天外 伺朗 ***「死の瞑想」***
高名なセラピスト、玉依 真乙さんが天外塾の「死の瞑想」の感想を書いてくれた。いま日本で、これほど本格的な「死の瞑想」を実施しているところは他にないだろう。
いまは癌患者を対象とした「死と再生の瞑想ワーク」セミナー(https://officejk.jp/seminar/detail15/)で実施している。
玉依 真乙
2016年9月24日 · 東京都東京都世田谷区 ·
《死の瞑想体験》
天外伺朗さんの「死の瞑想」を受けてきた。凄いタイトルだ。「チベットの死者の書」を素材として使った瞑想ワークで、現代人のほとんどが直面できておらずモンスター化しているという「死の恐怖」から、ちゃんと死を見つめて実存的変容を起こしていこうという意図のもの。
起きることは人によって違うはずだけれど、せっかくの機会なので自分なりに起きたこと、体験を書いてみる・・
まず遺書を書くところから始まるのだけれど、あと僅かの時間で死ぬのだと思いこむと、身近な人たちに対して、かなり本気の言葉が出てくるものだ。手が痛くなるほど、制限時間内いっぱいいっぱいに書き綴りたくなる。時間が惜しいほどに。自分はこんなに人を愛してた人間なの?とびっくりするくらい。
まもなく「死の瞑想」が、天外さんの誘導で始まる。
瞑想が進むなかで、改めて時々やってくる「まだやっぱり死にたくない」という思い「できれば逃げたい」とか。バンジージャンプ的なアクティビティの前とか、小さいころに、歯医者さんの椅子に座った時に感じた恐怖みたいなやつが、拒絶感を伴って時々ふっと沸いてくる。「怖い、やだ、帰る!」みたいなやつ。
そういえば、一休さん「死にとうない」言ってたな・・ええ、私もやっぱり「死にとうない」。よく言った。ほんとそうだ。恐怖がふっと沸いては消え、沸いては消えていく。もう、自分という存在には戻れないのかという・・絶望にも似た、受け入れられなさ。(人生を振り返るとかこれまでの人生が走馬灯のように見えてそこに意味を見出すとか・・そんなのは浮かびすらしなかった。。)涙がつつーと流れてくる。
拒絶感と、何も感じないような無の感覚とをなんとなく繰り返すなか、ある時点、何かがふっきれたのか、平安な感じになってゆくというか、何かにゆだねてゆくような感覚になってきた。流れのままにたゆたう・・軽ーくなる時点がやってくる。静けさと平安。意識がフラットになり、人間関係含め、後ろに残したことがただただ、過ぎ去ってしまった何か、になって意識から遠のいてゆくような。
正直なところ、この時点で瞑想の誘導はあまり聞いてなかった。もっと言えば、多少寝ていたのかもしれない。それくらい緩んでいた気がする。
本当に死んでゆくときには、またもっと違う体験になるのかもしれないし、それはまたその時のお楽しみとして、今感じるのは・・死は『いつか必ず自分の身に起こる何か』なのだ、という深いところでのサレンダー、実感を伴った理解。死の存在を受け入れたところからやってくる、不思議な・・あきらめにも似た安堵感。そのうえで、『今は確実に生きているのだ』、というあらためての認識。生の感覚。
「死を知ることで、生を知る。。。メメントモリ、死を思え」
言葉にするとこれほど陳腐なことはないのだけれど、体験(疑似体験ではありましたが・・)として知ることと頭での理解はあらためて全く別物であるということも、実感でした。意図されていた「実存的変容」が起きたのかはわかりませんが、いまだに何か重たい感覚はあるものの、どこか静かな腹の座り感みたいな感覚はあるかな。
あとから腑に落ちてくるものはこれからまだまだありそうですが・・いやきっとあるに違いない。今は熟成させてみたい、そんな体験。貴重な機会をくださった、「愛すべき死神」天外さんに心から感謝を。
Facebook【あけみの部屋】(徹子の部屋風(^。^)岡部明美 ··さん投稿記事
「なるようになる」
本好きなので毎月新刊もかなり読むが、過去、繰り返し読んできた本を本棚から時々取り出してパラパラとページをめくるのも好き。
同じ本を何度も読んでいるのは、池田晶子さん(哲学者)の本とOSHO(瞑想指導者、神秘思想家)の本だなあ。
娑婆キャラの奥に、本質的なことにしか興味がない自分がいる。昨日は池田晶子さんの本をペラペラめくっていたら、この「なんとかなる」の文章がまさに!って感じだったな。
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「なんとかなる」とは、主体性の放棄ではなくて「プロセス」と「必然性」への信頼なのだ。
