FacebookNakako Yamamotoさん投稿記事
なんともお美しい☺️「水月観音」 岩にもたれて、水面に映った月を眺めているお姿。
https://ameblo.jp/yjounetuo/entry-12312457782.html 【クールで美しい観音像 ~ 水月観音 ~】より
今日も1日お疲れさまでした✨美しい観音に癒されましよう。~「水月観音」~
アメリカのネルソン・アトキンズ美術館が所蔵している中国の水月観音像
三十三観音の一。形像は一定しませんが、観音菩薩の住処、もしくは降り立つ場所とされる補陀落山の水辺の岩に座して水中の月を見る姿に作られるもので、古来、心の浄化・水難守護を祈願する観音で、人々の心を表す満月を映した水面を静かに眺めています。
日本にもありますよ
東慶寺(北鎌倉) 水月観音菩薩半跏像
『水月観音菩薩半跏像』は、岩に腰掛けたゆったりとした姿の観音像です。鎌倉時代中期、13世紀に作られたもので、かなり独特な様式を持った仏像です。このような寛いだ姿の仏像は、当時、中国(宋から元の時代)で大流行した様式だったのですが、京の都では、まったく受け入れられず、日本では鎌倉にしか同じような様式の仏像はありません。
水面に映る月を眺めている姿なので、視線が下方に向いています。緊張している部分はどこにもなく、静かにすっきりと落ち着いた像です。坐している岩肌や、衣の布の流れもゆったりと彫られていて、観音様の前に静かな水面があり、そこに月が浮かぶという景色ごと目に浮かんでくるようです。
https://samaya.jp/minamo_13.html 【水面の月】より
第十三回 -“愛”について- 清風学園 専務理事・校長 平岡 宏一
今回は仏教における“愛”について考えてみたい。我々が一般に使っている“愛”という言葉は、仏教的には、「慈しみ」と「貪着」という二種類の全く相反する感情に分類できる。慈しみとは、相手に楽を与えたいという思いやりの心である。『仏教語大辞典』には、慈しみ〔Maitra〕は友人〔Mitra〕という単語から生まれ、真実の友情という意味を持ち、上下の関係の無い言葉とされている。これに対し、貪着とは、むさぼり求めることや執着、即ち「とらわれる心」をさす。現在のギュメ密教学堂の管長のターシー・ツェリン師は、慈しみと貪着の違いについて、「相手が自分の意志に反する行為を行った時、心から相手のことを心配し、何とか出来ないかと考え、さらにその相手への思いやりが増してゆくのが慈しみであり、意のままにならぬ相手に対して怒りの感情が涌いてくる場合は貪着である。」とおっしゃっていた。
一見、同じように見える愛という感情がこのように大きく食い違ってしまう理由について考えてみよう。貪着の場合は、対象の良いと感じる箇所を肥大化させ、欠点を見ないようにしているという。従って、自分が執着していた対象は、実際とは違うわけだから、理解が進めば進むほど、自分の思い通りでなかったことが分かり、裏切られた失望や怒りを感じてしまうのである。好ましいと思っていた対象が意のままにならぬことで、怒りの対象に変わってしまうのはこのためである。
一方、慈しみの場合は、対象に対しての誤解が本来的に存在しない。単純に言えば、慈しみの対象は、必ずしも自分にとって好ましい存在である必要はないからである。例えば、電車の中で高齢者の方に席を譲る時、相手の高齢者が自分にとって好ましい存在か否かはほとんど関係無い。相手の辛い状態を見て、その人の「苦しい状態を少しでも和らげたい」という純粋な気持ちから生じた行動である。高齢者に自分の席を譲る際には、相手がより楽な状態になるようにと願い、自分が席を立つ。これは発送の出発点が自分ではなく対象の上にあり、自分より相手を大切にするという思いやりの気持ちとである。
だが、実際には、我々が経験上分かっているように、見知らぬ他人よりも自分が好意を持っている対象の方が、圧倒的に慈しみの対象となりやすいことは無論である。例えば双子の母親は、二人の子供がどんなにそっくりでも、自分のおなかを痛めて生んだ子供を必ず見分けることが出来るし、それぞれの小さな苦しみも見逃さないといわれている。それは母親の子に対する深い愛情に基づくものである。
専門的な話で恐縮だが、チベットには、菩提心を育む優れた方便として、“因果の七つの教え”〔注〕が伝えられている。この教えでは、まず初めに「一切衆生がすべて母であった」と観想し、次に、「現在の母に対する恩と同様の恩」を一切衆生に感じ、そして「報恩の気持ち」を観想してから、「慈しみ」を観想する。
一切衆生に平等な慈悲を説く大乗仏教であるが、実際のところ、いきなり一切衆生に平等な慈しみを持つことは至難である。無始無終の輪廻の中で、一切衆生はどれ一つとってもかつて母で無かったものはないと考え、今世の母親に受けた恩と同様の恩を受けたはずであると考える。そして、輪廻の苦しみにある衆生に対し、かつて受けた恩に報いねばならないと考えるのである。このような訓練によって、一切衆生に対し、現在の母と同様の近親感を感じた後、慈しみを観想するという内容である。菩薩であっても、好意のある対象の方が慈しみを起しやすいのはいたしかたあるまい。
