Facebook松久 正さん投稿記事
地球も人間の身体と同様、生命体です。ですから、常に自身に調和を築こうとする働きが生じています。そして、地球人の集合意識と地球意識とは、お互いが成長するように絡み合っています。
今回の御嶽山の噴火も、人間の身体に不意の脳出血や眼球出血が起こるように、地球のあるべき変化としてとらえることになります。犠牲になられた人々は大変お気の毒ですが、これも犠牲者の超深層意識である魂の動きと地球意識との絡み合いとしてとらえれば、犠牲者の魂も事象を観察する私たちも、少しは癒されるでしょうか。犠牲者の魂は、私たちにある学びを提供した役割により、必ず進化します。私たちも、この地球生命の変化より、大事な事を再認識します。
それは、呼吸するということが、いかに恵まれた、素晴らしい事かということです。私たちは母体からこの世の環境に生まれ出た途端、人間の叡智(神経の流れ)による指令により、誰に教わる事も無く、呼吸を始めます。生きるために必要なエネルギー合成に不可欠な酸素を取り入れ、二酸化炭素を排出します。それは、また、地球生物である植物により消費され、結果として酸素が生産されます。
火山噴火は、この生きるのに最も重要な呼吸を侵しました。
私たちは、宇宙の叡智によって与えられている恩恵を、もっと感じる生活をするべきです。過去の後悔や未来の不安に自分のエネルギーを費やすのではなく、今のこの恩恵を味わうのです。自分が生きている事が嬉しくなります。
聖地ネットワークをまとめていたら 出雲と天照(北の大陸と南の大陸、陰と陽)の対立が富士の噴火をぶのではないか?と考えてしまいました。
理由その1
以前出雲巡礼の時 伊勢神宮に出雲の神も祀られたと聞いた記憶があります。
もしかしたら 出雲の神は 和歌山県の日前国かたす【(ひのくま国かたす)神宮:熊野三山がご神体】に祀られ 明治時代の国策により熊野詣が廃れたと考えられないでしょうか?
和歌山と出雲は深い関係にあったことは下の資料からも 考えられます。
その2
中央構造線は東アジア大陸と東南アジア大陸の 大断層で 出雲側は東大陸側のエネルギーの神、「コノハナヤサクヤヒメ」富士ライン側は東南アジアのエネルギーの神。【鹿児島県の笠沙の岬(笠沙の岬の地名は「ニニギノミコト」(神武天皇の曽祖父)と「コノサクヤヒメ」の出会いの場で有名な地。)四国の足摺岬、室戸岬の3岬をつなぐと朝熊ケ岳(あさまがだけ・
伊勢神宮 奥の院)から富士(あさま大社)に至る。】
その3
地質も 出雲側は世界でまれな 墓石=花崗岩・御影石が埋もれた大地→黄泉の国支配
「コノハナヤサクヤヒメ」側は緑の蛇紋岩が産出。
大陸側は 最近まで裏日本といわれ 過疎化が憂われるほど。
その4
「鳥取の氷ノ山(氷ノ山)、蒜山(ひるせん)、大山(だいせん)→本来の修験道のメッカ
島根 出雲:出雲は熊野の日嗣(霊魂を継ぐ)
空海は知りつつも 熊野巡礼よりも 四国を巡礼地として選んだとのことです。
その5
神無月の時も「エビスさんは 出雲にいらっしゃっていないから そう呼びたくない」という 話を 小耳にはさみました。
神々が出雲に集まるという謂われは 廃れたのでしょうか?
二つの富士山ラインは 熊野詣・軽視から 陰陽のバランスを失い 富士山噴火の危機が訪れたと考えられないでしょうか?
<インターネット資料>
http://anou.mo-blog.jp/koan/2012/05/post_77c3.htmlより
熊野は、現在では和歌山県と三重県とにまたがっている。熊野三山はいずれも和歌山県に属しているが、熊野市は三重県の最南端の町である。
その熊野市有馬町には、『花の窟(いわや)』と呼ぶ奇岩があって、日本書紀によれば、イザナミの葬られたところと伝えている。
そしてここにも、神倉神社のゴトビキ岩と同じく岩塊がそそり立っている。道路を挟んですぐ隣は熊野灘である。
もともと神の寄りつく場所だったらしく、今も『お綱かけ』という神事が行なわれている。
これは、葬られているイザナミの『魂(みたま)を祭るには、花の時にはまた花を以(も)ちて祭る』。また鼓(つづみ)・吹(ふえ)・幡旗(はた)を用(も)ちて、歌ひ舞ひて祭る」という日本書紀の記事(第五段一書五)に基づいていると言い伝える。
熊野は異界と接触する土地である。その昔、秦の始皇帝に命じられた徐福(じょふく)が、永遠の命を手に入れるために蓬萊山めざして大海原に漕ぎ出した。
そしてたどり着いたのが熊野だったと伝えられ、いつのことか、新宮市に墓ができた。中世には、仏教における異界である補陀落(ふだらく)への渡海をめざす修行僧たちが集まるようになり、出入り口を塞いだ小舟に乗って太平洋に漕ぎ出していった。
那智駅の近くには補陀洛山寺があり、那智大社の隣りには青岸渡寺が建つ。
古事記の神話では、木の国(紀伊国)は、スサノオのいます根の国の堅州(かたす)の国につながっていた。
紀伊の国と出雲の国は、熊野という同じ地名があるということからも想像できるように、理由は明らかではないが、かかわりの深いところである。
中心としてのヤマトからみれば、どちらもクマ(隈)であり、だからこそ異界に接触できる場所なのだ」(三浦祐之「古事記を旅する」文藝春秋)
再び「出雲国風土記」を振り返ってみよう。
建築様式だが、出雲大社は「大社造り」といって、伊勢神宮の「神明造り」との類似点が指摘されている。けれども、どちらかといえば伊勢神宮の神明造りは南方系の要素が強いらしく、東南アジアの多くの地域で見られる高床式・高倉穀倉を原型とするようだ。それに対して出雲大社の大社造りは大陸系に近いと言われる。いずれにしても海を越えて輸入された外来の建築様式が、中央政権の創設と時期を同じくしながら少しづつ形式を整えていったに違いない。
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