松も時なり竹も時なり

Facebook相田 公弘さん投稿記事「松も時なり竹も時なり」いのちと時間 相田みつを               

すこし理屈ッぽいこといいますが、ごめんなさいね、

道元禅師のことばに、 松も時なり、竹も時なりというのがあります。

松は松の時間を生きる、竹は竹の時間を生きる 山口さんは山口さんの時を生き、

田中さんは田中さんの時を生きるということです。

人間がね、便宜上作った一日二十四時間という時間にですねえ或場合は拘束されたり

或場合は追いまわされたりしながら毎日を夢中で生きているわけですが道元禅師の言われる時間はそういうものではないんです。

山口さんは山口さんの時間を作りながら生きる 田中さんは田中さんの時間を作りながら生きる だから山口さんの時間と、田中さんの時間は全く別 それが道元禅師のいう時間です。生きるいのちがそのまま時間 生きた時間がそのままいのち 自己のいのちと時間はいつでも一ツ それが道元禅師の考え方です。

恋人を待つ間の一時間は、とてもとても長いのに 恋人と一緒にいる時間は大変短い

アッという間に過ぎてしまう

同じ一時間でも生きた中味によって 時間の長さと密度が全く違う。

ぐちと泣きごとばかり言っている人は ぐちと泣きごとの時間を作りながら生きている人

言いわけと弁解ばかりしている人は 言いわけと弁解の時間を作りながら生きている人

そして- 明るくさわやかに充実したいのちを生きている人は 明るくさわやかに充実した時間を作りながら生きている人です。

どういう時間を作りながら生きるか-?

それを決めるのは、だれでもない

「いつでもこの自分!!」

◇出典「じぶんの花を」(文化出版局)出版


【円環の世界か直線の世界か?】

時の概念はとても大事です。わたしは ティーリッヒの「永遠の今」の影響を受けました。

火の鳥伝説も 心を揺さぶるものでした。

若き日 ニヒリストであった私は ニーチェがツァラトウストラとして語った「死後の世界はない」という言葉に安堵の息をつきました。

然し霊魂不滅(エネルギー不滅の法則)とも知るに至りました。

中学生の頃、私は生きる意味を探し続けても得られない故、ニヒリズムの淵に落ち込んでしまいました。生きることも死ぬこともできない必死のあがきの中で「生きる意味を問う」ことを放棄し 生かされているものとして 創造主の意志に沿うものとして「生き方を問われるものになろう」と決め 啓示宗教であるキリスト教に賭けて人生を歩み続けました。

しかし、キリスト教の時の概念が直線であることに疑問を持ってしまいました。

「円環の生命観」とはあの世にこの世が包含されているということでしょうか?

神道はあの世(あめ)とこの世(うつしよ)を分けますが「ま」を至るところに見出しあの世とこの世を一つとして考えていたのでしょうか?

どなたかお考えを聞かせてください。


【死と再生】

中学生の頃 私は 「生きる意味ばかり」を求めるニヒリストでした。

授業は 興味が持てなくなると 読みたい本を読み 教室から追い出され クラス担任が担当教師に平謝りすることが何度かありました。

休憩中は職員室に入り浸りで 教師相手に「生きる意味」を問い続けました。

ある理科の教師が 「命なんて リトマス反応のようなものだよ」と言ってのけました。

その時は大ショックでしたが 命はニュートラルなエネルギーであり 人生の意味は個別で 魂が選んで決めること、そして魂の選択によってエネルギー現象が変化することを 実感するようになりました。

生きる意味は自分が選んで作り出すという意味になります。

ある国語教師は「死ねる自由がある者と 無い者とでは どちらが幸せか」と私に尋ねました。

私が「行き着く先が墓場だから 好きなことをして、切羽詰れば死ねばよい」と断言し 自分を満たしてくれるものを求め始めたからです。

「幸せの青い鳥探し」を始めたのかもしれません。

生きる意味も、自分を満たしてくれるものも 外に求め続ける限りは決して 掴み得ないものでした。

喉の乾きを潤すために塩水を飲み ますます乾きに苦しみ 喘ぎ続けた思春期でした。

しかし死の自由とはなにでしょう?

