Facebook福本悟さん投稿記事·
今日はこれからあるところに行きます。私は音楽とか芸術とか無縁でした。似合わないです。
ここにアップしたのは、音楽・歌から平和を考える。気づかせられるお話です。
ウクライナの現状、そしてこれを受けた世界各国の動き、日本国内で『ここぞ』とばかりに言い出される『改憲』について、私が子どものころの思い出と、今私たちが、子どもたちのために考え、行動すべきことを書いたものです。
このところ、憲法9条を中心に、同じような投稿をアップしているのは、能がないし、自分は変わらない。また危機感なんでしょう。
2018年の今日5月17日の投稿です。よろしかったらどうぞ。
福本悟
2018年5月17日 ·
私もは音痴です。歌にはあまり関心はありませんし、若いころ、たまにカラオケをやったことはありますが、皆さん私の歌?など聞いていなくて、終わると拍手があった程度でした。
でも歳を経ると歌詞にはハッとする、惹き込まれる、また何かに使いたくなる素敵な、感動的な詩があることに気づくようになりました。私は移動中の機内では、設備がある機体の場合には、たいていイヤホンを借りて、オーディオを聞くともなく耳にあてがっています。
今週利用した航空機のオーディオから、男性だけ女性だけ複数による歌が特集されていました。カラオケの定番男女のデュエットではありません。また男性だけ女性だけと言っても、ジャニーズ系やAKB等ではありません。懐かしい日本の歌と言う感じです。
特に『あずさ2号』『いちご白書をもう一度』等私が20代のころの懐かしい曲が少なくなく、『あのころ』を思い出しましました。そんな中で、ジローズが歌った『戦争を知らない子供たち』を久しぶりに聴くことができました。
この曲は、私が中学生のころ、折からのフォークソングの流行に乗って聞かれたもので、学芸会やクラス対抗の諸々の行事のとき、学校でみんなで歌いました。高度経済成長が頂点に達したころ、第何次ベビーブーム世代と言われて数年でしたか。戦争を知らない世代より、戦争を知っている世代が多かった時代でした。
あのころはなんとも思わなかったのですが、戦争経験世代は、自分たちの苦労や平和の尊さを子どもたちに教えようとした、しかし戦争を知らない世代は、何かピンと来ず、それは戦争を知らない子どもたちだから仕方ない、大人よわかってほしいの歌だったのかなと思いました。ただ、その歌詞の中でもハッキリ覚えているフレーズがありました。
それは、『大人になって歩きはじめる。平和の歌をくちずさみながら』の部分です。大人たちの苦労と願いで獲得し、当時私を含む子どもたちには当然のように与えられていたのか平和な社会でした。
戦争を知らない子どもたちは、大人にならないとその有り難さ、大切さはわからないかもしれない。しかし大人になったとき、戦争を知らない子どもたちと言われた私たちは、永遠にこの国の子どもたちが、戦争を知らない子どもたちであることを守らなければならない。その時平和の歌を子どもたちと一緒に歌おう!そう言った誓いと約束の歌だと思います。
この曲を歌ったジローズとは、ジローの名がつく音楽家が集まったから名付けたと言われています。メンバーは変わりましたが、杉田二郎さんが中心であることに変わりはない。私は数年前、あることから杉田二郎さんに関心を持ったのですが、『戦争を知らない子供たち』は、杉田二郎さんだったからこそ、世に出たのだと考えます。
この曲の作詞者北山修氏は、実は既に作詞していたところ、誰も作曲してもらえず、ある作曲家など鼻で吹いて笑ったとか。そこで北山氏、当時無名?の若い杉田二郎さんのもとに持って行ったそうです。すると杉田二郎さんは、この詩に素直に感動して、ぜひ曲を付けさせてほしいと逆に頼みんだとのことでした。
1971年にレコード化した『戦争を知らない子供たち』は、30万枚のヒットとなり、ジローズは、その年のレコード大賞新人賞を、北山修氏は、作詞賞を受賞したのでした。北山修氏は、折からベトナム戦争に対する日本国内の世論・政治が対立して中、堂々とこの曲を歌う杉田二郎の後ろ姿に素直に感動した。これを世に出すことに躊躇した自分は、何と小さな人間だったのかと述懐されました。
この曲が発売されたのは、戦後25年が経過したころです。先の大戦の結果日本は、それまでの国民は臣民に過ぎなかった規範が変わって、個人の尊厳を根本規範とする日本国憲法ができております。日本国憲法の三大原理は、基本的人権の尊重、国民主権、恒久平和主義です。
