再検証

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学ぶ会で紹介いただいた今日の特選ねずブロです。

秦の始皇帝悪玉論は、いまだに根強く残っているようです。

それが実は誤解であるという論考が「大紀元」で紹介されました。

https://www.epochtimes.jp/2016/09/26066.html

この話に明らかなように、Chinaではいわゆる史書における歴史認識として、古代から現在に至るまで、多くの場合、正が邪に、邪が正として入れ替えて語られていることが多い傾向があります。

どのようなあくどい手段を使ってでも勝てば良いと考える人が天下を取り、それまでにやってきたあらゆる非道を正当化するために歴史を書き換える。

要するに、歴史に何を求めるかによって、そこで描かれる認識は異なってくるのです。

日本人は、歴史を「現在を生き、未来を拓くための過去の先例」ととらえます。

昔の時代劇で、よく「さようなことには先例がございませぬ」などというセリフが出ますが、長い歴史を持ち、しかも記録好きな日本人は、今目の前にある事態には、必ず、過去に同様の事態の経験を歴史上持っています。

だから過去を、今を生きるためのお手本にします。

歴史はそのためのものですから、だから日本人は、歴史に正確さを求めます。

ところがChinaでは、不条理を行った権力者が、自分に都合よく正邪を入れ替えて記述したもの、ないしは、そうやって新たな権力者が、あたかも英雄であるかのような記述を出来得る限りもっともらしく記述することで、地位を得ようとした者が書いたものが歴史です。

ですから、現代に例えてみれば、天安門事件はなかったことになるし、全国の中学生が勉強をしないでデモばかりを行い、学校の教師を殺して食べた文化大革命は、後に英雄を排出した英雄的事業であったと認識されます。

つまり彼らにとっての歴史は、いつの時代にあっても、政治的プロパガンダにすぎません。

では、Chineseが全員、そういう、いわば「騙し」に乗っているのかといえば、実は決してそんなことはなくて、いまのChinaにおいて、真・善・忍を唱えて、Chinaにおける「良心の歴史」をあらためて復活させ、学んでいこうという人たちがいます。

なるほどChinaの史書はプロパガンタですけれど、そうした嘘は、かならずほころびがあるものですし、そうした点を見極めていくと、本当に不条理のために真剣になって戦った人や、民衆が少しでも豊かに安心して安全に暮らせるように、生涯を慈愛のもとに生きた偉人も、歴史上にたくさんいるのが、Chinaでもあるわけです。

これは、そうした歴史を丁寧に掘り起こし、ほんとうの意味でのChineseとしての誇りを取り戻していこうという動きであり、これが現実にできるのが、Chinaという国の実は懐の深さです。

この点が、ただのファンタジーしか持ち得ないオトナリの国との大きな違いです。

私は、Chinese=悪玉という考え方は間違ってると思っています。

Chineseであっても、ありきたりの日本人よりもはるかに立派な人は、歴史上も、そして今の時代においてもたくさんいるのです。

ところが、そういうまともな人たちが、かえって現在の中共国家の中で、迫害の対象となっているという事実があります。

そしてその迫害にもめげず、まけず、Chinaの歴史をもう一度検証し、これまで善玉とされてきた人が、実はとんでもない悪党であり、これまで悪玉とされてきた人たちが、実は、きわめてまともなきちんとした人たちであったということを、ひとつひとつ明らかにしていこうとしている人たちが、実は、数多くいます。

そういう人たちによる、まともな政権が誕生すれば、Chinaは十分に変われる可能性があるのではないか。

それは、日本を取り戻すというわたしたちの活動と同様、道は遠いかもしれないけれど、ChineseがChineseとして本来あるやさしい心や、愛する心といった人間性を取り戻して行こうとする動きでもあります。

そういうまともな人たちを、私はこれからも応援していこうと思っています。

https://nezu3344.com/blog-entry-3147.html#more 【秦の始皇帝の再検証】より

「大紀元」様のご承諾をいただきましたので、こちらのブログでも皆様にご紹介したいと思います。

先に3つのことを申し上げておくと、

先ず第一に、秦の始皇帝は、漢族ではなく、突厥(とっけつ)です。

突厥は、いまのウイグルのことで、唐代まではウイグルは黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドです。