私たちは日々新しい存在です。新陳代謝そのものがそれを示唆します。

私たちは体に宿った時から死と再生を 繰り返し 成長します。

胎児に死に乳児に生まれ 幼児に死に小学生となり 子どもに死に大人に生まれ………

死と再生はセットといえます。

私たちは 動物の命を食することで 罪責感を煽られますが それは人間の死への恐怖の投影現象と言えるのではないでしょうか?

命は命の循環によって支えられます。

肉体の死を白装束で祝う文化も 喪服で嘆く文化も存在します。

聖書には一粒の麦が死ぬことにより 千倍、万倍の麦の命を結ぶ譬え話があります。

同じく聖書の創造物語では 人間が 動物、植物を(感謝を持って)食することは 祝福されています。

また命は循環することで 進化の過程をたどります。

動物が死を恐るとは 人間の勝手な感情移入かもしれません。

そのうえ「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・ティラーさん(左脳出血から立ち直った 神経細胞学者)は 人間の脳は左脳が鎮まるとき「人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心が和んでいきました。」

「意識は悟りの感覚、あるいは意識と融合して『ひとつになる』ところまで高まっていきました。」「心地よいのです。」と語ります。

人間は左脳に後悔や、思い残すことがなければ 安らかな死を迎えうるとも言えます。

思い残すことがないとは「人生でやりたいと願ったことが完了し」「自分を必要としているものが居なく」、「別れを嘆くものがいない」ことかもしれません。

あるいは人生に飽き飽きしていることかもしれません。

いずれにしても 生と死はセットであり 死が前提の(他の死によって支えられる)命の歩みを感謝を持って歩みたいと願います。


【死後の世界はある】

エベン・アレクサンダー氏は脳神経外科の世界的な権威者です。

死に直面した患者さんを沢山助ける中で 患者さんたちから幽体離脱体験、トンネルを抜けた先の光の世界、そこで亡くなった親族、友人と会った話などを聞いてきましたが 単に脳の錯覚、幻覚だと決め付けて、聞き流してきました。

臨死体験者の証言集は色々出版されていますが 科学的な証明が得られないため それらは皆懐疑的な目で見られてきました。

エベン・アレクサンダー医師も 臨死体験、死後の世界の存在を否定してきました。

その彼が5年前、54歳のときに 細菌性髄膜炎、しかも悪性度の高い大腸菌に侵され、昏睡状態に陥りました。

その時の臨死体験から死後の世界があること、脳が生み出す錯覚説・幻覚説を覆すことになったのです。

(脳の錯覚説、幻覚説)

1.脳は死の直前に 痛みを和らげるため 脳内物質(エンドルフィン)を放出します。

このエンドルヒンが覚せい剤を投与したと同じように 幻覚を見せるという説。

2.幻覚を見るのは 脳幹でも可能という説。

3.脳の再起動説。

レム睡眠時に夢を見るように 昏睡状態から覚める時 古い記憶が支離滅裂に甦るとする。

大腸菌による髄膜炎はこれまで回復したケースがなかったということです。

彼は1週間の昏睡状態が続き 死のタイムリミット直前に 蘇生することができたのです。

退院した彼は自分の臨死体験を徹底的に調べることになりました。

入院中の自分の脳の状態を調べると 脳は機能停止になっていました。

テレビのスイッチを切ったような、意識はブラックアウトの状態でした。

エベン・アレクサンダー医師は 1の説に関しては 自分の脳の写真を示し 大脳皮質がダメージを受け 機能停止になった状態で 脳内で起きたことを映像で見ることは不可能と主張します。

2の説に関しては 自分の体験の克明な記録を示し 脳幹ではこれほど鮮明で複雑なものを見ることは不可能と主張します。

3の説に関しては昏睡状態の時お見舞いに来たものを覚えていること。臨死体験時に出会った女性は まだ会ったことのない(脳の記憶に存在しない)彼の実妹であったことから 臨死体験は脳が創りだした幻覚・錯覚でなく、古い記憶が甦った幻覚・錯覚でもないと結論つけます。

更に「脳が働けない状態の時に起きた出来事を どうして脳が記憶できるのか?」という質問に対し「意識を、そしてその瞬間に立ち会った記憶を形成するものが 脳以外にある。」と答えます。.

