http://www.sapariment.com/mag/01_049.html 【岸本葉子 俳句初心者の三大悩み「何も感じない」「向いてない」「苦手意識」。解決策はとにもかくにもやってみること】より
俳句初心者が抱きがちな質問に対する、岸本さんの回答とは(写真:本社写真部)
『捨てきらなくてもいいじゃない?』『人生の夕凪』『60歳、ひとりを楽しむ準備』などの著書を持つ、エッセイストで作家の岸本葉子さん。岸本さんと言えば「NHK俳句」への出演でもおなじみですが、そのため俳句初心者の方からよく質問を頂くそう。今回「何も感じない」「向いていない」「苦手意識」という、よくもらうお悩み三つについてあらためて答えてもらいました。
【写真】「(俳句の)向き不向きを問うのは意味がない。一句でも多く詠む、もしくは人の句を読むうちに『俳句が趣味の人』になります」と岸本さん
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◆俳句初心者のお悩み相談
俳句ってちょっと面白そう。作ろうとした、けど何も浮かばない。作ってみた、やっぱり無理そう。句会に行ってみた、へこんだ……そんな溜め息まじりの話をよく聞く。
耳を傾けると、共通のお悩みがありそう。特によくある声のふたつを取り上げて、答えというより同感の意を示し、それに対する考え方を記したい。
「待てど暮らせど何もわいて来ない。見てはいる。凝視といっていいほど目を凝らし続けている。が、見ても何も感じない」
◆お悩みその1 ものを見ても何も感じない
「『Q.ものをじっと見ていても、何も感じません』『A.感じたことを五七五にすればいいのです』などと入門書のQ&Aにあると、相談者に思いっきり共感し、回答には、それがいちばん難しいのに! と怒りすらおぼえます。鈍感な私は俳句に向かないのでしょうか」
まさに「あるある」。俳句で最初に言われるのが、ものをよく見よう。感じたことを五七五にしよう。とっつきやすくするため言ってくれるのだろうけれど、初心者にとってこれほど難しいことはない。
俳句には吟行という作り方がある。どこかへ行って、そこにあったものを詠む。吟行にはじめて参加したとき、先生に言われたのも、さきのふたつ。行った先は菖蒲田だ。
俳句歴の長い人からは「私は一本の草の芽の前に50分しゃがみ込んでいたことがある」と聞き、50分は無理でもせめて15分は粘ろうと思い、一本の白いつぼみの前に陣取った。
待てど暮らせど何もわいて来ない。見てはいる。凝視といっていいほど目を凝らし続けている。が、見ても何も感じない。
頭の中をめぐる言葉は「菖蒲」「白」「3枚の萼(がく)?」「つぼみ」「ねじれ」「右巻き」「いや、左巻き」……およそ即物的であり、心はいっこうに動かない。
私はものを感じないタイプなのか。詩心という俳句に必要な資質に欠けているのではと、相当落ち込んだ。
吟行のあとの句会には、決まった数の句を提出しないといけないので、3枚とか左巻きとか書いたが、言うまでもなく誰にも顧みられなかった。
とにかくもういちどと次の回の吟行にも参加し、回を重ねるうちに気づいた。見るだけでなく、手にとってどうこう、鼻を近づけてどうこう、という句が結構ある。
何も見るばっかりではない、触って何か、嗅いで何かを感じないか。毒でなければかんでみるのもアリだろう。押してダメなら引いてみろ、というと荒っぽいが、その精神だ。
そして悟った。見ることは俳句の基本ではあろうけど、「見て何かを感じなければ」と焦れば焦るほど、心が金縛りに遭ったようになってしまう。見るだけにこだわらず、何らかのアクションを起こそう。それがきっかけで心が動き出すこともあると。
◆お悩みその2 俳句に向いていないのでは
お悩みのより大きな問題は、次のところだと思う。「鈍感な私は俳句に向かないのでしょうか」。向き不向きの問題だ。
私も最初の吟行で、花菖蒲の前で真剣にそう考え、うちしおれたのは先述のとおり。自分には資質がないのではと。