先にも述べた通り、貪着は、あくまでも自分の欲望を満たすことが目的となっており、自分が作り上げたイメージが先行し、相手の状況を正確に判断することが出来ない。これに対し慈しみは、相手の状況を正確に判断していないと生じさせることは難しい。相手の苦しみや困難を己のことの如く想像することがベースになっているからである。これをもとに、「相手の苦しみを除きたい」と考える。それは自分より相手を主体に考える気持ちであり、自分より相手のことを大切にしようという気持ちである。このように見ていくと、両者は一見、よく似ているが、全く異なるものであることが理解できる。
仏教における愛とは、貪着を減らし、慈しみを増大させていくことにあると言える。よく密教は、この貪着をそのまま肯定している教えであると言われる。確かに密教に説かれる貪着は、煩悩の貪着そのもので、貪着によく似た別のものを指すのではない。しかし、これは貪着そのものの持つ力を利用して、貪着を初めとする三毒を制圧する方便を説いているのであって、貪着を煩悩の状態そのままで肯定するという教えではない。別の機会でこの“密教と貪着”のテーマは取り上げたいと思うが、密教もまた貪着を減らし、慈しみを増大させていくことを目指すて同じ点においては同じなのだ。
前回も述べたが、仏教は心の有り様を変えていくことで、境地を上げて行き、悟りに到ろうとする教えである。そのためには、このような自分の心の様相を正しく知ったうえで、上手に心と向き合っていくことが大切だとされている。それは仏教徒でなくとも、自分の人生を豊かなものにしていくために有効なことである。この点が注目され、欧米でも仏教に関心が高まっている。
現代は過多な情報が氾濫し、未だかつて無いスピードで時代が進んでいる。その中、このような時代背景を受けてのことだろうか、最近、経営者と言われる立場の人物で、単なる“お願い信仰”でなく、本格的に仏教やインド思想を学び、心の安定を“ど真剣”に模索している人々と出会う回数が増えてきている。いまや仏教は、単なる信仰、即ち拝むだけの対象としてではなく、心の糧、人生の羅針盤としての役割を担う時代になって来ていることを強く感じる。
〔注〕“因果の七つの教え”は、(1)「一切衆生がすべて母」(2)恩を想う(3)報恩(4)慈しみ(5)慈悲(6)衷心(一切衆生に対する責任感)(7)発菩提心〔一切衆生を救済するために仏位を目指す〕の順で菩提心を起す次第である。
https://www.mag2.com/p/news/278455/2 【ナゼお月見を愛した嵯峨天皇は直接、月の姿を見なかったのか】より
観月の楽しみ方
平安時代の貴族たちは月を直接見ることはしなかったようです。あくまでも池の水面に映る月を眺めるのが風流だそうです。これこそが雅(みやび)だとされていたのです。
特に天皇は、その身分ゆえ自分よりも上を見て月を見上げるということはなかったようです。神とされていた立場だったので、人前ではそのように振る舞うよりなかったのかも知れません。このような理由から天皇が月を楽しむためには、水は欠かせないものだったのです。
大沢池に龍頭がついた舟を浮かべ、水面に映る月を眺め、管弦の類を奏で、宴を楽しんだことでしょう。また、杯に月を映したり、ナスやキュウリに穴を開けて月を見ることもしたようです。まさに貴族的な優雅で風流な遊びだったのです。
毎年、大覚寺では中秋の名月の日の前後に3日間「観月の夕べ」が開かれています。1,000年以上前に貴族たちが見ていた同じ光景を愛でることが出来ます。私は月を愛でることよりも、1,000年以上前に生きた都人と同じ景色を見ていることに感激しました。美しい月の光は、1,200年前も今も都を照らし続けているのだと思うと感慨深いものがあります。
月と日本人
日本では明治時代まで太陰暦が使われていたので、月は馴染みの深いものでした。月の美しさは日本人の美意識に合うのでしょう。また満ち欠けをする月の姿がわびさびなど禅仏教の無常観にもしっくりくるのかも知れません。
月見の名所は、桂に由来するものがあります。嵐山には桂川に渡月橋という橋がかかっています。桂離宮は月を見るためにデザインされている建物があります。竹で造られた月見台は月の光がさすと幻想的な風景を醸し出すそうです。京都には日本人の月に寄せる思いと美意識がうかがえる場所や装置のようなものがあります。
桂は一説によると永遠の命の象徴でもあります。万葉集など和歌の世界では、桂はそのような意味で数多く詠われてきました。遠くから眺めることはできても、決して手に入らないものの例えとして詠まれたものもあるようです。
京都を訪れるようになって月は日本人の美学を感じさせてくれる存在だということに気づきました。
「月も雲間なきは嫌にて候」
真ん丸で光り輝く照る月よりも、雲の間から見える月こそ美しいという感性を表しています。雲で隠れてしまって見えない部分は心の豊かさで補うという美意識が感じられます。これこそが日本庭園などに用いられる「見立て」の技法であり、日本人独特の美学だと思います。満ち欠け、雲間に出入りする様など完全と不完全な姿を露わにする様が日本人の心に響くのでしょう。
いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。