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「わかる」ということ、「感じる」ということは、自分の死を他人が死ぬわけにはいかないのと同質の厳しく孤独な経験なのだ。
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しかし、これもまた人の心の真実なのだが、人が他人の欠点や失敗を指摘して責めることができるのは、その同じものが自分にあるのでなければ、他人のそれに気がつくことすら不可能のはずだからである。
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自分と他人を分けられないのは、他人とは自分だからである。愛とは、つまりこういうことである。
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自分というものが「ない」と知ることによってこそ、人は個性的な人になる。
こうとしかできない自分を知る。
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楽観タイプの私が、人生の七転八倒、紆余曲折を経てきて、今思う「なるようになる」という感覚は、主体性の放棄ではなくて「プロセス」と「必然性」への信頼という感覚がぴったりなのだ。
「どっちでもいい」というのも決して、なげやりでも、あきらめでもなく、執着を手放せば、そもそもの自由と自在と愛は、すでに「有る・在る」ということへの理解なのだ。
「感じる」ということ、「愛」「投影」「ノンデュアリティ」についても池田晶子さんらしい表現でやっぱり好きだなあ、この人。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
人は誰もがやがては死を迎えますが身近な人の死というのは改めて様々なことを感じさせてもらえるとても大切な宝物のような体験なのだと思います
誰かの死を通していつも僕が感じるのは喪失の寂しさと共に「死はいいもんだなぁ」という感覚です
僕の深いところには源に帰った人を祝福したいという思いがあります
だって生きるということは本当に大変なことの連続だからです^ ^
こんな事を言うと怒られるかもしれませんが生きているということが不意に面倒くさく感じる
ことがあります
これから先どれだけ生きたところでその瞬間瞬間の自分のやるべきことをやっていくだけで
つまりどこまでいっても「今を生きること」それしかないわけです
だからもういいんじゃね?と不意に思ってしまう時があります
そんな僕にとって瞑想の習慣が何よりも大切なのは実のところ瞑想とは「死」と同じことだからです
深い瞑想の中では「自分」というアイデンティティは死んでしまいます
普段、あれをしたりこれをしたり色々と考え揺れ動く「自分」というものが瞑想の中では
消えてしまいます
そして不思議なことにその時間こそ人生の中で何よりも命をダイレクトに感じる時間なのです
自分が小さくなっていけばいくほどつまり自分が消えていくほどありのままの命である本来の自分に戻って行くのです
そして本来の自分とは愛と安らぎそのものなんですね^ ^
これは僕にとっての体感でしかありませんが つまるところ死とは 愛と安らぎへの通過点にしか過ぎないのです
だから肉体の苦痛やあらゆる精神的な苦しみを超えてその凄まじい葛藤を自身の全存在をかけて通りこしていった魂に本当のところはただただ敬意と祝福しかないのです
死は忌みごとなどではないのです と言っておきながら ここまで書いてふと思ったのですが
やっぱり僕たちは「生きる」という事がやりたくてこの地球に来たのだと思います^ ^
なぜって生きているということが全ての起点だからです
だからこれから先どれくらい生きるかは天のみぞ知るですがこの「生きる」ということでしか味わえないあらゆる体験を楽しもうと思います
その中には苦しみや痛みが当然あると思いますがそれすらも貴重な体験の一つとして 味わい尽くして いきたいと思います^ ^いつもどんな時も死が生を照らしてくれます
死は生の灯台です メメント.モリ「死を想え」とは ちゃんと死を超えていくために
命を全力で生きなさい、という死から生へのエールなのでしょうね^ ^
生きることの大切さ そして 死ぬことの大切さ 全ての命が それを忘れずに いさせてくれます
あらゆる存在に感謝しかありません ありがとう😊 合掌🙏 そしてらぶ💓
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