Facebook澤江 昌範さん投稿記事 〜 逆手の法則 〜
仏教のなかには、「托鉢(たくはつ)」という行があるりますね。
笠をかぶったお坊さんが、手に鉢をもって家々を回り、お布施を頂くという行です。
お釈迦さまは、托鉢に向かうお弟子さん達に、こう言っていたそうです。
「お金持ちの家ではなく、 貧しい人達の家を回って 托鉢をしてきなさい」
普通に考えれば、お布施をいただくのですから、お金持ちのところに行くのが常識かと思いますが、お釈迦さまの思いは別のところにあったようです。
『貧しい人がなぜ貧しいのか?』
それは、自分のためにしかお金を使わないからで、その人たちに「与える喜び」を味わってもらう機会を生みだすのが、托鉢の真の目的だそうです。
こういうお話しがあります。
「神社のご神体が鏡なのは、なんでだと思いますか?」 鏡は、『この世界はすべて逆なのだ』ということを教えてくれているんだそうです。
鏡に映すと、右と左が逆になるように。
神社では、お願いをしにくる人の願いが叶うんじゃなくて、神様の願いを聞きにきてくれる人の願いが叶うんだそうです😃逆なんだそうです。
神社で売られているお守りも。
お守りに守ってもらおうと頼る人が守られるのではなく、このお守りを守ろう守ろう、大切にしようと思う人が守られる。
逆なんだそうです。
神様の願いを聞きにきてくれる人というのは、自分の願いだけを言いに来る人ではなく、みんなの幸せを願いにくる人なんだそうです。
だから、本来神社では、「神様のお手伝いができますように。 日本が、そして世界が少しでも良くなるように挑戦しますから」こう祈ると良いそうです。
反対が多いんですネ!そして表裏一体なんですネ!☺️
https://coubic.com/life-flow/blogs/213722 【神社の御神体が「鏡」である理由=私が「お詣り大好き!」なワケ】より
神社の御神体が「鏡」である理由=私が「お詣り大好き!」なワケ
私は神社仏閣にお詣りさせていただくことが大好きです。
夜行バスに乗り、ホテルが取れない時はネットカフェに泊まってでも、参拝に行くことがあります。
「あ~、パワースポット巡りね」と思う方もおられるかもしれませんが。。。
私、神社仏閣を「パワースポット」と呼ぶのは好きではありません。
確かに、神様・仏様をお祀りしている場ですから、素晴らしいパワーが満ちています。
ただし、そのパワーをいただく器が自分の中になければ、体調を崩すことも大いにあり得ます。
私が神社やお寺に惹かれて止まない理由は
その場所を大切にしてきた「人間」の想いが折り重なっているから。
「お詣りさせていただきます」と、ご神域に足を踏み入れた瞬間から
その土地の空気や、その場を美しく保ってきた人たちの想いに包まれ、
安らぎ、畏怖、感謝の念が涌きあがってきます。
それは純粋に「ことばにできないほど心地よくて、幸せ!」な体験なのです。
私には、特別なものが見えたり聞こえたりする力はありません。
沖縄という地で育った私は、子どもの頃から
そういう力は「神に選ばれし者」がだけが授かるもので
私は「神に選ばれなかった者」なのだと思っていました。
(ここに私の自己卑下意識や罪悪感の原点と、泥沼のドラマの種があるのですが、そのお話はまたいつか)
でもね。今は、特別な力を持っていないって
実は天から、ものすごい自由を与えられているのだと、しみじみ思うのです。
だって「天の声」がはっきり聞こえてしまったら、スルーできないでしょ。
先月も、こんなことがありました。
新橋にある、日比谷神社にお詣りしていた時でした。
その時の私は、自分がどこに進んでいけばよいのか全く分からなくて
他に誰もいない本殿の中で手を合わせながら
「私はどうすればよいのでしょうか」と30分泣き続けました。
泣き疲れて、ふと顔を上げると
ご神体の鏡に映る自分の姿が目に入りました。
「かがみ」がご神体とされているのは、
「真ん中の“我”を自分がなくせば、そこに映るのは“神”。だから我を捨てなさい」
というメタファーなのだと、私は教わってきました。
❖図にすると
か__み
我
でも、人間である以上、我を完全に捨て去ることなどできないと
心理学を学んで知った私は、いつもモヤモヤとした感覚を感じていたのですが
❖もしかしたら
か(我)み
とも言えるのではないかしら?と、ふと思ったのです。
「我」の塊である私でも、神様はいつも受け容れ、守ってくださっている。
「我」があったって、いいんだよ。
捨てられるわけないでしょう、人間なんだから。
こちらは、初めからそんなこと期待していませんよ。
神様にしたら、そうなのかもしれない・・・
もう一度、手を合わせて鏡の奥の神様にお辞儀をすると
鏡の中の私も、こちらにお辞儀をしています。
あぁ・・・私、神様からお願いされてる。
「肉体を持つあなただからできることがあります。頼みますね」
