も古いマルコ福音書のマリアは神格化されていませんでした。

マルコ福音書第3章でイエスが漁夫や売春婦に福音を述べている時、弟子が「お母さんが外で呼んでおられます」と言ってきた。その時、イエスは「私の母、私の兄弟とは誰のことか。見なさい、ここに私の母、兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と返答しています。

ヨハネ福音書第2章のガリラヤのカナの婚礼では母マリアに対し、イエスは、「婦人よ、あなたは私と何の係りがありますか」と母をたしなめています。

処女懐胎伝承が記されているのはマルコよりも新しい紀元70~80年の成立とされる「マタイ伝」と「ルカ伝」からです。さらにのちの時代に書かれた聖書外伝の『ヤコブ原福音書」には清浄無垢な処女性が強調されたマリアが詳しく書かれています。

処女懐胎神話はキリスト教以前からあり、エジプトの永遠の処女イシス、ギリシャの女神アテナ、ペルセウスを受胎したダナエ、女神アルテミス、アレクサンドロスの母オリンピアス、朝鮮神話のチュモンの母などがあります。

日本のアマテラスは父イザナギの禊によって生まれ、スサノオとのウケイによって天皇家の先祖のオシホミミを生んでいます。

日本の皇祖神アマテラス、ギリシャの最高の女神アテナ、キリストの母マリア、いずれも処女で母となっています。

神話の構造は社会の変化によって次のように変わっていきました。

1、夫なしに女神から生れた世界

2、戦いの男神によって孕まされた女神から生れた世界

3、父なる男神ひとりによって女神なしで創造された世界

処女懐胎神話の時代は男性原理の社会でした。

それ以前の古代社会は女神である大地からすべてがもたらされる母系社会でした。

子供を産み育てる女性の力はもっとも偉大な力でした。

男性原理が優位になり戦いが始まると男性が軍事リーダーとなり女性の社会的地位が低下しました。

男性中心的な社会になると女性が男性よりも優れ男性よりも上位の位置にいることは男性の苛立ちや、反発を生みました。

男性は善であり高貴、理知的であり女性は本質的に悪であり不浄、低俗で感情的で男性よりも下等すると考えるようになったのです。

その根底には男性が無視することができない母への恐れがあったと思います。

子供の自我が成長して自立する時に、

いつまでも子供とべったり離れずに

子供の自立を妨げる母親は

子どもを呑み込む怪物となってしまいます。

自立を妨げる支配的な母親に対して子供は憎悪をたぎらせます。

母と子の融合を断ち切るのが男性原理です。

母親に引き戻され、呑み込まれ、溶解してしまう危険を救う神話に「英雄の母殺し」があります。

男性には母親に呑み込まれる恐怖を解消する男性原理の神話が必要だったのです。

女性は少女から大人になり母から老女に変化します。

変化しない聖なる永遠の処女は男性によって理想化された女性の神話でした。

教皇を頂点とした教会の教父達はマインドの罠にはまり女性原理を必死に否定しようとしました。

聖書の神は女性に向かって子供を産むことの呪いの言葉を吐いています。

「わたしは、おまえの産みの苦しみを大いに増す。

おまえは苦しんで子を産む。それでもおまえは夫を慕い、夫はお前を治めるだろう」

2世紀のキリスト教神学者テリトゥリアヌスは激しく女性を罵りました。

「女よお前は痛みと苦しみの中で子を産む。アダムが最初に作られそれからエヴァが作られた。女は夫の支配下にあり、夫がお前の主人である。アダムは騙されなかったが女は騙されて罪をおかした。女に対する神の告発は続いている。お前は最初に神の権威を弱めた。お前は悪魔の部屋だ。お前は巧みに男を負かした。お前の値打ち、死は神の息子の死に値した。」

