https://takedayuko.com/yoga/693/ 【諸法無我 ー自分というものは時に面倒くさいー】より
「自分探し」をしている方はいらっしゃいますか?
「自分とは何であるか?」「自分らしさってなんだろう?」
「本当の自分って?」…のように”自分” や ”私” という枠の中にアイデンティティを探すのは、皆さんよくあることだと思います。
そしてやっと見つけた、または確立したアイデンティティからブレないように必死にしがみついてる事もありますよね。
私も本当によくこの考えのループにはまる事があります。
ところで自分のアイデンティティってそんなに大事なものでしょうか?
そこにどんな価値があるんでしょうか。価値を感じているとしたら、それは誰が感じているのか。私の場合、自分らしさを確立し、価値を感じているのは他ならぬ自分自身です。
自分らしさが内側から湧き出ているというか…そうです、自然に湧き出てきている時は、最高なんです!
でもその最高な状態に執着しようとするものなら、それは途端に苦しさに変わります。
そしてなんと…自分探しのループにはまった時や、自分らしさへの執着が生まれてくるにつれて頭や心がものすごく固くなって、気持ちが悪くなります。
身体の感覚が「気持ち悪さ」として、気づかせてくれるんです。
頭が痛くなったり、肩がこったり、歯軋りをしていたり。
そんな身体のサインに気づいて(あっ。やってしまったーーー。頑なに”自分らしさ”に執着してるじゃないかーーー)とハッとします。
その執着は必要なのかなあ…
自分らしさへの執着は、時にとても面倒で厄介なものかもしれません。
ー諸法無我ー
諸法無我というのは、いかなるものにも実体はないんだよ、というブッダ先輩の尊い教えのひとつです。
(私たちYOGA仲間の中では、愛情をこめてお釈迦様を ”ブッダ先輩” と呼んでいます、笑)
YOGAのレッスンの中でも、身体を使って同じことをお伝えしているのですが、
細胞ひとつをとっても、感覚ひとつをとっても、今この瞬間から離れたら、そこに実体はなくなる。
永遠にあるものとして勘違いしがちなこの身体でさえ、単なる一時的な状態に過ぎません。
「無我」とは、(確かにある)と感じやすい”自分”という存在さえ、実体はない、とします。
身体も心も、自分というもの、本当の自分なんてものは、ない。
そう考える自分自身にも実体はないんです。
「我思う、故に我在り。その我もなし」みたいな。笑。
仏教では、約2500年位も前から「無我」を説いています。
だとしたら、自分らしさへの執着で苦しむって、自分探しをするって、
ナンセンス。
水の中に水滴を探す、みたいに途方に暮れる作業でしょう。
私はこの「諸法無我」の教えによって、
自分を変えることにチャレンジをし続けています。
なかなか難しいことですが、まずは自我に執着していることに気づくことから。
気づいた瞬間、自分を変えるチャンスが訪れたと思って、無理しない程度にチャレンジします。(この無理をしない程度に、というところがポイントです)
年齢を重ねれば重ねるほど、経験や煩悩が蓄積していくとともに
自我が確立していき、簡単に「自分をないもの」には出来なくなります。
きっと毎日が味わい深い修行なんです。
ブッダ先輩の背中を見ながら、
心地よい自分らしさと自分なしさ(勝手に造語)を自分で選択していけたら良いんじゃないかと思います。
きっと自分らしさは求めるものではなくて、
周りとの縁起の中で自然に生まれてくるものなんだと思います。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
鎌倉駅から歩いて15分、源氏山公園の近くに海蔵寺という臨済宗建長寺派の寺があります。
海蔵寺の右入り口に、「底脱の井」(そこぬけのい)と記された小さな泉があります。