その後、中央アジアでトルキスタンを制圧して混血し、いまのように変化しました。

Chinaは古代において、農耕民族であるモンゴロイド系先住民と、あとからやってきた狩猟系コーカソイド移民との間で激しい殺し合いが起こりますが、これによって中原を追われて周辺民族となっていったのが、いまのChinaの少数民族と呼ばれる人々といわれています。

つまり秦の始皇帝は、過去において中原を追われたモンゴロイドが、再び中原を制圧してChinaをひとつに統一し、始皇帝を名乗った人、ということになります。

つまり外来王朝です。

ただし、ウイグルの特徴として、彼らは人も家畜も、生き物はすべて財産と考えます。

つまり人を財産と考えて、China全土を統一した始皇帝が、ただいたずらに残忍なだけの人物とは考えにくいのです。

二つ目に、先般ご紹介した秦の将軍、司馬穰苴(しばじょうしょ)があります。

彼は、『司馬法(しばほう)』という書を顕し、そのなかで、

 国が大なりといえども、戦を好めば必ず亡(ほろ)ぶ。

 天下安らかなりといえども、戦を忘れれば必ず危うし。

( 國雖大 好戦必亡 天下雖安 忘戦必危)

と説いています。

秦の軍隊は、当時のChinaにあって最強で、その勇猛な秦軍の将軍が、上記のような言葉を残しているわけです。

(言葉の詳細については↓参照)

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3102.html</u>">http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3102.html

部下を見れば人がわかるといいます。

これだけの人物が将軍として仕えた始皇帝が、ただの暴君とは実際考えにくいのです。

三つ目に、兵馬俑(へいばよう)があります。

始皇帝陵から発見された俑は八千体に及びます。

そしてそのひとつひとつの顔かたちが、おそらくは実際の兵を生き写しにしたものであったろうと言われています。

しかも発見時には、兵士の俑は、無彩色に思われたのですが、その後の調査で、できた当時は、極彩色に塗られていたことが判明しています。

巷間言われてきたように、始皇帝が乱暴な暴君なら、ほんものの人間を埋めたことでしょう。

けれど始皇帝は、雑兵を道連れにするのではなく、親兵の人形(俑)を一緒に埋葬することを選んでいます。

これは、始皇帝が兵たちを信頼し、兵たちもまた始皇帝を慕っていなければ、およそ行われないであろうことです。

というわけで、おかしいなとは思っていたのですが、このたび大紀元に、良い記事が掲載されましたので、ご紹介に至った次第です。

大紀元の本文のご紹介の後、すこし私の考えを述べます。

 ***

【秦の始皇帝に対する数々の誤解 2000年ぶりの再検証】

大紀元 2016/09/15 06:00

http://www.epochtimes.jp/2016/09/26066.html</u>">http://www.epochtimes.jp/2016/09/26066.html

秦の始皇帝(紀元前259年~210年)は、約550年にも及ぶ春秋・戦国時代に終止符を打ち、初の統一王朝「秦」を作り上げた人物として歴史の教科書にも必ず登場する人物だ。

統一後は、都の咸陽(かんよう、現在の西安)を整備し、自らの陵墓となる始皇帝陵を作らせた。

さらに、大運河を建設し万里の長城の建設にも着手するなど、数々の大土木工事を行ったことでも知られている。

しかし彼の死後二千年以上たった今でも、多くの人々は始皇帝を歴史の悪役として考えているのが忍びない。

そこで、始皇帝が「暴君」と誤って呼ばれるに至った数々の事柄を逐一検証していきたい。

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 始皇帝の「圧政」

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これまで始皇帝は在位中に数々の圧政を行ったとも言われてきたが、それは始皇帝が死去して119年後、つまり漢の武帝の時代に司馬遷が記した『史記』の記述から後世の人々が推測したものに過ぎない。

「隠宮徒刑されし者七十余万人、

 乃ち分れて阿房宮を作り、

 或ひは驪山を作る(隠宮(宮刑)に処せられた

 70万人余りを二組に分けて、

 それぞれ阿房宮(始皇帝の宮殿)と

 驪山(ろざん、陝西省の山名で始皇帝陵が建設された場所)