この世に死をもたらした罪はエヴァに負わせました。

キリストの死の責任はエヴァに負っています。

そしてマリア以外のすべての女性はエヴァなのです。

アレクサンドリアの教父クレメンスは次のように述べています。

「どの女も自分が女であると考えただけで嫌悪感に捉われるべきだ」

エヴァは神に逆らい罪と死の地獄の入り口を全人類にもたらし、聖母マリアは神に従順で彼女によって救世主イエスが現れ、全人類に恩寵がもたらせられました。

同じ女性でもエヴァは地獄の入り口で聖母マリアは天国の入り口なのです。

男性原理によって女神は否定性のエヴァと肯定性の聖母マリアの二つに分離しました。

パウロが布教した頃のエフェソスは処女で豊穣の女神アルテミスが一千年以上信仰されていた土地だったので最も激しいキリスト教の反対運動がおきました。

アルテミスもイシスも、死して甦る神の母でした。

やがて地中海沿岸でキリスト教が拡大すると神々の母であるイシス信仰とアルテミスの信仰はマリア信仰へと移植されました。

エジプトのイシス神殿はマリア神殿として巡礼が公認されました。

431年のエフェソス公会議でマリアの「テオトコス(神の母)」の称号が正式に認められるとエフェソス市民は大いに喜んだということです。

787年の第2回ニカイア公会議においてイエスを生んだ神の母マリアは他の全ての創造物よりも上位に位置する独特な立場だとするマリア崇敬が認められました。

その後、男性原理のバランスをとるかのように肖像(イコン)を含むマリア信仰が深くヨーロッパに根付いていきました。

楽しいクリスマスを!!


Facebook玉井 昭彦さん投稿記事

(わたしのみっつ)落語家・僧侶、露の団姫さん つながるご縁、悩みに寄り添う志

 ■落語家・僧侶、露(つゆ)の団姫(まるこ)さん

 上方の人気落語家、露(つゆ)の団姫(まるこ)さん(37)は天台宗の僧侶でもあります。数多くの高座に上がりながら、2年前に新しい寺「道心寺(どうしんじ)」(兵庫県尼崎市)を開き、お悩み相談を続けています。落語家として、住職として、心に寄り添う原動力は何か。「みっつ」を聞きました。

 ・天満天神繁昌亭(大阪市北区)

 ・天台宗不軽山道心寺(兵庫県尼崎市)

 ・緑茶

 《2005年、落語家、露の団四郎(だんしろう)へ入門した。翌06年、大阪市北区に上方で唯一の定席「天満天神繁昌亭(はんじょうてい)」ができた》

 小さいころから、人間が死んだらどうなるのか心配でした。3歳のときに祖父が亡くなりました。火葬場で焼かれますよね。めっちゃ怖いなと思って。死の恐怖を解決するため、お経や聖書を読みましたが、なかでも仏教に強くひかれ、信仰を持ちました。

 落語は、もともと両親が好きでした。劇団ひまわりで子役をしていた私も落語が好きになりました。落語家とお坊さん、どっちにもなりたいと思うようになったのは高校生のときです。

 上方落語の祖の一人と言われるのが、江戸前期に活躍した露の五郎兵衛です。露の一門の初代で、お坊さんでもあったんです。それで、露の一門に入ろうと決めました。団四郎師匠に入門したのは、二代目露の五郎兵衛(当時・露の五郎)師匠の芸を受け継いでいるといわれていたからです。

 繁昌亭ができてすぐに出してもらいました。たまたま、朝日放送の情報番組「おはよう朝日 土曜日です」のプロデューサーが見にきていました。すぐに「リポーターをやってほしい」と連絡があり、「はい喜んで」と即決です。それまでのリポーターが産休に入り、代わりを探していたそうです。

 テレビ朝日のバラエティー番組「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺(じ)」が14年に始まりました。「おはよう朝日」に出ていたので、テレ朝も安心してオファーをしてくれたと思います。

 繁昌亭は、ご縁のつながる場所、ご縁の広がる場所です。「繁昌亭で見たよ」と講演会や敬老会での落語の依頼が増えました。繁昌亭がなかったら大きなご縁も、小さなご縁もなく、違う人生になっていたかな。

     *

 《21年に道心寺を開いた》

 08年に落語家の内弟子修業が明け、11年に天台宗で得度しました。僧侶になろうと思ったきっかけは、高校生のとき、変な事件に巻き込まれたと言ったらおかしいんですけど。

