https://oratio.jp/p_column/basutyan-no-tsubaki 【聖なる木、バスチャンの椿】より
椿が長崎や五島のキリシタンゆかりの木として大切にされる所以は、バスチャンの伝説にあった。
バスチャンの椿の一片(長崎市外海歴史民俗資料館)
長崎市外海歴史民俗資料館の2階には、禁教時代にキリシタンが密かに信仰の対象としたマリア観音やロザリオ、メダイのほか、キリシタン暦(日繰りひぐり)や祈りの言葉を書きつづったものなど、潜伏期にまつわるさまざまなものが展示されている。その中でも、外海ならではのものが「バスチャンの椿の一片」だ。地元の伝説では、次のように紹介されている。
禁教時代、日本人伝道士バスチャンが樫山かしやまで活動していたとき、赤岳あかだけのふもとの山中にあった1本の椿の木に指先で十字を記した。すると、その十字の形が木の表面にはっきりと残ったという。以来、キリシタンたちはその木を「霊樹」として大切にし、赤岳をキリシタンの聖地とした。浦上のキリシタンたちは自由に赤岳に行くことが難しかったため、岩屋山いわやさんに登り赤岳の方向に向かってオラショ(祈り)を唱えていた。そんなある日、厳しい取締りの中で、バスチャンの椿を役人が伐採するという噂うわさが流れる。信者たちは、役人に切られるよりは、自分たちで切ったほうが良いと考え、夜中に山へ入って涙ながらに切り倒した。大きな幹は海に沈め、残りの木片は持ち帰って小片にし、各家々に分配したと伝えられている。キリシタンたちはその木片を宝物とし、死者を葬るときにも使用した。
https://oratio.jp/p_column/basutyan-higuri 【バスチャンの日繰りとは?】より
外海の潜伏キリシタンが大切にしたというバスチャンの日繰り。一体、何が書かれているのか?
バスチャンの日繰りは、外海では「お帳」と呼ばれ、組織のリーダー「帳方」が管理した(外海歴史民俗資料館所蔵)
外海の潜伏キリシタンたちが約250年もの間、信仰を継続できた理由。その一つにあげられているのが、「バスチャンの日繰り」と呼ばれる教会暦だ。キリストの生涯に関する祭式を年間に配分した典礼暦で、1年を通じて信仰心を高揚させるように作られている。
もともと1550年、フランシスコ・ザビエルは同年の教会暦を鹿児島の信徒に与え、日本に活版印刷所が設けられた1590年以降は、和漢字の日繰りも登場した。バスチャンの日繰りもこれらにならって1634年の教会暦(グレゴリオ暦)を太陰暦に改編したもので、バスチャンは師ジワンから暦の繰り方を教わり、それを外海のキリシタンに伝えたといわれている。
暦は、陰暦「二月二十六日、さんたまりやの御つげの日」に始まり、翌年「正月三日、さんぜのびよ丸じ」(聖ジノビオ殉教者、丸じはマルチル=殉教者が訛ったもの)に終わる。「さんたまりやの御つげ」は、大天使ガブリエルが聖マリアにキリスト受胎を告げた日で、つまりキリストの生涯の起点になるもので、キリシタンにとって最も大切な祝日の一つであったことがわかる。
https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20130507_buschan.php 【バスチャン】より
「バスチャン」とは、徳川家光のころに、深堀(長崎)平山郷出身の治兵衛という名の伝道士であったといわれています。おそらく、殉教者聖セバスチャンの霊名をいただき、それが「バスチャン」に変化したのでしょう。
バスチャンは、迫害が厳しくなったため、現在は長崎市となっていますが、そのころは三重村といわれた地の樫山赤岳に潜んでいました。彼はそこで、信徒たちに教えを説き、洗礼を授けていました。
しかし、さらに激しくなった迫害から身を隠すため、池島、松島などを転々とし、最後に出津牧野の「岳の山」に隠れ住みました。しかし、夕餉(ゆうげ)の煙によって発見され捕らえられました。長崎桜町の牢獄に3年3カ月囚われの身となり、78回の拷問を受けた後、斬首の刑に処せられました。
外海黒崎の「サン・ジワン枯松神社」は彼の墓だという説もあります。
「バスチャンの椿」という伝説があります。
バスチャンが隠れ住んだ三重村の樫山赤岳は、当時「神山」と呼ばれていました。この神山にあった椿の大木の幹に、バスチャンが十字架を指で印すと、その十字架の印が幹に染みつき、はっきりと浮き出ました。その椿を、キリシタンたちは霊樹として拝むようになったそうです。
当時、キリシタンにとってこの神山は、聖なる山とされ、三重村や出津からだけでなく、浦上からも信徒たちが巡礼に訪れたそうです。 浦上の三番崩れによって、迫害が再び激しくなり、樫山のキリシタンの中にも捕らえられる者がでました。そして、“バスチャンの椿”が、切り捨てられるとのうわさが流れました。そのうわさを聞き、出津の信徒がこの椿を切り、根本の大きな部分は海に流し、残りを持ち帰りました。持ち帰られた木は、キリシタンたちに配られ、彼らはそれを大切に保管しました。
だれかが亡くなると、この椿の木片を小さく刻み、鉢巻きにして亡くなった人につけて葬ったといわれています。
バスチャンが捕らえられたとき、役人に最後の願いとして、自分の身につけていたものを出津の重次に届けてもらうように頼みました。役人はそれを聞き入れ、2人の足軽に持たせました。
足軽たちが、わらに包まれたそれをこっそりと見ると、中にはキリストの像がついた十字架が入っていました。足軽たちは、驚いてその十字架を落としてしまい、片方の腕が壊れてしまったのを修理して 重次に渡しました。
この十字架は今でも、バスチャンの遺品として、隠れキリシタンたちの間で大切に保存されているそうです。
また、「バスチャンの暦」は、バスチャンが宣教師から教えられた教会暦からのものです。また、共に宣教活動をしていたジワンという宣教師から教えられた 日繰りであるという説もあります。
バスチャンは、「バスチャンの予言」といわれる次のような予言を残しています。
①お前たちを7代までは我が子と見なすが、その後は救霊は難しくなるだろう。
②コンヘソーロ(告白を聞く司祭)が、大きな黒船に乗って来て、毎週でも告白ができるようになる。
③キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになる。
④ゼンチョウ(異教徒)に道で出会ったときは、先方が道を譲るようになる。
キリシタンたちは、この予言をただひたすら信じて、信仰の自由が訪れる日を待ち望みながら、長い迫害の時代を耐え続けたのでしょう。
0コメント