けれど思う。もしあそこで先生なり俳句歴の長い人なりにそう問うて「はい、そうです。菖蒲を見ても3枚とか左巻きとしか思い浮かばないようでは、あなたは俳句に向かないからやめたほうがいいです」と答えられたからといって、やめただろうか。
ともかくもやってみる、という選択があるだろう。
精神科医の文章で、次のようなことを読んだ記憶がある。とりあえずやってみれば、やらない人より刺激を受け、それによって気持ちが明るくなる、最大のメリットは楽観的な人間に近づいていけることだと。
続けている今も、果たして向いているのかどうかわからない。というより考えなくなった。向き不向きを問うのは意味のないこと。そのあいだに一句でも多く詠む、あるいは人の句を読む。そうするうちにいつの間にか「俳句が趣味の人」になっていた。
俳句に限らず、趣味に限らず、ものごとはそうなのかもしれない。
◆お悩みその3 苦手意識
「植物の季語が苦手です。これぞ俳句という感じで、プレッシャーを感じます。詩らしくしようとすると花言葉のようになってしまい、それを避けると理科の観察記のようになってしまいます。できれば詠みたくありません」
理科の観察記……身につまされる。初の吟行の菖蒲を前にしての私が、まさにそうだった。そしてその悪癖がなかなか抜けなかった。
さきに書いた「見れば感じる」の焦りの他、相談者の言うプレッシャーもありそうだ。「この花は昔から日本人がいろいろな思いを託してきたに違いない」と。
高校の古典の授業や百人一首の経験が、悪く作用するのかもしれない。植物の脇の立て札に「この花は万葉集の頃からよく詠まれ……」などと歌が書いてあったりする。
ものを知らないのも恥ずかしいので、歳時記で季語の説明も確かめ「ああ、この花にはそういうことを感じるべきなのだろうな」「こう詠むべきなのだろうな」と、説明のほうに自分を合わせようとしてしまう。
説明にあることそのままでは芸がないと思い、少し外して、かつ何らかの詩心をはたらかせようとし、たとえばカタクリの花ならば「日陰に咲く」「うつむき加減」「控えめに」など、相談者の言う花言葉……を通り越し、流行り歌のようになってしまう。
われながら陳腐に思えて、詩心を控えると、3枚とか左巻きとか理科になる。その堂々めぐり。
ひと頃は吟行先が何かの花の名所だと、それだけで気が重くなっていた。が、どこへ行っても植物はあるわけで、まさしく逃れられない。
◆苦手意識の克服は、「らしさ」から自分を解き放つこと
ひとつの方法は、その植物に関係した自分の動作を詠むことだ。
さきの触って、嗅いで、と似ているがその延長というか、カタクリを例にとれば、カタクリへ向かって斜面を登るとか、膝をつくとかいうことを詠んだ句が結構あるなと、句会で気づいた。
他人の動作を詠んだ句も、ある。カタクリの群れのそばに腰を下ろして休む人、など。
そういう詠み方が「カタクリらしい」かどうかは、わからない。が、自分では判断がつかないからこそ、人に読んでもらうのだ。ダメ出しをするのは自分ではなく、人に任せるつもりで、とにかくやる。
もうひとつ考えたいのは、さらに深い話になるが、「らしさ」にとらわれすぎていないかと。カタクリらしいか以前に、「俳句らしいか」と。
いろいろな季語の中でも特に植物に苦手意識があるのは、俳句は季節の詩、植物こそは季節を代表するもの、と構えてしまうからではないだろうか。
「俳句らしい」かどうかも、自分ではわからない。その判断も人に委ねて、「らしさ」を考えないようにしよう。そう割り切ってからは、植物が前ほど嫌ではなくなった。
苦手意識の克服は、「らしさ」から自分を解き放つこと。これも俳句を離れ、他のところでも試みていきたいことである。
※本稿は、『60歳、ひとりを楽しむ準備―人生を大切に生きる53のヒント』(講談社)の一部を再編集したものです。
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