そこに光明を得た尼として有名な千代能(無外如大尼)の句が刻まれた石碑が建っています。
「千代能がいただく桶の底ぬけて 水たまらねば月も宿らず」無外如大尼
尼僧の千代能は、何年にもわたり修行しましたが、なかなか光明を得ることができませんでした。
月が美しく輝くある夜のことです。
千代能は古い手桶を持って井戸から水を汲み、手桶の水面に映る満月を眺めていました。
突然、桶をたばねていた竹のたががはずれ、桶の底がすっぽりと抜けて桶はばらばらになってしまいました。
その時千代能は光明を得たといいます。
仏教で悟りの境地を、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)といって、煩悩の炎が吹き消されて心が静かになった状態と説明されています。
煩悩は、苦しみの原因とされ、一切の煩悩を放下することが悟りの道とされています。
しかし、瞑想しても思考が次々と湧いて、新参の修行者は苦しみます。
思考の囚われから逃れようとして、なんとか除こうと努力しますが、それを退けることが出来ません。
思考を取り除こうとすること自体が思考作用なので、思考を取り除こうとすればするほどかえって思考が強くなるばかりなのです。
いくら修行しても煩悩がなくならないので、自分の業のあまりにも深く重いことを恨んで挫折してしまう修行者が大勢いました。
ある程度、修行が進むと瞑想中に喜びを感じるようになります。
マインドが静まると意識と無意識の境界の間にエネルギーの回路が開かれます。
内的な広がりを感じたり、崇高で神聖な感覚に圧倒され意識が高揚します。
何十年も苦しんだ修行者は、喜びのあまり大悟したと思い込みます。
その時に、すかさず弟子に喝を入れるのが師の仕事です。
ところが師を持たない修行者は、俺は誰よりも優れていると、すっかり自己満足して自我が肥大してしまいます。
そうして、無意識が浄化されないままの修行者は、内面の欠落感を見たそうとしてグルや教師となり、人を支配したり、組織の拡大や物やお金に執着したり、SEXスキャンダルに見舞われます。
長い伝統がある修行システムは、社会との問題を起こさないようにしているので、カルト化しにくいですが、歴史の浅い新興カルトは歯止めが効かないので、肥大した自我が暴走して社会問題を起こします。
あらゆる現象は、過ぎ去ってしまいます。
素晴らしい体験もまた過ぎ去ってしまいます。
いくら意識が高揚しても自我が消えてしまっているわけではないので
月の満ち欠けのように、しばらくすると流れは下降し、再び自我が姿を現わします。
潮の満ち引きのように、波に隠れていた砂浜のゴミや汚れがあらわれてきます。
いったん意識の高揚を知ってしまうと、自我に戻った時に以前よりも低い位置に陥ったように錯覚してしまいます。
美しさと神聖に満ちあふれたヴィジョンや啓示をうけてしまうと、それに強く引きつけられてしまい、もとの日常意識が価値が無いように思えたり、あるいは地獄に堕ちたかのように苦悩します。
内的な覚醒のあとに訪れる退行です。
喜び、歓喜、法悦に囚われると、マインドは執着してそれを再び追い求めてしまいます。
喧噪を避け静寂を好んで執着してしまうと、動と静の二元性に分離してしまい、いまここから離れてしまいます。
悟りを求めることも、煩悩を無くそうとすることも思考です。
思考で思考を消すことはできません。
思考と同化しているかぎり、思考と同じ次元を水平移動するだけなのです。
思考に気がつかないとマインドに同化して巻き込まれてしまうので、疑いと不信が繰り返し頭に浮かんで修行者を苦しませます。
伝統的な修行システムで、行き詰って桶の底が抜けない修行者は、すぐれた師を探して、桶の釘を抜いて、たがをゆるめてもらいます。