 本名が珍しくて、鳴海(なるみ)ハトルといいました。今は裁判所で手続きをしたため、戸籍上の名前も法名の春香(しゅんこう)といいます。ハトルは、親がエジプト好きで、エジプトの神の名前から付けたそうです。本名で子役としてテレビ番組に出ていました。その番組を見た漫画家が、私の本名をペンネームとして使いはじめ、性的な漫画を描き、出版しました。その事実が判明し、出版差し止めの裁判をしました。

 友だちに話すと、「それ知ってたけど、こんなん描いてるんやなって、ずっと思ってた」と言われました。心が狂ってしまいそうで、人間不信に陥りました。過食症や心臓神経症にもなりました。もう死にたいと、1年ぐらいうつ状態でした。

 宗教の勉強をするなかで、法華経が一番好きでした。お釈迦(しゃか)さまが山の上で説法をする様子を描いたお経です。私も、説法を聞いている一人という感覚になりました。心の中で、お釈迦さまに弟子入りしました。

 「お釈迦さまが私のことを応援してくださっているから、もうちょっとだけ、がんばろう」と死ぬのをやめました。

 比叡山延暦寺で12年に修行したあと、お悩み相談を始めました。自死する人を減らしたい、その思いが一番です。メールや電話のほか、公園や喫茶店で聞いていましたが、安心して話してもらえる場所が必要です。

 この土地と建物が19年に出てきました。阪神尼崎駅から約800メートルで、もとは高級割烹(かっぽう)でした。1階を受付、2階に本堂と落語の舞台を作りました。

 毎月3、13、23日に縁日寄席を開いています。お勤め、法話、落語会という流れです。落語と仏教の関係は深く、どちらも人間を肯定します。落語に興味がある人に仏教に興味を持ってもらい、仏教に興味がある人に落語に興味を持ってもらう。相乗効果をねらっています。

 お悩み相談も予約制で続けています。発達障害の相談が半分くらいです。夫が発達障害で、そのことをオープンにしています。夫も一緒に相談を聞くことがあります。当事者の悩みは夫が、家族の悩みは私が、大いにうなずけることがあるからです。

 道心には、悟りを求める志という意味があります。今の時代、志が持てなくなっています。志を持っても、あきらめてしまうことが多い。道心寺は、いろんな志を応援するお寺、私自身の志を体現するお寺です。

     *

 《お茶の伝来には諸説あるが、天台宗を開いた最澄が唐から伝えたと言われている》

 緑茶だけは毎日、丁寧に入れます。朝起きたら、お湯を沸かします。沸騰したてだと温度が高く、おいしく入れられないので、家の仏壇の前でお勤めをします。この朝のお勤めの時間が、ちょうどいい温度に下げてくれます。そのお湯で入れた緑茶を飲むと、心も体もすっきりして、幸せやなあと思います。

 比叡山の修行中は精進料理です。修行に入る前に心配だったのは、チョコレートとか好きなものが食べたくなるかな、ということでした。でも、修行に入って思ったことは「緑茶が飲みたい」。比叡山で出てくるのは、麦茶かほうじ茶です。

 このとき、私の人生にとって、どれだけ緑茶が大切なのかわかりました。この世の最後に飲むのは緑茶だと決めました。

 その茶葉にあう温度や、入れ方があります。お湯が冷める時間も夏と冬では違ってきます。

 落語も同じネタをかけても、お客さんによって受け取り方が違います。法話も同じ内容を話しても、聞く人によって変わります。落語も法話も緑茶も生き物なんです。変わらないものなのに変化がある。それもまた楽しみです。(岡田匠)

     *

 つゆの・まるこ 1986年、静岡県生まれ。2005年、高校卒業後に露の団四郎へ入門。天満天神繁昌亭をはじめテレビやラジオでも活躍。11年、繁昌亭輝き賞を最年少で受賞。著書に「プロの尼さん 落語家・まるこの仏道修行」(新潮新書)、「女らしくなく、男らしくなく、自分らしく生きる」(春秋社)、「お寺を建てる! まるこの道心寺物語」(同)など。

(朝日新聞10月25日)

https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S15776262.html

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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