 を作らせた)」

と記されていることが根拠となっている。

そのため、これまで始皇帝は、受刑者や奴隷70万人を動員し、巨額の費用を投じて、始皇帝陵と阿房宮を建築したと思われていた。

だが、この一文は本来「朝廷の官吏を派遣し、軍人や囚人、他国の捕虜を70万人徴集して驪山の整備や阿房宮の建設に従事させられた」ということを意味している。

つまり平民や百姓を徴収したわけではないのだ。

そして「隠宮」とは受刑者ではなく宮中の宦官(去勢した男性官吏)を指している。

では、秦王朝の百姓が負担する兵役や賦役はどれほどのものだったのだろうか?

後漢時代に班固が編纂した『漢書』によれば、秦王朝では成人男性は一生のうち1年間の兵役に就き、予備兵役又は開墾事業に1年間、その後は毎年夜間の見張りに1カ月従事していたと記されている。

例えば20歳男性の場合、50歳になるまでに兵役や賦役に従事すべき期間はおよそ4年半にすぎなかったという。

この数位は現代の一部の国家と比べても大差ないものとなっている。

二千年以上もの昔であったことも計算に入れると、とても「圧政」とは言えないのではないだろうか。

始皇帝はその在位していた11年の間に、戦争や賦役、土地の開墾事業などに合計200万人から250万人を動員したと言われているが、戦国時代に投入された人的資源と比較するとそれほど多くない。

では、春秋戦国時代の例を見てみたい。

秦の昭襄王(しょうじょうおう)は8年間の戦争中にのべ数十万の軍隊を動員し、参戦した他国の軍隊も合わせると500万人以上にのぼると言われている。

戦争のために中国全土で500万人駆り出されることと、土木作業等のために全国から200万人が集められることとでは、民衆にとっては明らかに後者の負担が少ないだろう。

このことから、当時の庶民が担っていた兵役や賦役などの負担は、始皇帝の中国統一後に大幅に軽減されたと分かるだろう。

さらに『秦律』(秦代の法律)の規定によると、賦役に従事する庶民には手当が支給されていたほか、食事や衣類なども与えられていた。

また、同じ時期に一つの家族から徴集できる賦役人の数は1人と定められていた。

諸外国の事情と比べれば当時の中国の庶民の負担がいかに軽いかが分かるだろう。

古代ローマや古代ギリシャでは武具は自弁とされ、市民にとっては大きな負担だった。

そして武具を用意できない市民は政治参加の面で差別を受けた。

ヨーロッパでは中世になってもこの流れは変わらなかった。

従軍する農民兵は衣食を保証されず、苦役そのものだったという。

日本では七世紀以降、天皇を中心とする大和朝廷が豪族の力を削ぎ、公地公民を目標に権力を増大させた。

そして当時先進国だった唐王朝の律令制度を導入し、蝦夷地を除く日本のほぼ全域を支配下におさめた。

中央集権国家となった日本は防人や衛士の制度を導入したが、やはり武具と衣食は自弁だったため民衆にとっては大きな負担だった。

つまり当時の「グローバルスタンダード」と比較しても、秦王朝の支配下の民衆の負担は想像以上に軽かったと言える。

余談ではあるが、秦王朝の刑罰の厳しさを理由にマイナスの感情を抱く人もいるかもしれない。

当時行われていた刑罰に残酷と思われるものが多いが、そうした刑罰は秦の始皇帝が始めたものではなく、春秋戦国時代に割拠していた各国で行われていたものだった。

これに対し秦王朝は刑法や大民法によって国家を管理し、社会の安定を図った。

『史記』にも、始皇帝が残酷な刑罰を執行したという記述はない。

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 「暴」の意味

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「暴」という字を見ると大抵の人は「暴力」「暴君」「凶暴」といったネガティブな言葉や意味を連想しがちである。

