風の又三郎

彼は単なる転校生か、それとも風の神の化身か――宮沢賢治『風の又三郎』

内容紹介

「やっぱりあいづ又三郎だぞ」谷川の岸の小学校に風のように現われ去っていった転校生に対する、子供たちの親しみと恐れのいりまじった気持を生き生きと描く表題作や、「やまなし」「二十六夜」「祭の晩」「グスコーブドリの伝記」など16編を収録。多くの人々を魅了しつづける賢治童話の世界から、自然の息づきの中で生きる小動物や子供たちの微妙な心の動きを活写する作品を中心に紹介。

内容(「BOOK」データベースより)

「やっぱりあいづ又三郎だぞ」谷川の岸の小学校に風のように現われ去っていった転校生に対する、子供たちの親しみと恐れのいりまじった気持を生き生きと描く表題作や、「やまなし」「二十六夜」「祭の晩」「グスコーブドリの伝記」など16編を収録。多くの人々を魅了しつづける賢治童話の世界から、自然の息づきの中で生きる小動物や子供たちの微妙な心の動きを活写する作品を中心に紹介。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

宮沢/賢治

1896‐1933。明治29年、岩手県花巻生れ。盛岡高等農林学校卒。富商の長男。日蓮宗徒。1921(大正10)年から5年間、花巻農学校教諭。中学時代からの山野跋渉が、彼の文学の礎となった。教え子との交流を通じ岩手県農民の現実を知り、羅須地人協会を設立、農業技術指導、レコードコンサートの開催など、農民の生活向上をめざし粉骨砕身するが、理想かなわぬまま過労で肺結核が悪化、最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行った(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


【彼は単なる転校生か、それとも風の神の化身か――宮沢賢治『風の又三郎』】

https://elonagather.wiki.fc2.com/wiki/%E7%A5%9E%E3%83%BB%E5%8C%96%E8%BA%AB  より

風のルルウィ <Lulwy of Wind> 風を司る女神です。

ルルウィを信仰した者は、風の恩恵を受け、素早く動くことが可能になります。

【好む捧げ物】死体・弓(短・長・機械・骨)

【恩恵】   感覚・速度・弓(短・長・機械・骨)・隠密・魔道具

【特殊能力】 ルルウィの憑依 (瞬間的に高速になる)

【しもべ】  黒天使

【下賜物】  ★ルルウィの神速の宝玉  ★《ウィンドボウ》

攻撃的な言動、明け広げな肢体とは裏腹に、純粋で脆い心を持っています。

マニ神とは浅からぬ因縁を持っているようです。

【降臨時の外見】

身長175~180。まっすぐな黒髪、宵明けの深く蒼い瞳。非常に美しく均整の取れた肢体、長身の美女。

碧みがかった透明感のある大きな翼を持っています。

裸体に薄く美しい布を纏わせ浮遊し、腕と一体化した、弓としても相手を斬り付ける為の鎌としても使用出来る、

彼女の意思で自由に変形する武器を具現化している事が多いようです。


http://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/kansyou2.html#%E6%AD%8C 【“風の又三郎”とは】 より

風、特に強風は、一般的に言って農耕社会の人々にとって厄介なものです。和辻哲郎の「風土」は日本を含むモンスーン地帯の自然の暴威について「人間をして対抗を断念させるほどに巨大な力であり、」しかし「湿潤なる自然の暴威は横溢せる力(生を恵む力)の脅威であって、」この地域の「人間の構造を受容的・忍従的として把握することができる。」と言っています。ですから日本各地に伝わる風の神の神事「風祭り」は概ね「敬して遠ざける」ふうのものであり、そのことはその個別的名称からも解ります。「風鎮祭」、「風止め籠り」、「吹かん堂」、「トウセンボ」、「風の神送り」・・・。二百十日の「風の盆」も元は同種の由来のものです。

 東日本には古くから伝えられる「カゼノサブローサマ(風のサブローサマ、風の三郎様)」があります。万有百科大事典(小学館)によりますと、新潟県佐渡島では二百十日に真言を唱えて風の神に災難除けを祈る行事、また古志郡山古志村では旧暦6月27日に粗末な小屋を作り、それを通行人にこわしてもらって、風に吹きとばされたことにして風の神に村をさけて通ってもらう行事が「風の三郎様」と呼ばれています。