エデン医師の衝撃的な発言を受けてかのように「人は死なない」という著書をだした 東京大学 大学院医学系研究科 医学部救急医学分野教授 医学部附属病院 救急部集中治療部部長「矢作直樹」氏へのインタビユー、

異次元世界を科学的に証明した 物理学者・ハーバード大学教授「リサ・ランドール」氏を紹介した動画です。

彼女によると 縦・横・高さそれに4次元の時間を加えた世界が通念でしたが それに加えて見えない、すぐ近くにある 別の次元が存在するという主張です。


【「あま」と「うつしよ」】

東大の臨床医・矢作医師は「人は死なない」と主張します。空海も「人は死なない」と言います。

日本人は古来「あま(あの世)」と「うつしよ(この世)」を想定し 二つの世界をつなぐ「ま」を大事にしてきました。

「ま」をつり合わせる「まつり」は神事として祀られてきました。

祀り・祭り・奉り・政りとは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)であると言われます。

祭のお囃子、太鼓や鈴の音。神輿や踊りや香り。祭に預かるものは いつしか変性意識になり潜在意識とコンタクトする=神からの啓示=ご神託 を受けとることになります。

「ま」つりを行えば「うつしよ」に居ながらにして「天」と交信できるともいえます。

「命」は「人が一を叩く」と私が解釈したことに対し、本来命という字は「令と口に分けられます。

この口は祭器を表し、礼服をつけて 跪いて神の啓示を待つもの。ゆえに神の啓示を意味します。」との指摘を受けました。

然し「神の啓示を受け取れるもの」は「ひとつを体験できるもの」だと思うのですが如何でしょう?

「あま」と「うつしよ」の関係は キリスト教の直線的な時間感覚に類似しています。

あの世の中にこの世が内包され(これが五次元、形成磁場の概念なのでしょうか?)永遠の中に今が内包されている。

永遠の象徴である「円」は「直線」の集合であり、直線は 位置を示すことのみができる「点=0」の集合です。

永遠はゼロの集合でありそれは即ちゼロであることになります。

円は永遠の今を表していることなのでしょうか?

私はキリスト教の時間観は直線的と錯覚していたのでしょうか?

ヨベルの年、最後の審判の概念が時を直線に見せていましたが 

円=ゼロであり無限であれば時は循環することになります。


【あの世とこの世】

天外伺朗さんの「般若心経の科学」は示唆に富んでいます。

「この世を二元世界 あの世を一元世界」と説き「二元性を取り除いていくことが悟りのプロセスではないか?」と語ります。

それは「正・反・合」「テーゼ・アンチテーゼ・シフト」の止揚のプロセスのようにもとれます。フォーカシングによる自己一致の過程のようにも取れます。

一元世界の一体感を取り戻すということにおいては 右脳・左脳の統合ともいえます。

また 一元世界は 渾然一体となった「たたみこみ」の世界だと表現しています。

私には よくわかりません。以下のように考えてみました。

一元世界に二元世界は包含されており 五蘊をとおして マトリックスの世界二元が認識される。

それであれば 死とは五蘊を失うことでしょうか?

たたみこみとは「素粒子であり波動である」、「吾(左脳意識)であり宇宙(右脳意識)である」という情報が霊魂の情報としてDNAに組み込まれているということでしょうか?

(DNAの二重螺旋は 私にはメビウスの輪のように見えます。)

シーターヒーリングでは 輪廻転生で受け継がれる情報は 松果体にあるマスターセルの遺伝子情報、ハートにあるマスターセルの魂情報 尾底骨にあるミシャクジ神のマスターセル情報だといわれます。

それは「霊魂と観音菩薩(命)」ともとれます。

素粒子であり 波動であるとは 自転・公転が生む現象でしょうか?

自転だけだと 落下は振り子になり無限大になると聞きます。公転が加わると 波動になる感じがします。

それとも 波動は 乖離光線から紫外線、可視光線、赤外線、音波、超音波 その他様々な波動が 共鳴し合ったり、増幅し合ったり、干渉し合ったり、引き合ったり、反発し合ったりしながら渾然一体となっているということでしょうか?

バーコードを連想させます。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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