しかし字典を引くと「暴」は「強烈かつ迅速」「猛々しく急いで」という意味をも持つことがわかる。

つまり、「暴」という字には価値判断を伴わない、客観的な修飾作用をもつ用法もある。

現代中国語の「暴風」「暴雨」「暴走」における「暴」の意味はこちらにあたる。

文献等でしばしば「暴」という字で形容される始皇帝はどうであったか。

始皇帝は戦国七雄の秦以外の国々(楚、斉、燕、趙、魏、韓の六国を指す)を併呑して統一王朝を打ち立てた後、わずか10年間で国の礎を築くという一大事業を成し遂げた。

その間に手がけた都の整備や大土木工事といった公共事業は、さぞ「強烈かつ迅速に」あるいは「猛々しく急いで」行われたことだろう。

ひょっとすると、始皇帝は自分の生きている間にできるだけたくさんの事業を成し遂げ、後世の人々に財産を残そうとして「暴」の手段を取ったのかもしれない。

始皇帝の「暴」の文化は中華文明に男性的な力強さを加え、外部や内部からの衝撃に十分対応しきれるだけの資本を与えた。

後世に花開く温和で女性的な儒教文化はその根底にこうした力強い文化を宿すことで強靭な生命力を持ち合わせ、そして儒教文化を基礎に据える中国文明はその後2000年間にわたり衰えることなく華々しい展開を世に示した。

したがって文献等で「暴」という記述を見かけたときには、ステレオタイプに判断するのではなく、そこに価値判断が入っているかどうか、客観的に使われているかどうかに注意しなければならないだろう。

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 民衆を愛し 部下を慈しむ始皇帝

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始皇帝に対する先入観からは想像できないかもしれないが、始皇帝が中国を統一する約20年間に敵を処刑したという記録は極めて少ない。

燕国の太子丹が刺客・荊軻を使って始皇帝の暗殺を企てて失敗し、秦の軍隊が報復として燕国の薊城を攻撃した時でも庶民の大虐殺は行われず、燕王や高官の処刑も行わなかった。

史料によると、始皇帝は和睦を望む燕王から送られてきた太子丹の首を受け取ったに過ぎないと記されている。

また秦が他国との攻防に明け暮れていたときにも、似たような暗殺未遂が起きていた。

だが『史記』のみならず他の歴史書を見ても、秦軍が占領した都市や町の住民を虐殺したり敵の将軍や大臣、一般庶民を惨殺したりする記録はなく、むしろ彼らに対し優遇政策を取っていたと見られている。

始皇帝は他の六国の王侯貴族を丁重に扱ったのみならず、秦王朝に対して功績がある大臣を厚遇した。

始皇帝はその在位中の37年間に朝臣を処刑したことは一度もない。

秦の名将・王翦(おうせん)が死罪を犯しても始皇帝はそれを赦免したことはこのことの裏付けである。

さらに、『史記・酷吏列伝』に記述されている内容からも秦王朝の統治を肯定的にとらえることができる。酷吏(こくり)とは法律を盾に、人に罪を被せて処罰、処刑する役人に対する蔑称だ。

驚くことに、この『酷吏列伝』には漢代の役人が数多く列挙されているが、秦王朝の廷臣は一人として名を連ねていないのだ。

もし秦の時代に本当に「暴政」が行われていたのだとしたら、それらに直接手を染めた人物の名は、もれなくここに列記されているのではないだろうか。

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 焚書坑儒の真相

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始皇帝と言えば焚書坑儒を連想する人も多いだろう。

焚書坑儒は始皇帝の残虐さの象徴ともいえる事件であり、それまでの中国の歴史や文化を破壊したとも言われている。

だが、始皇帝が焚書坑儒を行った真の目的は、玉石混淆な思想・文化が入り乱れた状態を一掃し、詐術を用いて人心を惑わす者を排除することであり、正統な文化を後世に残すためであった。

この意味で始皇帝の行った「焚書坑儒」は後世に語り継がれるべき大きな功績である。

まず、「焚書」と「坑儒」は混同されることが多いが、実は全く別のものである。

坑儒と焚書とを関連づけて最初に論じたのは、東晋時代の梅賾が漢代の歴史学者孔安国の作として書いた偽の『古文尚書』だった。

つまり、秦代でも漢代でも、坑儒と焚書が関係のある出来事として認識されていなかったことを示している。

始皇帝が焚書を行ったのは紀元前213年であり、坑儒を行ったのはその翌年の紀元前212年だったことを鑑みても、関連はあまり大きくはないのだ。

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 焚書の本当の意図とは何であったのか

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焚書のきっかけとなった事件について『史記』にはこのような記述がある。

