Facebook玉井 昭彦さん投稿
認知症の母がくれた「老い」と「死」への予習時間 落合恵子さんの介護
作家・落合恵子さんは、パーキンソン病や認知症だった、母・春恵(はるえ)さんを7年間自宅で介護し、見送りました。母の死から15年、「リビングウィル(生前の意思表明)」を毎年書いているという落合さんは、二人で過ごした日々を“予習時間”のようだったと振り返ります。
落合さんの話に耳を傾けるのは、前立腺がんの闘病経験があり、2021年には認知症の父を見送った演出家・宮本亞門さんです。
母を自宅で介護すると決意
女性の生き方や子どもたちの未来、環境への提言など、さまざまなジャンルの作品を手掛けてきた、作家の落合恵子さん。
2018年、落合さんが21年ぶりに発表した長編小説『泣きかたをわすれていた』は、自宅で母を介護し、看取った主人公の人生を描きました。この作品の元になったのは、落合さん自身の体験です。
「おかあさん」確かにそう呼んだのだとわかった。言葉を覚えたばかりの幼い子どものようにたどたどしく。
「おかあさん」掠れた声がまた呼ぶ。目がわたしに向いている。
紛れもなく自分の母親そのひとに、「おかあさん」と呼ばれた娘は一体どうすればいいのだ。
どう応えたらいいだろうか。
(『泣きかたをわすれていた』落合恵子)
2000年、落合さんの母・春恵さんは、パーキンソン病やアルツハイマー型認知症などを発症していることがわかりました。落合さんは、自宅で母を介護することを決意します。そう決意するまでは自然な流れだったといいます。
落合:母も祖母をそうやって見ていましたので、無意識のうちに予習をしていたのかもしれません。仕事を続けたいという思いはありましたから、たとえば(母を預け先に)お願いすると、私はどこかから帰って羽田や東京駅に着いてから、そこ(母の預け先)まで行って数時間過ごして、また自宅に帰って・・・。そのほうが、むしろ無理な気がしました。私の家だったらそのまま母の部屋に直行できる気がして、やってみようと。
手探りのなか始まった自宅での介護。作家として発信している内容と、自身が置かれている現実には違いがありました。
落合:最初のころは介護保険もなかったですから、親類縁者みんなに力を貸してもらいつつ、もうバタバタという感じ。ちょうどそのころ、介護について、だんだん社会化をしていきましょうという時代だったんですね。娘とかご長男の配偶者が見るのがすべてじゃなくて、私も「社会化」と主張していました。現実には自分の人生ではむしろ社会化というより、内側で母を見ていたというのが事実ですね。私の葛藤より周りの葛藤がすごかったですね(笑)。
宮本:どんな葛藤ですか?
落合:「(介護が)いつまでも女性の仕事になるのは違う」と思っている友人が多いので、「どうしてうちでわざわざ見ちゃうの? 変でしょ」っていうのがありました。よくお手紙をいただいたんですが、「親をどこかにお願いしてしまった後ろめたさが自分の中にある。そうじゃないあなたを見ていると、なんとなく納得いかない」とか・・・。私はどっちが良いと一度も言ってないし、その家族とその親子にとってベターな方法を見つけるしかない。選べればいいんですが、そこがなかなかうまくいかないんでしょうね。
宮本:女性だから、男性だからではなく、誰でも本当に自分が介護したいと思えば、という考え方ですね。
落合:そう、介護される側も元気なうちに選んでおいたほうがいいですよね。「私の希望表明書」というものを作っている団体があります。もし介護が必要になったら、あなたはどこがいいのですか? 自宅、病院、あるいはその他の施設、あるいはグループホームとか、意思を記載するようになっているんです。それをやっておくといいのかなって、これも予習でしょう。
宮本:「私が(介護する)」と決意したあとに後悔することはなかったんですか?