あとは何かのきっかけに、自然と桶の底が抜けるのを待ちます。
どんなに優れた師であっても、弟子の桶の底板を直接、抜くことはできません。
桶には実体がありません。
修行者の強固なマインドが作り出して、あると思い込んでいるだけです。
自分で作り出したものは、自分が作り出すことをやめない限り、他人が消すことはできません。
元々実体がないものですから、気がつくと、それは一瞬にして消えてしまいます。
「千代能がいただく桶の底抜けて 水もたまらず月も宿らず」
禅では月や桶は例えとして用いられます。
桶の底が抜けて水が流れてしまうと、水に写っていたあらゆるものが消え去ります。
桶の底が抜けた瞬間、千代能は、水に写っていた月を真実と、思い込んでいたことに気がついたのです。
本当の自分は空っぽの桶でした。
臨済宗の名僧、盤珪禅師はその境地を次のように詠んでいます。
「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」
終わりも始まりもない永遠の今を表しているのが、一円相です。
自己の本質とは、何もない空っぽの桶のことです。
桶の中に写っている月は、本当の自分ではありません。
頭の中の思考は、本当の自分でありません。
思考が現れては消える空っぽの桶、それが本当の自己なのです。
桶の中の水に映って展開しているのが人生の悲劇、喜劇です。
水に映っている月に実体はありません。
空っぽの桶、つまり自分がいない事に気がついたとき人は、苦悩から真に解放されます。
千代能は、伝承によると鎌倉幕府の御恩奉行を務めた安達泰盛(あだち やすもり)の娘としてこの世に生を受けました。
そして千代能は、北条顕時(ほうじょうあきとき)に嫁ぎますが、弘安8年11月17日(1285年12月14 日)に起きた霜月騒動という鎌倉幕府内の権力闘争が起きて、父と親族を含む安達一族は滅ぼされてしまいました。
夫の北条顕時は、失脚して上総国に流されてしまいました。
その後夫は北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主だったので復権しましたが、胃病を患って1301年に死去しています。
千代能の息子北条貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉幕府の15代執権に就任し、娘は足利貞氏(室町幕府初代将軍足利尊氏の父)の正室となり、長男足利高義(あしかが たかよし)(足利尊氏・直義の異母兄)を産んでいます。
足利高義の子孫には武田信玄がいます。
千代能は禅に傾倒していた夫の死後、出家して僧院の門を叩きましたが「美しい婦人は若い修行僧の妨げになる」と入門を断われてしまいました。
しかし、決意の固い千代能は焼きごてで自分の頬を焼いて醜くして、ようやく南宋から来日した臨済宗の仏光禅師・無学祖元に弟子入りを許されたと伝えられています。
真冬の大寒に海蔵寺を訪れた時、観光客の姿もなく、静かに梅の花が咲いていました。
https://ameblo.jp/kokoronokanteisi/ 【”動かない、、、、”】より
こんにちは(^^)/ゆみのブログにようこそ~みなさん悩んでいること、、、
というか悩みだらけの人が多い訳です
悩みがないと、今度は悩みが無いことに悩み始める訳です・・・(;^_^A
このままではダメだ。今このままでいいなどと立ち止まったら成長できない。
運気をあげなければいけない。良い波動、いい気分でいなければならない。
毎日楽しく生きていかないと生きてる意味が無い。
たくさん苦労や失敗をして立派な人間にならなければいけない。
常に前向きに、ネガティブなことをポジティブに変えていこう。お金は沢山あるほうがいい。
心の傷をいやして、幸せになりたい。。。。etc....
