宇宙の鼓動の中に溶けなさい

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力を抜きなさい そして群衆からそっと離れて 時には天と自分を繋げてみなさい

そこに自然がある あなたを動かすただ一つの力がある 全てと源を分かつ 宇宙に放たれた愛がある

それを感じ あなたも宇宙の鼓動の中に溶けなさい

全てと交わり一つになり 主張を止め受け入れることに徹し 招かれて存在していると知りなさい

私たちの教えはただ 愛という一つの力に直結しているのです

あなたが知ること それはただ 自分は愛により生かされており 何をする必要もなく

ただ生きていることが天の望みだと 楽な気持ちで愛しなさい全てを。

「無為自然」老子

https://genyu-sokyu.com/articles/20200531nariyukiwoikiru 【なりゆきを生きる 「うゐの奥山」つづら折れ 書評(執筆:多田則明氏)】より

無為自然と運命開拓の両行

 2012年4月から7年半、新聞に掲載されたエッセー集。福島県三春町にある臨済宗福聚寺(ふくじゅうじ)住職の著者は、東日本大震災直後に父を亡くし、原発事故被災者のケアに携わりつつ、寺の改修工事を行い、復興構想会議の委員や震災被災青少年支援の「たまきはる福島基金」理事長も務めている。

 想定外の人生で多忙を極めたが、「呻吟した挙句、まるで高波に抵抗するのをやめて身を任せるように、求められた要請を皆引き受けることにした」。

 著者が好きな荘子は、状況の中でできたその時々の心にこそ従うべきで、予(あらかじ)め決めてある固定的な心などを奉るとおかしなことになる、と教える。先が見えないまま、変化する心のままに進むのには、相当に勇気が要るが、著者は「よくよく考えれば、それしかできないし、それこそが人生ではないか」と諦観(ていかん)する。

 一方でナチスの強制収容所を生き抜いたヴィクトール・フランクルの「祝福しなさい、その運命を。信じなさい、その意味を」を実践する。「悲観主義は気分によるものだが、楽観主義は意志によるものである」というアランの幸福論に通じる。著者はそれを日本人の「両行」と呼ぶ。漢字と仮名、平仮名と片仮名、武家と貴族、わび・さびと伊達・バサラ、和洋と唐様、義理と人情、本音と建前など、何事も一本化せず、両極端の価値観を見据えながら、中道を行こうとする。両行は荘子に由来する言葉で、日本人は中国人よりそのごとく生きている。

 新聞掲載時のタイトルは「うゐの奥山」。この言葉が出てくる「いろは歌」は死を説いた短いお経「夜叉説半偈(やしゃせつはんげ)」で、生と死の実相を見事に表現している。

 江戸後期、風流な禅画で禅宗を広めた博多の臨済僧仙厓(せんがい)は、晩年、よく「みんな同じ年」と書いた。大震災では年齢に関係なく、2万人近くが一気に死を迎えた。生きているとは「誰もが横一線なのだ」という思いを、長い田舎暮らしでも実感する。