落合:「大丈夫?」という自分への問いかけはありました。当然ながら睡眠時間はなくなりますし、呼ばれたときにすぐ行けるように、お風呂に入っても扉は全部開けっ放し、トイレに入っても同じで。でも人間って不思議ですね。だんだんそれに慣れていく。もう1つ私にとって救いだったのは、同じ状況にある誰かと深夜、電話で話すこと。やはり昼夜逆転気味の親御さんを見ている友だちから電話がかかってきて、あるいはこちらがかけて。「今日はね」っていうその日の報告から始まって、いろんな情報の交換を重ねた記憶があります。
宮本:親子の関係とか、いろいろなことが絡んでくると思います。とくに、落合さんはお仕事を沢山なさっているから、自分の時間が少なくなったり、睡眠時間がなくなってきますよね。
落合:新幹線に乗って発車する前に寝ていることもありました。
宮本:失礼な言い方になりますが、(介護は)先が見える期間限定ではない分、これがいつまで続くか分からない分、介護する側もどうやって精神を保っていくのか気になります・・・。
落合:妙なところで笑えたりするんですよ。毎朝母にCDかけて、懐かしい歌を聴いてもらいました。ある種の音楽療法です。童謡の「船頭さん」には、「今年六十のおじいさん」という歌詞があります。その日、私60歳になったので、その歌詞が出た瞬間に「お母さん、私、おばあさんになったよ」と言うと、認知症が進んでる母でしたが、声をあげて笑ったんですね。あの笑いは、話の中身の理解ではなくて、私の楽しそうな声に対する反応かなと。笑ってくれるだけで嬉しかった、いろんな体験があります。
7年間の介護は「老い」と「死」の予習を贈られたようだった
落合さんが生まれたのは1945年。母・春恵さんは未婚のまま出産し、戦後の混乱期、一人で子育てに奔走しました。そんな母を介護した日々は、落合さんにとってかけがえのないものでした。
落合:母はシングルマザーなんですね。1945年の敗戦の年に私を出産している。当時ですから、親類縁者からもいろいろ言われて。祖母からも、恥ずかしいとか、そういう言われ方をした中で、私を育ててくれた人なので、たぶん、そのへんの思いと重なるものがあったかもしれません。
宮本:そうなんですね。お礼じゃないけども、頑張ってくれたお母さまに自分も出来ることをしてあげたい、っていう気持ちがあったんですね。個人の歴史とか個人のストーリーによって・・・。
落合:もちろん介護は社会的テーマですが、一般論では語れない個人の歴史がいちばん大事なことなのかもしれないですね。
7年にわたって自宅での介護を続けた落合さん。母・春恵さんを自宅で見送ることになりました。
介護が始まって七回目の夏が来ていた。
「入院を希望されますか?個室をとる手はずはできています」
在宅医療の若い医師は言った。
この後何が告げられるか、ここ数日間の母の変化を通して想像は難くない。
わたしの心はずっと以前からそう決まっていた。最期まで母と過ごす。
医師を送り出して、母の部屋に戻ってすぐだった。
母は生きなければならないという責務を、自力で解いた。
全エネルギーを消費しているように見えた下顎呼吸がとまった。
(『泣きかたをわすれていた』落合恵子)
発症からほぼ7年たった2007年8月、母・春恵さんは息を引き取りました。母・春恵さんを看取見送ってもうじき15年。振り返ると、今でも後悔することは少なくないと言います。
落合:突然、症状が急変して、救急車で病院に運ばれたことも何度かあります。母は本当に望んでいたのか? 彼女の中で、もしかしたらもっと前に、“句読点”を打ちたいという思いもあったかもしれない。緊急入院したあと、胃ろうについて、ずっと「ちょっと待ってください」と言っていたんですが、それ以上お断りできなくて受け入れたんですね。胃にカテーテルを通して、高カロリーの栄養をとる。と、恐ろしいほど肌がつやつやしてくるんですね。「本当にいいのかな? 答えてくれないから私はそのままいくしかないけれど、答えてよ、お母さん」と思ったときはありましたね。
宮本:悩みますよねえ。本当に良いことをしているのかって。
落合:彼女の人生、生き方を考えると、たぶんこういうふうには望んでないであろうことはわかるんです。でも、それはあくまで私の想像でしかありませんから、決められない。最もつらかったことのひとつですね。
宮本:僕も(父を介護していた)継母と「(父を)いったんどこかの病院か施設に入れた方が良いのかどうか」とついリビングで話をしてしまったことがあって、ふっと見るとおやじが寂しそうな顔で聞いていたんです。小さな声で話したいたのですが、聞いていたんですね。補聴器を外していたから聞こえてないと思いきや、全部聞いていた。その時、おやじに「もう自分はこれ以上生きていても迷惑をかけるんじゃないか」と思わせたんじゃないかって、すごく後悔しました。誰だって、自分が生きていることが家族にとって迷惑だと思うことほど、辛いことはないじゃないですか。だから本人も交えて「本人がいちばんに何をしたいか」をちゃんと聞くべきだったし、話すべきだったと思いました。