 もう一つの面を見てみましょう。「生活の古典」(牧田茂、角川選書)では次のように言っています。

 宮沢賢治さんの童話で有名になった「風の又三郎」などという東北の妖怪も、八丈島や新潟県中魚沼郡などでは、いまも「風の三郎様」として祀られている風の神様なのです。カゼを引くという日本語などもその言葉通り直訳しては外人にはさっぱりわからないような言葉ですが、昔の人の考えでは、目に見えない悪霊のようなものが通り過ぎる時には風もないのに草が揺れたりするもので、それに行き当たるとカゼをひいたり、身体がだるくなったりするのだと思っていたのです。土佐の鵜来島(高知県宿毛市)で、身体の疲れた時など表を歩いていて、急にたまげるようなことがあって病みつくことを「悪いカゼに当てられた」といっているのなど、そのよい例であります。

 壱岐ではオコリのことをクサフルフといっていますがこれは、昔の人にとっては原因のわからない病気だったので、草をふるわせて通る目に見えぬ悪霊に行き当たったと考えたのです。(中略)

 たとえば、新潟県の山奥と伊豆の八丈島とに同じ「風の三郎」という名の神様があったというような場合ですと、それはむしろ同じ例が遠く離れた二つの場所に残っているという意味で、大変貴重な資料となるのです。これこそ、むかしの形が残っているとみてよいのですが、(後略)

 9月4日の上の野原での草々の狂態を思い起こさせる記述です。嘉助はまさにカゼに当てられたのでしょう。

 この「三郎」という名はある地方の伝承によれば、新羅三郎義光が不思議な力で風を呼び起こしたという伝説に由来するということです。(「賢治童話の方法」(多田幸正、勉誠社))

 新羅三郎義光とは、八幡太郎義家の弟で後三年の役に参戦し東北にも縁の深い源義光のことで、いわゆる忍者集団の創始者とか、合気道の始祖ともされている謎の多い人物です。彼は幼くして弓馬の道に秀で、音律を能くし、有名な笛(笙)の名手であったと言われています。その義光と風の三郎と、どちらの伝承が古いのか、また両者が同一視され始めたのはいつごろのことかなどは不明ですが、人々が風の音を聞くときには義光の吹く笛を思い起こしたであろうとは容易に想像されるところです。

 また、「三郎」の語感は「さぶ(寒)い」という言葉に連結しているように私には思えますし、実際に言い伝えられてきた「風の三郎様」には「小僧」のイメージが伴っていたこと(日本伝奇伝説大事典 角川書店)も指摘しておきたいところです。

 「三郎」ではない、「又三郎」という名は宮沢賢治の創作だと言われています。「又」は夜叉の「叉」に通じ、鬼のイメージを感じさせます。また前身作「風野又三郎」※1では、主人公以外にその兄も父も叔父も(また)、みんな名前が同じだとされていますから、そのことと関係があるのかも知れません。

 恐ろしい妖怪としての「風の又三郎」は後述の参考作品抜粋「ひかりの素足」抜粋でごらん下さい。

参考:山崎進「宮沢賢治研究ノート(10)」(「四次元」昭和28・7宮沢賢治研究会)より「山崎善次郎→山崎進宛書簡」

 作品に描写されている様な東北の山中に生れて、あの様な分教場に学び、あの様な山や川に遊び廻つた私も「風の又三郎」と云う風の神の子供を想像しておりました。

 よく父母に叱られて泣き止まないでいると父母は手で窓や障子をガタガタゆすぶつて、「ほら、風の(又)三郎が来たぞ。」と云ったもので、幼心に恐ろしいものを想像して泣き止んだものです。

 また障子の破れ目などで風がプープー音がしてゐるのを聞くと、もうすつかり「風の(又)三郎」が来るものと信じておつたものです。

 作品中の嘉助も「風の又三郎」とはその様なものと信じておつたのではないでしようか。東北の子供達が今でもそうした原始的畏怖感情が仂いておるかどうかは、わかりませんけれど・・・・・

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