自分だけの道

https://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/bb55d251bf7c0efbbdbe44a6ac475ded 【下野薬師寺跡】より

この土日(6/30~7/1)、長男の住む栃木県を訪ねた。土曜日は下野市(しもつけし)へ。新幹線で東京、上野からJR東北本線に乗り換え約1時間半で下野市に着く。ここから長男の車で「国指定史跡 下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)」に向かった。下野薬師寺といえば、奈良検定にも登場するとおり、「日本三戒壇」の1つであり、また左遷された道鏡が別当となった寺でもある(道鏡は下野国で没した。下野薬師寺近くの龍興寺境内に、道鏡の墓と伝えられる塚がある)。

Wikipedia「薬師寺(下野市)」によると《薬師寺(やくしじ)または下野薬師寺(しもつけやくしじ)は、現在の栃木県下野市(旧河内郡南河内町)にかつて存在した仏教の寺院である。下野国にあった薬師寺は、六国史中では主に下野薬師寺と記載されている。中国では敦煌、また朝鮮半島では新羅で見られる薬師信仰は、飛鳥時代までに日本に伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来、天武天皇9年680年11月に天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである》。

戒壇院の跡地といわれる場所に、六角堂が建てられている

《下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられている。『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」(嘉祥元年848年11月の太政官府)とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」(嘉祥元年11月己未)とあり、下野市も下野薬師寺は7世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしており、何れにせよ、現在でも薬師寺と名付けられた寺はすべて天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺は奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺と考えられている》。

《奈良時代には、國分金光明寺(=東大寺 奈良)および観世音寺(福岡)とともに、国内の僧侶を統制する天下三戒壇の一つに数えられ、東国の僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授け、中央戒壇(國分金光明寺戒壇院)と西戒壇(観世音寺戒壇院)に対して東戒壇とも呼ばれた。中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、造寺別当(造寺司の長官)となったのも下野薬師寺であった。平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく》。

《戦国時代に後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて焼失した。発掘調査で出土した瓦が、大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから、7世紀末の天武朝の創建であると推定されている。また、寺域は東西約250メートル、南北約330メートルである》《1921年(大正10年)3月3日、「下野薬師寺跡」として国の史跡に指定された》。

寺跡に隣接して、「下野薬師寺歴史館」がある(入館無料)。同館のHPによると《当館は、下野薬師寺跡の南西に隣接して建設された下野薬師寺跡のガイダンス施設です。館内では、発掘調査によって見つかった瓦をはじめとする出土遺物、下野薬師寺に関る文献史料、復元模型などの展示のほか、映像などによって下野薬師寺の歴史をわかりやすく解説しています。また、旧3町(石橋町、国分寺町、南河内町)の各歴史をまとめた町史等の販売も行っています。なお、夏休み期間中には体験事業を実施します》とある。係の女性が親切に質問に答えてくださるし、屋上からは復原された寺の敷地が見渡せる。エレベーター前では天平衣装を着たマネキンが迎えてくれ、思わぬところで「奈良」に遭遇した。

歴史館の屋上から旧境内地が見渡せる。向かって左上が復元回廊

寺跡の南東に接して、「薬師寺八幡宮」があった。同宮のHPによると《貞観17年(875)清和天皇の御勅定により東北守護の大神として石清水八幡宮の御分霊を勧請、創建される(神社伝承)。一説には奈良時代天平勝宝元年(749)、下野薬師寺(日本三戒壇)の守護神・仏法の鎮守神として鎮座したとも考えられています。清和源氏の氏神様・仏法の守護神とも称され、勝ち運・災難除けの願掛けが多く見られます》。

栃木県は奈良県と同じ「海なし県」である。栃木県南部のこの辺りは関東平野の一角で、山がなく縹渺(ひょうびょう)たる平地が広がっている。四方を山に区切られた奈良盆地からここに配流された道鏡は、どんな気持ちでこの景色を眺めたことだろう。


ネイティブアメリカンの名言@Indianteachings

■「わたしの後を歩くな。どこへ行くか分かっていないときもあるのだから。

わたしの前を歩くな。わたしが君についていかないこともあるのだから。

歩くときは横に並べ。さすればわれわれもひとつになれるかもしれない。」【ユテ族】


Facebookごとう 孝二さん投稿記事

「自分だけの道」

自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。

自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

あきらめろと言うのではない。

いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。

自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。

道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。

深い喜びも生まれてくる。

松下幸之助

「自分の全てを認めると輝く✨」

目の前に1枚の紙があります。あなたが紙の片面を「こちらが表」と定義するとき、同時に「裏」が生まれます。あなたが「生」まれたとき、同時に「死」が生まれました。

あなたが何かを「美しい」と思ったとき、同時に「醜い」ものも頭の中に生まれました。

もし世界に「男性」がいなければ、自分が「女性」だとはわからない。

「善-悪」「強-弱」「左脳-右脳」「勝-負」「高-低」「出逢い-別れ」…それらは別々のものではなく、すべてワンセットであり、 互いに支えあっている。

凍える寒さを経験した人は、日差しの暖かさを知っていて 病気を経験した人は、健康への感謝を知っていて 飢えを経験した人は、一膳のご飯の美味しさを知っていて 孤独を経験した人は、絆の大切さを知っていて 絶望を経験した者は、希望のありがたみをよく知っている。

でも自分の弱さを認められない人は、他人の弱さを受け入れることもできず

自分の弱さがわからなければ、自分の強さにも気づくことができないのです。

光が美しく輝くことを支えているのは「闇」であり、光が存在できるのは、闇がそこに在るからです。

あなたの光の部分を引き出すために、まず闇の部分を認めてみてください。

これは、闇を好きになれ、という意味ではありません。

好きになるのと、存在を認めるのとでは、まったく違う。

長所(光)と短所(闇)、両方あるからこそ、自分なんだと認めてあげること。

自分のダメなところ、カッコ悪いところは、素直に認めればいい。

そうやってプラスもマイナスも両方を受け入れ、それでよいのだと自分を許してあげると

心の余裕が生まれる。

心に余裕が生まれると、そのマイナスの欠点から魅力的な人間力がにじみ出てくる。

そうなれば、人はどんどん、活き活きと輝いてくるんだよ。

幸せはいつもここにあるより。


aribaba@1819aribaba

かなしみはわたしたちを美しくする花 かなしみはいつも枯らしてはならない

かなしみはいつも湛えていなくてはならない  かなしみはいつも噛みしめていなくてはならない    坂村真民


花:@lilacblueblue

2月9日の花:キンセンカ 花言葉:慈愛 キク科キンセンカ属

別名:カレンデュラ、ポットマリーゴールド 原産地:地中海沿岸

ヘレン・ケラー

悲しみと苦痛は、美しい花を咲かせる土壌です心を優しく持ち、耐え抜くことを学ぶのです

やがて「慈愛」という強き心が芽生えるでしょう


三宝出版@sampoh_official

寒さ厳しい冬の季節、やがて花開く時のために準備するつぼみ。

その姿は、内に秘めた「青写真」具現のために、長い困難な時を懸命に耐え忍んでいるように見えます。


慈愛マスター@TOMMYEL77

なかなか望む現実に到達できない方は もしかしたら ゴールがわからなくて

遠回りしているかもしれません

ゴール地点を決めて そこに人生のフラッグを 立てることで あなたの望む現実に向かって

まっすぐ 進むことができるでしょう  with LOVE



コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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