始皇帝の誕生日に咸陽の宮殿で祝宴が催され、70名の博士が酒を献上して祝辞を述べた。

博士とは秦の官名だが、博士制度は春秋戦国時代を踏襲したもので、彼らの地位は非常に高く、国政への参加も許されていた。

祝宴の席で、教育を司っていた博士、周青臣が最初に始皇帝の業績をほめたたえた。

だが、博士の淳于越は周青臣が始皇帝に媚びているとみなし、商(殷)と周を例に取って、古代を手本として現在の制度を封建制度に戻すことを進言した。

つまり淳于越は、始皇帝の誕生日の宴席上で、古来の制度を尊んで現在の制度を軽んずるという姿勢を明確に打ち出し、当の始皇帝が採用していた郡県制を否定したのである。

そのような盛大な儀式で公然と異を唱える淳于越は肝が据わっていると言わざるを得ない。

この出来事は、秦の時代には言論の自由が保障されており、博士たちは各自の見解を自由に述べることが許されている事実を浮き彫りにしている。

更に驚くべきなのは始皇帝の反応である。

『史記』には「始皇下其議」との記述がある。

これは始皇帝が皆に淳于越の提案を論議させたという意味だ。

もし始皇帝が本当に「暴君」だったなら、この様な場面で異議を唱える淳于越を許すことができたのだろうか?

数日後、丞相の李斯は淳于越が古の慣習を懐かしみ現制度に反抗的であることを理由に『焚書令』を提起した。

その中では、夏、商(殷)周の古代3王朝で採られていた古い制度を採用することに反対するとして、「以前は諸侯が互いに争い天下が乱れていたから、富国強兵の策を求めて遊説の士を呼び集めていた。天下が平定され太平な世の中となった今、法令を定めるのは始皇帝おひとりだけである。民はそれぞれの生業に力を尽くし、知識人たちは法令を学習すべきだ」としたためられていた。

そして、始皇帝に個人が学校を設立することを禁じるよう進言し、史官(史実の記録を司る官職)には秦以外の国の典籍を焼き捨てさせるよう指示した。

これが焚書の起こりである。

その後、博士官庁が管轄する書物を除き、『詩経』や『書経』を始めとする諸子百家の書物はすべて地方官が集め、焼き捨てるよう命じた。

取り締まりの範囲外とされた書物とは、農学・医学・占術・秦の歴史に関するものだった。

李斯の提案に対する始皇帝の回答は『詔曰はく:可なり』ではなく『制曰はく:可なり』だった。

この一字の違いに大きな意味がある。

通常、『制曰はく』とは朝廷の百官に発表するときに使われる言葉で、広く庶民に対して使われるものではない。

対して『詔曰はく』 とは、国内全土に向けて宣布することを指す。

ここで後者『制曰はく:可なり』の表現が使われていることから、李斯の忠誠心に報いつつも、焚書の範囲と程度を最小限にとどめたいという始皇帝の配慮が透けて見える。

漢王朝が成立してからは書籍の欠乏は起こらず(秦国文書を除く)、官吏が典籍の修復や救済をする必要はなかった。

さらに湖北省で出土した秦の竹簡によると、当時の秦王朝では大規模な焚書は起こらなかった。

『ケンブリッジ中国秦漢史』にも、秦の焚書による実際の損失は想像をはるかに下回っていたと記されており、書物が散逸したのは戦乱によるものが多いと考えられている。

これは、李斯の方でも始皇帝の言外の意をくみ取り、国内全土に焚書を行うことを支持したわけではないことを示している。

仮にそうであったとしても、焚書は咸陽の都のみで小規模に行われただけで、博士官署には大量の書籍が燃やされずに残されていたことに留意しなければならない。

張本人の淳于越もなんら処罰を受けることなく、この事件は収束した。

そしてこの事件から、始皇帝が儒家に対し寛容であったことも理解できよう。

また始皇帝の頭脳が非常に明晰で、物事の局面を全体的に俯瞰していたとともに、文化の継承に責任を負い、そのために的確な対応を取っていたことも推察できる。

このような始皇帝には、人を惹き付ける優れた資質と魅力が備わっていたと思われる。

この姿のどこに暴君の影があるというのだろうか。

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 坑儒の真相 詐欺師の一掃

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「坑儒」に至っては、人を騙し、詐欺を行い国の政策を混乱させる一部の道士らを一掃する政策にすぎなかった。