日本国憲法前文では、日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動すること、我らと我らの子孫のために、諸国民の共和による成果と自由がもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍を起きないよう決意して、この憲法を確定したと記されています。国民主権、自由主義、そして平和主義が明らかにされている。さらに日本国民は恒久の平和を念願し、崇高な理想を深く自覚した上で、平和を愛する諸国民の正義と公正に信頼して、我らの生存と安全を確保しようと決意しました。全世界の人々が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを高らかに宣言したのです。人間の尊厳を確認した上で、政策としての国際協調主義と、原理として平和的生存権を謳った。自国他国に関わりなく、戦争が起きることは予想しておりません。
これを受けて日本国憲法9条があり、1項の解釈は分かれるものの、2項で一切の戦力を放棄し、国の交戦権を否定したので、たとえ自衛のためであつても、ーーそういう理屈をつけてもーー戦争は一切放棄したことになります。安倍政権より前の歴代政府は、そのように解釈しており、それ故に個別的自衛権を行使するために存在する自衛隊は、戦争をする装置ではなく、専守防衛に徹する最低限度の実力部隊とされておりました。
しかしそれでも三十数年前の日本で、若者たちは、ベトナム戦争に参加するために、日本にある基地からアメリカ軍が派遣されることに、『戦争を知らない子供たち』は、この現実を知らなければならない。日本には戦力も軍隊も武器もないのだから、本当にこれで良いのか、戦争に巻き込まれないか。また、他国の国民だって平和的生存権があるのだから、日本の子どもたち、もっと学ぶ必要があるのではないか、そんな疑問を持った。そして今はわからなくても、大人になったら平和の歌を歌おう!と言うメッセージを歌に託して発信したのでしょう。
あのころ子どもだっだ私の世代は、お浄土で生きることになるその時まで、戦争を知らないままですむかもしれない。すむかもしれないなんて、私が子どもの時は全く考えてもいなかった。永久に戦争はない、将来の子どもたちも、戦争に巻き込まれることもない、やがて他国も日本国憲法のように、人間の尊厳を破壊する最たるものである戦争は、やがて地球上から無くすだろうと思っていました。
しかしどうでしょう。かつて司法試験にも出題された『日本政府は集団的自衛権の行使は、日本国憲法上認められないと解している』を、政府は閣議決定でひっくり返しました。他国に対する攻撃であっても、それが日本国の存立危機事態が発生したと解釈されるならば、地球の裏側まで自衛隊が、『最低限度の実力装置』を持って派遣される安保法を、国会は、強行採決されました。
核兵器も化学兵器も生物兵器の保持も、日本国憲法上許されるとも閣議決定しています。例年国連に、核兵器の廃絶の署名を届ける国内の高校生平和大使による国連でのスピーチを遂に無くすなど、安倍政権になって、本当に日本国民は、永久に『戦争を知らない子供たち』でいられるのか、不安が高まります。
そして改憲と言う名での憲法の規範の破壊が進めれている。自民党改憲草案では、個人の尊厳が無く、国民は、人として尊重され、権利は、公に反しない限度で保障されるように読めるのです。
こうして改正された憲法は、為政者を縛り拘束するのではなく、国民が守らなければならないとなっている。つまり国民主権のもと、権力の行使を委託された者が守るべき規範を、自分たちのために国民に守れと求める本末転倒の代物です。
そして自民党改正草案は、国防軍なる軍隊を持てることとしています。すなわち国防軍は、自衛のためーーと言う名目でーー戦争ができることになる。しかも既に成立した安保法により、集団的自衛権の行使が可能とされているから、日本国外のどこにても、『軍隊』が派遣されることになる。安倍一強となり、選挙のたびに自民党に投票したら、あるいは『野党はだらしない』『入れるところがない』として投票に行かないと、こうなってしまう。本当にこれでよいのですか?