落合:何がいいかわからなくなっちゃいますよね。
宮本:生きるってエネルギーだし、本人が「まだ生きたい」っていう思いを失くしたら、生きる力もなくなっていきます。その後、本人がこれ以上、生きたくないと思っても、それでも無理やり生かせるのもどうかと・・・。
落合:本当につらいことだと思います。
母・春恵さんを介護して見送った7年間。今振り返って、落合さんはどう感じているのでしょうか。
落合:とてもハードでいつも睡眠不足で、「すみません、原稿は明日にしてください」と電話をいろんなところにしたとか、そういうのはたくさんあります。 でも、明日の保証がないかもしれないというところで、向かい合っていく 時空の濃密さというのかな。それはとても私にとっては大事な、ちょっと恥ずかしいけれど、宝物として私の中に残っているし、私個人がこれから迎えるであろうというか、もうすでに迎えている老いとか、加齢による変化に対する予習と、人は必ず、公平に誰もがこの道を通っていくのだということの予習と、2つあるような気がします。
宮本:僕も前立腺がんになって、後遺症で尿漏れがあって、パッドを使ったことは素敵な予習だと思っているし、まあ誰も年を重ねるとシミだ、シワだと、いろいろくるじゃないですか。朝起きたとき、こんなバケモノみたいな顔をしているんだって自分で思ったり、町歩いたときにふっとウインドーに映った姿を「誰?このおじいちゃん」と思ったら自分だったり、昔のアルバムを見るとその変貌ぶりに驚いたり。 でも、僕は絶対、全部この目で、目をそらさず見ようと思っているんです。こういうふうに動かなくなるんだとか、自分が若いときに見ていたおじいちゃんはこんな気持ちだったのか、知ることもできる。“知ることができる”って素晴らしいことで、嬉しいことです。わからずに死んでしまうよりは、こうやって老いを確認しながら、「これでも生きているってことはすごいんだな」ってことを勉強している。いろんな症状も状況もそのための予習かなと思って、なるべく見ます。
落合:素敵ですね。私も、ショーウィンドウに映った自分を見て誰?って言ったときがあります(笑)。でもこれも私、っていう感じで。
宮本:誰だって老いるんだから、なんにも悲しいことじゃない。死ぬ瞬間まで、沢山のことを知って、学ぶことができると思うんです。
また、落合さんは自身の介護経験を通して、社会に対して感じたこともあるといいます。
落合:社会的にもっと選べるオプションを増やさなきゃいけないと思います。今、介護は徐々に在宅に変わってきていると思うのですが、そのためのインフラが社会構造としてどこまであるのかというと、全く少ないと思う。だから、「違うと思います」とか「本当は介護ってこういうものじゃないですか?」と声をもっともっと上げたりしなければならない。
友人の死をきっかけに書き始めた「リビングウィル」
2022年に77歳になった落合さん。自分が見送られる側の立場に近づいていることを意識せずにはいられません。
そんな落合さんが20年以上前から書き続けているのが「リビングウィル」。人生の最終段階(終末期)を迎えたときの医療選択について事前に意思表示しておく文書です。
人生の締めくくりが近づいている今、落合さんは、これまで以上に「自分を生きる」ことにこだわりたいと考えています。子どものときから母にかけられた「自分の人生は自分で決めなさい」という言葉を、今も大切にしているからです。
落合:戦争を体験した母は、「自分の人生」と言いながら何ひとつ叶わなかった日々もあったでしょうし、これからの子どもたちは自分の人生をちゃんとつかんで生きていきなさいという思いがとても強くあったんだと思うんですね。ですから、いろんな場面で言われてきましたね。それが老いになると、最後の瞬間も可能な限り自分で決めたいって思うようになったんですけれど、ただ、そうは言っても思い通りにならない。ここが苦しいところですよ(笑)。
宮本:本当にそうありたいと思うとともに、わからないんだろうな。今いちばん最後の瞬間に自分がやりたいことは、みんなに「ありがとう」って言うことですね。「本当にありがとう!」って。誰も一人じゃ生きられない、家族や友人、多くの人のお陰で生きてこれた「いろいろありがとうね」とだけは言いたいかなあ。もし万一、自分が突然、死ぬ時があるかもしれないし、まだ意識をなくす前に、感謝の気持ちだけは書いておきたいなーと思います。
落合:そうですね。
落合さんがリビングウィルを書き始めたきっかけは、2人の友人の死でした。