『史記』には、盧生と侯生という2人の方士(不老不死の術や卜筮、呪術などを行う人)に関する記述が残されている。

彼らは普段から始皇帝の信頼を得ていたが、裏では始皇帝について、独断でことを成し、縁故者しか登用せず、博士らを軽んじ、権力に固執しているなどと罵詈雑言を吐き、そのあげく、始皇帝のために不老の仙薬など作りたくない(実際には作ることができなかったのだが)として、こっそり逃亡した。

始皇帝はこのことを知ると非常に立腹し、咸陽に御史を派遣してそのほかの方士を取り調べさせた。

すると丹薬(不老不死の薬)の研究に携わっていた方士らがこぞって密告し合ったため、禁制者が460人を超えるほどに増えてしまった。

『史記』には、この時始皇帝は彼ら全員を「坑殺(生き埋めの刑)」するよう命じ、

「天下をしてこれを知らせしめ、以て後を懲ず」

と書物に記されている。

つまり始皇帝は、君臣の礼儀をわきまえず、君主をだまそうとした方士たちの悪行を天下に知れ渡るようにして、後世の戒めにしたのだ。

しかし「坑殺」の従来の解釈については誤りがある。

戦国時代から秦代においては「坑殺」とは死後に穴に埋めることを指しており、これは、罪人を墓に埋葬することが許されなかったためである。

決して現代で言う「生き埋め」のことではない。

『史記』の記述に従えば、「坑術士」と書かれてあるので、殺されたのは方士であって、儒者ではなかったとわかる。

その上、始皇帝が儒者の淳于越に対して取った寛容な態度から察するに、この時に処刑されたのは始皇帝を騙した方士だったと考えられる。

彼らの処刑には、皇帝に不老不死の薬を作ることができると嘘偽りを公言していたという確固たる理由があるからだ。

また本当に460人もの方士が「坑殺」されたかどうかに至っては、同様に疑問が残る。

なぜなら「天下をしてこれを知らせしめ、以て後を懲ず」の記述と矛盾するからである。

始皇帝が自分の暴虐を天下に知らしめたいと思うのだろうか?

恐らく、誤った数字だけが独り歩きした可能性が非常に高い。

あるいは後世にねつ造された可能性も捨てきれない。

いずれにしても、さらなる真相はこれからの研究を待たなければならない。

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この話に明らかなように、Chinaではいわゆる史書における歴史認識として、古代から現在に至るまで、多くの場合、正が邪に、邪が正として入れ替えて語られていることが多い傾向があります。

どのようなあくどい手段を使ってでも勝てば良いと考える人が天下を取り、それまでにやってきたあらゆる非道を正当化するために歴史を書き換える。

そういう目的を持って、史書が書かれているからです。

事実は、様々な出来事の羅列です。

言ってみれば、才能のない秘書が保管している日々のメモカードのようなものです。

バラバラで統一性がなくて、いつの時代にも極善から極悪、極右から極左まで、様々な人がいて、いろいろな出来事が起こりながらら、なんとなく時代の方向性が出来上がっているのが現実です。

歴史認識は、そのバラバラなカードを上手に並べ替えて整理し、余計なものを排除してそこにストーリー性を持たせたものです。

早い話、たとえば女子バレーボールのひと試合を文字で説明するときに、木村選手を主役にストーリーを描くのか、迫田選手や古賀紗理那選手にスポットライトを当てて語るのかによって、見えてくるものは全然異なってきます。