http://tao-academy.jp/muishizen/ 【無為自然の意味】より

無為自然とは、老子の説く人間の生き方です。

この宇宙に貫徹している原理原則に添った生き方をするということで、その原理原則を「道」TAOと呼びました。

老子は、人間も宇宙の一部、天地自然の一部としてこの世に生み出されたものであると考えます。人間もその自然の一部であると考えるのです。

無為自然とは、何もしないのではなく精一杯の努力をし、あとは天地自然の宇宙の原理や変化をそのまま受け入れる

私たちこの小さな命を 無為自然の宇宙に委ねて生きる

そして、この宇宙に命をいただいている ということを、もっと大切に日々を楽しく精一杯過ごすこと、

そして、心とからだ、共に自然なありのままの状態に戻してあげることにより、

初めて人間は、明るく楽しくとらわれのない 無為自然な生き方「道」(TAO)に到達することができます。

無為自然の意味を知り、すぐに実践できる、毎日が明るく楽しくとらわれない無為自然の生き方を学びましょう。

無為自然~ありのままの自分~

人は作為のない状態、ありのままでいるのが良いと、 実は中国古代の哲学である 『老子』に書かれています。

自然のままにいて、木なら原木のままを大切にし 自分が自分がという我執をなくして、

欲を持ちすぎないことだというのです。


https://note.com/welcomerain0/n/n51042e56180c  【空(普遍)と共に気づいている右脳意識】より

右脳優位な日常あるあるは

・ いろいろすぐ忘れる

・ すぐ、フラットになる(単純に忘れちゃう)

・ ずーっと同じことについて考えていない(忘れちゃう)

忘れちゃう…というワード連発なんですけど、たとえば、、、誰かにとっての苦しみも、

それが自分個人へ向けられたものでなくとも「そこで起きている痛み・苦しみ」をキャッチしたり、共感・共鳴したりもするんですけど、、、それがパッと「いま」に現れてスクロールした瞬間、もう消えてしまう。( 右脳意識のいまここ・あるある )

左脳さんならば、、、ひとひとつに「ひっかかっていく」かもしれない。

それを長々と(またはネチネチと…)継続していったりしがちなのですけど、右脳優位であるときには、、、それを持ち越していく自動思考が浮かばない…からなのだとおもう。

結果的にそれは、こざっぱりとした…テーブルの上が常にスッキリ片付いているようなシンプルなかんじ感覚「いまここ」無常という原理原則

思考を含めた「なにか」が浮かんで、すぐ消えちゃうでもこれって、、、左脳過剰であろうと

右脳優位であろうとどちらであろうと起きている事実

「 事実は そういうことになっている 」いまここにあるものがあって、いまここにないものはない…

よくよくみてみれば、、、事実って「そう」ですよね常に移ろって、過ぎ去ったものはなく

いまの最新だけがある、、、

無常という原理原則なのだけど左脳過剰の場合は、この事実そのまま(いま本当に起きている事実)に気づかずいまここにない記憶や思考、過去未来…=ストーリーのほうに意識の重心がある

だから、、、それはもうない・いまここにないという…事実そのものに気づかない。

空と色の比重の変化

そして、瞬間瞬間、現れては消えていく「最新のいまここ」と共にあるのが右脳意識なわけですがこれって、どういうことが起きているか??

先日も 空と色の意識 について話していたんですけど左脳過剰のときには、左脳活動(思考の世界、色の世界)に重き・比重がある状態なわけです

空:色という機能性があって、右脳優位であることで、その比重が 色→空 にかわってくる

右脳優位な感覚は、着地にしている空(普遍)から色(無常)を眺めているかんじ

でも、これって右脳:左脳を空:色と言い換えているだけなんですけどね😅

そして、右脳域からは左脳:色に気づけるけれど、左脳域からは右脳:空には気付けない

(だから、左脳だけが過剰になる。片手落ちになる。)

色は無常なので、どんどん変化していきます。もう勝手に、自動的に変わっていく。

だから「じぶんが変えよう」としなくてもいいわけです。

勝手に、無努力=自然に移ろう。その様子に、気づいている右脳域(なにもする必要がない・しようしようじゃない意識)なので、忘れちゃう、、、

動画も、こういう記事も、書いたらもう忘れちゃう、、、

あの記事・動画について…と言われても「どんなこと、しゃべってました??」その時々、無常として現れるものを書いたり、しゃべったり、表現しているだけ…

でも、これは、みんなそう。そういうことになっている。

でも、いまここにないものを継続・維持させる思考がないので、ちょっと体感が変わってくる右脳意識

左脳過剰の場合は「思考が過ぎ去ったものを延々と継続させているかんじ」もう事実そのものは消えていて、その記憶・思考を生きているかんじ

右脳域は、ないなら、もう「ない」こざっぱり、シンプル

子供のときの感覚です(まったく難しくない)


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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