そう託され、感謝されている。
そう感じたら、有り難くて有り難くて。
またわんわん泣きました。
天の声が聞こえない私には、どちらが正しいかはわかりません。
けれど「こっちじゃなきゃダメ!」と言われたのでないなら
好きな方を選んだっていいじゃない。と思えるようになってから
ものすごーく、楽になりました。
「天の啓示」なんて崇高な感覚ではなく
なんとなく、そんな気がする・・・くらいのもの。
私は、それでいい。
「私は全然特別な人間じゃないけど、天から愛されている存在なんだ」
そう心から思えることが、“見えない力”となって背中を押してくれるのだと
自らの体験が教えてくれたから。
それにね。
天の声が聞こえる方たちのセッションを、毎月のように受けた時期もありましたが
他人経由で伝えられるより、結局私は自分自身で感じたかったんですよね。
我がすごく強いもので(笑)
https://ameblo.jp/hunbo1/entry-12202864080.html 【か我みと鏡】より
神社の境内の真ん中には鏡がありますね?鏡は、ありのままの姿を映し出すものです。
神道の本質は「鏡」にあるとも言われています。
日本には「鏡岩」と呼ばれる巨石がご神体となっており、反射した太陽の光を神さまの 御光として拝んでいる聖地(日吉大社の金大巌など)があります。
それが平野に降りてきて、鏡として祭るようになったのでしょう。
神社の丸い神鏡は太陽神を、その台(雲形台)は雲を表しています。
神話では、太陽神である天照大御神が、岩戸から外を覗いたときに自分の姿を鏡で映し 出されたことで、自分の神性の貴さに気づくシーンがあります。
同じように私たち人間ひとりひとりにも、貴い自分の太陽があるのです。
神社の社殿の鏡は、参拝する人自身の姿を映し出すとともに、その人の自分の中にある神 (自分自神)を思い出し、自覚する場所でもあるのです。
自分が神であることを自覚するには、鏡「かがみ」の真ん中の「が(我)」をとることだ と言われています。
ここでいう「我」とは・・・、 「自分だけが」というふうに周りと自分に分離感を生じさせたり、自分への過大評価 (特別意識)や自分を卑下したりすることです。
ですから、「我をとる」というのは、そのままの素直な自分を認めることであり、つまり、 自分らしさをとるということではなく、むしろ、自分は貴い存在であるとともに、周りも 貴い存在であることを認め、すべてはつながっていると感じる境地です。
これを言葉に表すと、ただ「ああ~ありがたい!」と、思えることでしょうか・・・
たとえば、神社でお参りさせていただいた後、心地よくなり、「有難いな~」と、 感じておられる人は、その瞬間だけは「神」の心になっています。
神社に鏡があることは、外なる神さまを拝んでいるようにみえて、実は鏡に映った内なる 自分自神を拝んでいるということに気づけば、自ずと拝み方も分かってきます。
要するに、発した祈りが、そのまま自分に返ってくるということですから。
無理ある祈りには、無理なる人生が。
笑顔で祈ると、笑顔の人生が。
不満の祈りには、不満の人生が。
感謝の祈りには、感謝の人生が。
と、いって、本音ではない祈りをしても、自分の神さまを通じて、神社の神さまにも情報が 漏れており、すべてお見通しなので嘘は通用しません。
では、 上手くいかないときや落ち込んでいるときは、どうすればいいの?
そういうときは、神さまからみれば、「今は学びのとき、成長せよ!」 と、いう時期なので、じたばたせず、「気づき、学ばせていただきます」と、腹をくくって、今できることをすることです。
それとともに、どんな状況であれ、生きていることに感謝し、言葉にします。
具体的には、自分の中に光の存在である「自分自神」がおられることを信じ、手を合わせて、自分自神に向かって、「ありがとう・・・」と何度もねぎらいと感謝をこめて、気の済むまで言い続けます。
そして、自分の身勝手や傲慢、卑下、思い込み、やり過ぎで、自分自神を傷つけ、弱らせてしまったことに「ごめんなさい・・・」と、心に響くまで謝ります。
「ありがとう」は、感謝の言葉ですが、謝る「ごめんなさい」も感謝に通じます。
この2つの言霊は「自分自神」を元気にして、輝かせることができるだけでなく、肉体で ある「自分自身」をも健康にしてしまうので一石二鳥です。
「自分自神」と「自分自身」が元気で輝けば、笑顔と感謝、賛美の神社参拝が自然と できるようになるので、発した祈りのエネルギーに神社の神々の応援が加わって数倍になって返ってくるでしょう。
鏡、か我み、我、自分自神、しん、心(神)、親(神)、身(神)、森(神)日本人は八百万の神といって色々なところで神の存在に触れながら生きてきたのです。
ひふみ塾さんより転載
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