このような根深い思考の元に、死ぬまで満足できない終わり無い苦しみを抱えながらいる人たちがほとんどな訳です・・
それが悪いとか、良いとかの話ではありませんよ~
ただの考え方や思考に過ぎないだけで、実体も中身も伴っていない訳です。
只、そこに執着し、思考の都合を求めるが故に、問題が起き、悩みになるわけです。
ただ過ぎったままであるならば、どのような思考が過ぎろうが一切の問題事にならない訳ですよ。
あなたが思考している訳では無い訳です。
誰もやってない活動なんですよ
文章では、きっと読んでいる方は何を言ってるかわかりませんね(^^;)
実相、法ソノモノ、宇宙、活動そのもの自体。。
触れたモノと一体と成ってる様子自体に、成るのではなく、既になっている様に自覚し、自覚自体の在り様に寄りて、
総ての煩いや悩み、問題、苦悩から解放されるんですよ
悩んでいる方に、ご縁がありますように
エネルギー感覚の目覚め
【一つになる体験 】
五感を磨くといわれますが、五感で受け取る情報は断片的であり、過去の記憶(想念、自分の作り上げた情報)に則って 自分なりの解釈を加えたものとなります。
情報をありのままに受け取るにはエネルギー感覚(直感・第六感といわれたりもします。)に目覚めることが大切です。
五感の働きは意識を外に向けます。
五感のうちでも最もエネルギーが強いのが視覚です。
視覚と意識を切り離すために 目を開けたまま 内部感覚に意識を向けるエクササイズをします。(頭の後ろ,手等身体の部位に意識移動しながら意識と視覚を切り離す。)
眼を半眼にし、焦点付けをしないで対象を観る事も有効です。
一つになる(共鳴する)ためには意識を対象に留める必要があります。
そのためには、過去の記憶に戻らない。
視覚ではなくエネルギー感覚をつかう。
このエクササイズの目的は「一つになる」のみにおかない。
「意識のコントロール」、「集中力」、「洞察力」、「感情、ストレスのコントロール」、
「リラックス体験など」:できた、できないに縛られると無心になれない故。
<自分の体験を通しての氣づき>
*雨など、視覚、聴覚二つの感覚を使うと意識の移動が重い。(意識の傾き)
*認知できないもの、動きのあるものが視覚に入ると 新皮質に意識が戻る。(意識の傾き)
*一度小さな対象に焦点を合わせ 視野を広げると意識はすぐに対象に移動。一つとなった実感。
*視野を広げたままで、意識を自然に留めていると、魂が震え涙が溢れ始めた。宇宙のエネルギーと共振。
*カーテン、壁など人工のものを見ると視野が閉じる。(見えなくなる)
観念が問題かもしれないという示唆を受け、また壁と一つになる。
自然、ありのままを好む自分が明確になる。
自分を作る人間に対しても 距離を置いてきた自分に氣づく。
和多志も壁も同じ元素、波動を共有しあい、宇宙として一つだと思いながらも、「役割は?」と思う自分がいる。
和多志であり、宇宙である、個であり全体であると思わずにはおれない自分がいる。
自然であれば何故思わないのかと尋ねられ、もう一度人工のものと一つになる。
【自己イメージを無に戻す。】 (下記の「無我体験))
自分だと感じているもの(ポジテイブもネガティブも)を 前頭葉、後頭葉を手で押さえ(FOフォルディング:前頭葉、後頭葉を結ぶ)ながらイメージで消す。
消したものは疑うと復活するので 唯、消してゆく。
シャワーで流す、
消しゴムで消す、爆破して霧散さす、燃やすなど。
恐怖症のように強烈なものは、その引き金となった出来事を映画を観るように思い浮かべる。それを白黒に変える。出来事のタイムラインを逆に回す。ビデオテープを引きちぎり燃やす。
自分に合った方法を見つけ(筋肉反射テストで確認)全ての情報を消してゆく。
<和多志の無我になる体験>
全てを消していく。
思いつく情報は金色のバラに入れ、呼吸とともにふっと飛ばし金色の光に戻していく。
消している自分を消すにはその自分をイメージで対象化し 消しゴムで消すのが有効であったが、主体と思っている自分をデジカメで撮り、パソコンで消去する(脳の情報は瞬時に消すほうが消しやすい)ほうが効果的だと思った。
自分を消すと魂が震え、身体のエネルギーが一挙に動き始める。
魂を消すと、胸の湧き立つエネルギーが渦になり、身体の感覚が消え、限りもない平安が訪れた。
五感に意識を傾けると(目を開くと)渦は消え去り、キラキラ光る光の海が広がる。
「自ら宇宙である」涙が溢れました。
消すとは脳の自分が生んだ情報のみであり、存在そのものを消すことではないことにも氣づきました。
魂もエネルギーでした。(勝手な、定かではない魂イメージを消すと胸からエネルギーとして立ち現われました。)
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