けれど、全部の選手がいて、相手選手もいて、それで実際の試合は行われているわけです。

これと同じです。

要するに、歴史に何を求めるかによって、そこで描かれる認識は異なってくるのです。

日本人は、歴史を「現在を生き、未来を拓くための過去の先例」ととらえます。

昔の時代劇で、よく「さようなことには先例がございませぬ」などというセリフが出ますが、長い歴史を持ち、しかも記録好きな日本人は、今目の前にある事態には、必ず、過去に同様の事態の経験を歴史上持っています。

だから過去を、今を生きるためのお手本にします。

歴史はそのためのものですから、だから日本人は、歴史に正確さを求めます。

ところがChinaでは、不条理を行った権力者が、自分に都合よく正邪を入れ替えて記述したもの、ないしは、そうやって新たな権力者が、あたかも英雄であるかのような記述を出来得る限りもっともらしく記述することで、地位を得ようとした者が書いたものが歴史です。

ですから、現代に例えてみれば、天安門事件はなかったことになるし、全国の中学生が勉強をしないでデモばかりを行い、学校の教師を殺して食べた文化大革命は、後に英雄を排出した英雄的事業であったと認識されます。

つまり彼らにとっての歴史は、いつの時代にあっても、政治的プロパガンダにすぎません。

では、Chineseが全員、そういう、いわば「騙し」に乗っているのかといえば、実は決してそんなことはなくて、いまのChinaにおいて、真・善・忍を唱えて、Chinaにおける「良心の歴史」をあらためて復活させ、学んでいこうという人たちがいます。

なるほどChinaの史書はプロパガンタですけれど、そうした嘘は、かならずほころびがあるものですし、そうした点を見極めていくと、本当に不条理のために真剣になって戦った人や、民衆が少しでも豊かに安心して安全に暮らせるように、生涯を慈愛のもとに生きた偉人も、歴史上にたくさんいるのが、Chinaでもあるわけです。

これは、そうした歴史を丁寧に掘り起こし、ほんとうの意味でのChineseとしての誇りを取り戻していこうという動きであり、これが現実にできるのが、Chinaという国の実は懐の深さです。

この点が、ただのファンタジーしか持ち得ないオトナリの国との大きな違いです。

私は、Chinese=悪玉という考え方は間違ってると思っています。

Chinaはウシハク統治が長く続けられ、結果として民衆が歴史を通じて貧困のどん底に追い込まれ続けたという不幸な歴史を持っています。

このため、武器を突きつけられたり、あるいは武器を手にした瞬間に、狂ったように他人から収奪する者や、他人を踏みにじることをなんとも思わない非道な人を数多く出してしまってもいます。

また、食に関する禁忌がない国であることも、貧困を考えれば、とにかく食べれるものなら、なんでも食べなければ生き残れなかったわけですから、それもまた仕方がないことであると思います。

しかし、だからといって、全部のChineseが、みんな悪党であるということには、ならないと思うのです。

このことは、逆に、民衆が大御宝とされ、究極の民主主義を与えられ続けてきた日本において、また飽食の時代とまで言われるほど、豊かになった日本において、生粋の日本人でありながら、どうしようもない悪党がいることを考えれば、ワンオブゼムという思考は、やはり、あまりに短絡的にすぎると思うのです。

Chineseであっても、ありきたりの日本人よりもはるかに立派な人は、歴史上も、そして今の時代においてもたくさんいるのです。

ところが、そういうまともな人たちが、かえって現在の中共国家の中で、迫害の対象となっているという事実があります。

そしてその迫害にもめげず、まけず、Chinaの歴史をもう一度検証し、これまで善玉とされてきた人が、実はとんでもない悪党であり、これまで悪玉とされてきた人たちが、実は、きわめてまともなきちんとした人たちであったということを、ひとつひとつ明らかにしていこうとしている人たちが、実は、数多くいます。

そういう人たちによる、まともな政権が誕生すれば、Chinaは十分に変われる可能性があるのではないか。

それは、日本を取り戻すというわたしたちの活動と同様、道は遠いかもしれないけれど、ChineseがChineseとして本来あるやさしい心や、愛する心といった人間性を取り戻して行こうとする動きでもあります。

そういうまともな人たちを、私はこれからも応援していこうと思っています。

お読みいただき、ありがとうございました。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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