落合:30代後半と40代後半にとても大事な女友だち2人を亡くしているんですね。言葉で「私はこうしてほしい。ああしてほしい」というのは聞いていたんですが、ドキュメントが何も残ってないんです。そうすると、日本の家族制度の中だと、家族以外がそれらについて聞いていても、ほとんど力を持ち得ない。とするならば、やっぱり書いとくしかないかなと思って。だから彼女たちのことは1つの予習であり、同時に宿題であったって言えるかもしれないですね。今でも、母に「答えを出しておいてくれたら良かったのに」と思うときがあります。
宮本:やっぱりそうですよね。死のことを話すと、とにかく不吉だって言われたりしますが、みんないつかは死ぬし、ふだんから「どう思う?」っていうのは会話としてやったほうがいいですよね。突然(話が)来ると、それを書く時期に来たのかしらと変に緊張しちゃうので。
落合:聞けなくなっちゃう。
宮本:そうそう。言いづらいとか、変に気を使っちゃうので。そうじゃない(ときに)会話をしておいたほうがいいですよ。死のことを話すことでお互いをもっと理解出来るし。
リビングウィルには具体的にどんなことを書くのでしょうか。
落合:私は書店とか、小さな出版社とかをやっていますので。東京、大阪を入れるとスタッフが少なからずいる。私がいなくなったあとでも、彼女たちが大丈夫という状況を可能な限り作っておきたいので、「こういうふうにしてください」って書いて。 もう1つは、どうか私にこの状況が来たときは 自然な形で終わらせてください、と。たとえば、この激痛がどうにも治らない場合は、これ以上、人工的な何かでわたしをこちら側に引き止めないでください、それを選んだことによって、あなた(医療従事者の方々や、近しい他のもの)が、ご自分を責めないでください。これは私の100%の選択です。お付き合いいただいてありがとうございました・・・・・・、というのを書いています。
当初は「何をやってるの?」「不吉なこと」っていわれましたが、これ、1月1日の私の書き初めです。自分自身で書くことによって、生きることの意味と向かい合えるっていうのもありますね。1月1日にそれを書くことで「あ、今年もまたちょっとやってみよう」という気持ちにはなりますね。
宮本:なるほど。自分が「よし、生きよう」っていうことのためにもなるんですね。
人生は一冊の本 楽しんで生きていきたい
小説『泣きかたをわすれていた』の終わり近く、母親を見送った主人公が70歳を超えて、人生について語った一節があります。
人生は一冊の本である。そう記した詩人がいた。
もしそうであるなら、今日までわたしはどんな本を書いてきただろう。
もしそれに色があるとしたら、何色に染まっているだろう。
確かなことはひとつ。
若いと呼ばれる年齢にいた頃、
気が遠くなるほどの長編と思えた人生という本は実際には、驚くほど短編だったと言うこと。
ひとは誰でも平凡な、けれどひとつとして同じものはない本を一冊残して、そして死んでいく。
書店にも図書館にも、誰かの書棚にも古書店にも置かれることはない、一冊の本。
誰かがそのひとを思い出す時だけ、頁が開く幻の本。
そのひとを思い出すひとがこの世から立ち去った時、その一冊の本も直ちに消えるのだ。
(『泣きかたをわすれていた』落合恵子)
人生は一冊の本だと語るこの一説に、宮本さんも共感します。
宮本:素晴らしいですね。僕の場合は、“舞台”であると(笑)。自分の人生も一つの舞台で、自分が主役として立ち、自分がシナリオを書き、自分が演出する。そこに生きてきた証があります。
落合:若い時、人生はうんざりするほど長いと思っていたんですよ。今になると「え!?」って感じですね(笑)。
宮本:本当にそうですね。こんな人生いらないって何回も思っていたのに、歳を重ねると「なんておもしろいんだ」って。日々感謝するようになります。 今日は落合さんと、いろんなことをお話しさせていただいて、やっぱり生きよう。周りにうざいと言われようが、元気すぎると言われようが、生きて、生きて、できることを楽しんやろうと再確認させていただきました。周りのことを気にして、ドキドキするよりも、自分の生き方で、一度しかない人生を全うしたいと。
落合:本当のこというと、わからないです(笑)。わからないですが、可能な限り、一つひとつ選択して、可能な限り窓を開けて、外の景色を楽しみつつ、生きていきたいなと思いますね。生きていること自体がすごいんですよね。本当にそう思います。
※この記事はハートネットTV 2022年2月9日放送「~母がくれた死への予習時間 落合恵子~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。
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