http://tetteikaisetu-chigai.lance5.net/z0417.html 【眺めると見るの違い】より
- 概要 -
眺めるとは目で何か一点ではなく、ぼんやりと全体を見渡す意味と、一点を集中して見つめる意味を指す。見るとは目で何かを視覚的に捉えるという意味を指す。
- 詳しい解説 -
眺めると見るの違いは視覚的に全体像を捉えるか、一つの対象を捉えるかである。
眺めるとは目で何か一点ではなくぼんやりと全体を見渡す意味と、一点を集中して見つめる意味を指す。前者は風景などの広い部分を対象とし、眺めが良い場所の中には高い場所から低い場所を観る事を意図しており、展望台によって眺望を楽しむことが出来る。後者は人の顔を眺め反応を窺う事を表す。その対象となる人を見ているのではなく、次の出方や感情を静観する意味がある。見るという言葉の一種である。
見るとは目で何かを視覚的に捉えるという意味を指す。例えば書類を見るなどある物を対象とする。また風景をみる場合は観るという漢字を用いて、全体像をみる事を意図する。見るという表現の場合は眺めるとは異なり極めて限定的である。
https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/18/022100010/010400128/ 【筋肉を弛緩させることによるメリットは?】より
第119回 長時間座り続ける場合は、途中にストレッチを入れる
2022/3/7 石井直方
筋肉こそ生命活動の原動力。筋肉が活動的になれば、代謝が活性化し、健康で元気な体になります。世の中にはいろいろな「筋肉の常識」がありますが、すべて正しいとは限りません。本連載では、筋肉博士・石井直方先生が、筋肉の正しい知識をやさしく解説していきます。今回は、筋肉の緊張を解き「弛緩させる」ことのメリットやデメリットについて見ていきましょう。
筋肉を弛緩させることに、どんなメリットがあるでしょうか?
第一のメリットは、筋肉の緊張を解いてやることで、安らかに眠れるような体のモードに持っていけること。全身の筋肉が緊張した状態だと、夜も眠れません。不眠は病気の元、筋力ダウンの元ですからね。
もう一つのメリットは、動作がスムーズになることです。筋肉は、姿勢を維持するためもあり、つねに多少の緊張を保ち続けています。でも、緊張が大きすぎると、いざ動作をしたいと思った時にスムーズに動き出せず、ロボットのようにぎくしゃくした動きになってしまいます。
たとえば、ヒザを伸ばしたい時にヒザの裏の屈筋が緊張していると、「イテテテ」という感じでヒザが伸びきりません。そこで、ストレッチや筋弛緩法(筋肉に力を入れてから脱力させ、緊張をほぐす方法)によって、緊張をほぐしてやるのです。
Facebook阿部 敏郎さん投稿記事
ある日、OSHOのもとにインドの大臣が教えを請いにやってきました。
「あなたの名声を聞いてはるばるやってきた。ワシが忙しいことは知っておろう。
あまり長居はできん。大いなる気づきとやらを授けてくれんか」その日は雨が降っていたそうです。OSHOは言いました。
「わかりました。それではいまから外に出て上空を仰ぎ、口を開けたまま立ってみて下さい」
大臣は言われるままに外に出て、降りしきる雨の中、顔を上に向けて大きく口を開けて立っていました。
雨は容赦なく大臣の顔に襲いかかってきます。口の中にも雨水があふれてきています。
わずか1分くらいで大臣は部屋に戻ってきました。
OSHOは聞きます。「どうでしたか。何か気づきはありましたか」
憤慨した大臣は吐き捨てるように言いました。「どうもこうもない。いったいなんて事させるんだ。雨に打たれて、ワシャ自分がアホに見えてきた」
するとOSHOは言いました。「こんな短時間に偉大な真実に気がつかれましたな」
自分は正真正銘のバカで、愚か者で、ろくでなしだと知ること以上に、偉大な気づきがあるでしょうか。自分をバカだと思っていないから、何か失敗した時「なんてバカなことやっちまったんだろう」って後悔するんです。
自分はバカだと知っていれば、バカがバカなことするのは当たり前なわけで、悔やむ余地はありません。
人間はみんな社会的には一貫した自分を演じているけれど、その実、支離滅裂で、人に知られたくない面をたくさん抱えています。
そして一般常識を身につけた理性ある社会人として生きていても、ほんとの中身はろくでなしです。バカな、ろくでなし。
あなたのことを言っているのではないですよ。これは僕のことです。
でもこのことを認めてからは、すごく楽になりました。だってそうなんだから、じたばたしても仕方ない。そりゃあこれからも社会の中では、それなりの人として生きていきますよ。
それくらいの知恵はあります。
でもどこまで行っても、たとえ真理に触れようとも、ありのままの僕の質は変わりません。
あいかわらずバカな、ろくでなしです。
本当は誰一人例外なく同じようなもので、そのことに気づくと人の理不尽さが許せるようなります。だって自分と同じバカなんだから。バカはバカ同士、許しあって生きたいものですね(^^)
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