私が杉田二郎さんの名を再び意識したのは3年前です。その前に今チョットしたことで紙面を賑わす時の人。愛媛県知事中村時広氏を挙げなければなりません、
現在愛媛県知事中村時広氏は、幼稚舎からの慶應ボーイですが、かつて日本新党から立候補して衆議院議員となり、その後2010年まで11年間松山市長を務めました。行政改革に力を入れ、いっぼうでは『日本一のまちつくり』を標榜して、市民が誇れるまちつくりを目指し、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』をモチーフして市民生活に絆と活気をもたらす施策を進めたと言われます。私は、松山市で2回ほどこの方の挨拶を聞きましたがとても面白かったことを覚えています。
この中村時広氏が、松山市長を務めたとき『松山市21世紀イベント委員会』が設立し、『21世紀に残したい言葉』が募集されました。その中で、松山市長賞を獲得したのが『恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい』でありました。2005年に松山市内で開催された日本ペンクラブ『平和の日 松山の集い』で、この言葉に感動したゲスト2名が即興で歌にして披露しました。すると会場内では、感動のあまり、涙する姿が見られたそうです。その後『この街で』は、『ことばのちからが生んだ歌』としてCDになり、松山市から、全国に広がったと言うことです。
この曲は、最初中村市長から託された新井満氏以来何人ものアーティストがカバーしています。そして2014年にスーパーユニット『ブラザーズ5』が結成されました。そのリーダー格が杉田二郎さんです。私は2015年2月搭乗した航空機のオーディオから流れる『この街で』を始めて聞きました。涙が止まりませんでした。まずは歌詞を聞いてください。
『この街で生まれ、この街で育ち、この街で出会いました、あなたとこの街で。この街で恋し、この街で結ばれ、この街でお母さんになりましたこの街で。あなたのすぐそばにいつもわたし。わたしのすぐそばにいつもあなた。この街でいつかおばあちゃんになりたい。おじいちゃんになったあなたと歩いてゆきたい。』この後、坂の上の雲の街らしく、松山市の情景が入りますが、この街で生まれてお浄土に行くまで、愛する人と愛する街で、ごく当たり前の平穏な暮らしをしたいと言う思いが現れている曲です。
杉田二郎さんはこう言います。『この街で』に出てくるストーリーがすごく純粋で理想形。この街で生まれて、この街の人と恋をして、そして人生を全うしていく。なかなかできるようでできない。とてもきれいな夢の世界。こころが洗われると。杉田二郎さんらしい感想です。
『この街で』の主人公となるご夫婦は、おそらく日本国憲法のもと、戦争を知らない子どもがそのまま大人になり、当たり前のしあわせを感じて、大切な人と一緒に生涯を遂げることができるでしょう。よい時代だと思えて。
戦争を知らない子供たちが、今大人になり、主権者国民から、国民のための執政を託されています。ところで現在の国会議員の中で、戦争を知っている人はいるのでしょうか。先の安保法制のとき、自民党の先人たち、野中広務さん、山崎拓さん、古賀誠さんらが、強い反対の意思を示しました。しかし官邸や与党からは『バッヂを外した人』と意にも返しません。戦争を知らない子供たちの中には、戦争経験がある大人から、必ずしも学んでいなかったことが露わになりました。
平和の歌を口ずさむことはないのですか。個人として尊重され、家庭家族は、それぞれ個を尊重しあって、それぞれのしあわせを求めるのではないですか。自民党改正草案のように国から、家族は互いに協力しろと言われるのはおかしくありませんか!誰のため、何のためにそんなことを言われなければならないのか。
好きな人と好きなように暮らして、ささやかな平穏な日々をおくれること。これが杉田二郎さんが言われるように、『できるようでできない理想形』なのではないでしょうか。しあわせとは他人からこうだと言われて、与えられるものではない。それに気づかない当たり前の日常がおくれることだと気づかされたのが『この街で』です。そして杉田二郎さん。
杉田二郎さんには、まだまだ平和の歌、家族の歌を歌ってほしいです。そんな歌も曲も、こんな意見も表現も、日本国憲法があるから、この規範が変えられていないからできることです。
しあわせは気づかない、見えないところにあるとはしばしば言われることです。日本国憲法により、私たちの現在が守られていることもまた、なかなか実感できないのだと思われます。歌や劇にして、まだ戦争を知らない子供たちに教えることが、戦争を知らない子供だった私たちの責務です。
なおこの投稿の後半半分は、きさらぎ法律事務所ホームページ『福本悟のひとりごと』の2015年2月18日からほぼ引用したことを付記いたします。今日もご一読ありがとうございました。
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