Facebook平木 大士さん投稿記事 近江国の日吉めぐり③ ~生源寺~
日本の天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が生まれた地とされる生源寺(しょうげんじ)です。
ここは、最澄の父にあたる三津首百枝(みつのおびとももえ)の邸宅跡だったといいます。
また、最澄の母は藤原北家の娘だったようです。
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https://ameblo.jp/navihico-8/entry-12738528814.html 【近江国の日吉めぐり③ ~生源寺~】より
京阪電車の坂本比叡山口駅のすぐちかく日吉大社(ひよしたいしゃ)の二ノ鳥居の手前に生源寺(しょうげんじ)があります。
ここは、日本の天台宗(てんだいしゅう)の開祖である最澄(さいちょう)の生誕地だといわれ、最澄の父・三津首百枝(みつのおびとももえ)の邸宅跡だそうです。
最澄が生まれたときにつかった産湯の井戸もあるといいます。
どうやら、ここも井戸にゆかりがあるようですね。
天台宗といえば空海(くうかい)の真言宗(しんごんしゅう)とともに平安京をささえた二大仏教(密教)であり新しい世をきずく新しい教えとしてひとびとに、おおきな影響をあたえたようです。
そんな最澄が、故郷・比叡山(ひえいざん)に草庵をむすんだのが比叡山・延暦寺(えんりゃくじ)のはじまりだといいます。
最澄については、いずれ延暦寺の御廟をたずねてからくわしく書こうと思いますので今回は、最澄の両親ついて詳しくみてゆきます。
まずは、父である三津首百枝ですがこのかたは、名を浄足(きよたり・きよあし・きょし)
ともいうようです。
大陸からの帰化人の子孫といわれ祖先は後漢(ごかん)最後の皇帝・孝献帝(こうけんてい)[189~220年]といわれその子孫にあたる登萬貴王(とまきおう)が300年ごろに帰化してこの地をあたえられ姓を「三津首」としたのがはじまりのようです。
220年の後漢の滅亡から三国志の時代がはじまり三国が統一されたのが280年だといいますから三国志の時代をまたいで渡来したようですね。
秦氏(はたし・はたうじ)の渡来は、第15代・応神(おうじん)天皇の時代であり、これも280年ごろとされるようです。
日本が諸外国との交流を公式的にはじめた時期でもあったようですね。
坂本の地にながれる大宮川(おおみやがわ)はかつて、三津川(みつのかわ)といわれたようですし最澄の出生地も『近江国滋賀郡古市郷三津ヶ浜』とされるようですから三津をおさめる首長から「三津首(みつのおびと)」をたまわったのでしょう。
首(おびと)は姓(かばね)だといいます。どうやら、この地の豪族として栄えたらしく
隣接する大将軍(たいしょうぐん)神社が坂本の総社となっているのも日吉大社・二之鳥居があり日吉馬場がはじまっているのも坂本比叡山口の駅がここにつくられたのもかつて、坂本の首長が暮らしたからなのでしょう。
「三津(みつ)」は「水(みつ)」につながり比叡山からながれる豊かな水(川)と
井戸からの湧き水のことでもあるのでしょう。
また、3つの津(港)」とすれば山王祭(さんのうまつり)の若宮・七本柳・唐崎という湖畔の地が「3つの津(港)」なのかもしれませんね爆 笑
最澄の母親は藤原藤子(ふじわらのとうし)といい藤原鎌足(かまたり)藤原不比等(ふひと)藤原房前(ふささき)[北家の祖]藤原魚名(うおな)藤原鷲取(わしとり)藤原藤子
とつづく藤原北家ですから大貴族の娘だったようです。
また、父・鷲取の子孫は戦国大名の伊達氏や平将門の乱をおさめた藤原秀郷(ひでさと)に
つらなるらしく有力な武家を輩出した血筋でもあるといいます。
最澄が生まれたのは767年(766年?)といわれます。
帰化人である三津首は400年ほどのあいだに一大豪族となり、中央貴族の藤原家と結びついたのでしょう。
そんな富も権力もあるおふたりですがはじめは、なかなか子ができなかったといいます。
困り果てた百枝と藤子は八王子山の奥に庵をたてて一週間の願をたてたそうです。
すると、ようやく瑞夢をみることができて8月18日、蓮華の花がふるというめでたいしるしのなか生まれでたのが最澄だといいます。
最澄の幼名は三津首広野(ひろの)だったそうです。また、母・藤子は出産ののちに妙徳(みょうとく)と名をあらためたそうです。出家でもしたのでしょうか?
最澄は14歳になると近江の国分寺で仏道修行をはじめ19歳になると奈良の東大寺で具足戒をうけて官僧(比丘)となり22歳になると比叡山にこもったといいます。
生源寺の創建は800年ごろといわれ最澄が34歳のとき両親の恩に報いるために建立したといいます。
もしかすると、唐へと渡る下準備として親への恩をさきに返したのかもしれませんね。
そんな、最澄でしたが唐での修行を終えて無事に帰国し天台宗を開いたのが806年・40歳のときだったようです。
名声もひろまりおなじく唐での修行をおえて帰国した空海との仲も深まる811年に父・三津首百枝はなくなったといいます。
夫を失った母・藤子(妙徳)は故郷の山城国山ノ内に身を寄せていたそうです。
そうして、そのまま山ノ内の地で817年に母・藤子もなくなったといいます。
最澄が亡くなったのは822年だといいますからそう離れてもいないようですね。
父・三津首百枝を祀る百枝社や母・藤子(妙徳)を祀る市殿(いちどの)神社は生源寺のちかくに建っているといいます。
市殿神社は、かつて比叡山の花摘峰に祀られていたといいます。
比叡山の旧地には花摘堂が残るようですね。
市殿には神につかえる女人とか巫女という意味もあるようです。
母・藤子(妙徳)とは霊力の強いかただったのでしょうか?
最澄が詠んだ和歌にも故郷のものもあるようです。
『三の川ひとつの海となる時は舎利弗のみそまつ渡りける』
「三の川」とは「三津川」でありひとつの海とは琵琶湖のことでしょうか?
また、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり大阪湾にそそぐことでもあるのでしょうか?
だとすると、松とは遣唐使船も発ったという住吉大社(すみよしたいしゃ)のことかもしれませんね。
また、面白いのは比叡山の最澄の御廟と最澄生誕地の生源寺をむすぶと西本宮の地をとおるといいます。これも、意図的なのでしょうか?
さて、個人的にすごく気になっているのが三津首と秦氏との関係です。
松尾大社(まつおたいしゃ)では大山咋神(おおやまくい)が秦氏の氏神とされているのに
日吉大社では、おなじ大山咋神が祀られているのに秦氏の影がとても薄いようです。
渡来時期も、ほぼ同じであり関わりはありそうなもののはっきりとした話がほとんど見当たらないのが逆に気になってしまいます。
秦氏隆盛のきっかけは第29代・欽明(きんめい)天皇が秦大津父(はたのおおつち)を
取り立てたことによるのですがこのかたは、商人として財をきずき京都の伏見のあたりに
暮らしていたといいます。
しかし、その名前に「大津」が見えることからこの地にもなにか関わりがあるのかもしれません。
また、欽明天皇の父は第26代・継体(けいたい)天皇であり継体天皇の出世地は滋賀の高島といわれます。これもまた、そう遠くもありません。
そもそも、日吉大社は古代の磐座信仰にはじまるといいますが磐座を祀っていたこの地ゆかりのひとびととのちに流入した帰化人・三津首とのあいだにはどのようなやりとりがあったのでしょう?
三津首たちは磐座や大山咋神の祭祀をつづけたのでしょうか?
もしかすると、大山咋神は三津首たちがもちこんだ神なのでしょうか?
さらに、母・藤原藤子の故郷である山城国山ノ内といえば秦氏の本拠地である太秦(うずまさ)のすぐ隣です。
藤子の祖父・魚名は政争にやぶれて782年に息子らともども左遷の地・大宰府(だざいふ)にむかう途中、摂津国豊島郡で発病し摂津国河辺郡の別荘で療養しているときに亡くなったといいますが魚名の墓は大阪府豊中市にある服部天満宮だそうです。
この、豊島郡も秦氏の地といわれますし服部(はっとり)というのも渡来氏族ゆかりのクレハトリ(呉服)からきているといいます。
母・藤子と秦氏には関係があってもおかしくないようですね。
こうした、おふたりから生まれた最澄だからこそ大山咋神を地元神として祀りながら
大山咋神ゆかりの比叡山に天台宗を開くことができたのかもしれません。
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