http://www.basho.jp/senjin/s1003-1/index.html 【大津に至る道、山路をこえて
山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉(野ざらし紀行)】より
山路をたどると、ふと路傍に紫色のすみれの花が咲いている。ひっそりと春を告げるその姿がどことなく慕わしい、という意。貞享二年(1685)の成立と思われる再稿本『野ざらし紀行』の素堂序文は「山路来ての菫、道ばたの木槿こそ、この吟行の秀逸なるべけれ」と高く評価する。初案は熱田の白鳥山法持寺で詠んだ「何とはなしになにやら床し菫草」(『皺筥物語』ほか)であった。
『去来抄』の同門評に次のような応酬がある。 湖春曰く「菫は山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧みなりといへども、歌学なきの過ちなり」。
去来曰く「山路に菫をよみたる証歌多し。湖春は地下の歌道者なり。いかでかくは難じられけん、おぼつかなし」。
北村季吟の長子湖春がいうように、「春の野に菫摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける」(赤人・万葉・巻八)以後、、すみれは野において詠むものとされる。これに対し、去来が(証歌多し)と反論し、支考も元禄五年(1692)の『葛の松原』で同じ主張をするが、証歌の数は必ずしも多くはないようで、諸注は大江匡房の「箱根山薄紫のつぼすみれ二しほ三しほたれか染めけん」(堀河百首)をあげる程度である。この句の新鮮さはそうした和歌伝統を離れて、すみれを山路に発見した点にあるのではなかろうか。
早春の一日、箱根路を訪ねた。箱根旧街道の正眼寺に「山路きて」の句碑がある。明和四年(1767)の建立。資料によれば全国に約四十六基あるとされる「山路来て」の句碑の中で最も古いものである。解説に、明治元年(1868)の戊辰の役の際の箱根山崎の合戦でこの寺が全焼した時、碑面が剥落したとあるとおり、句は判読がむずかしい。しかしこの句碑の傍らに立つと、大津と箱根の違いはあるものの、なぜか山路ですみれを見つけた芭蕉の喜びが伝わってくるような気がする。和歌伝統の本意から解放されて、身のうちにわきたつ感動、山路のすみれの、健気でひたむきな生命力が芭蕉の心をとらえたのではないだろうか。谷地先生が『俳句教養講座 第一巻』(角川書店)の「俳句的ということ」に述べている。俳句を成り立たせている多くが俳句独自の規則でも心得でもないことを確かめて、さて新たに 俳句的とは何かと問うとき、残る選択肢は心である。読み込まれている主題である。心という ものの存在を誰も疑わない。だが、それは目で見ることも、耳で聞くことも、手でさわることも できず、常に断片的で、非論理で、風船のように膨らんだり縮んだりして、生まれては消え、消えては生まれ続けている。詩はその心を規範的な言葉ですくい取るところに芽生える。間もなく箱根路にも、すみれ、たちつぼ菫などがいたるところに咲き出すころである。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519944172.html 【山路来て何やらゆかし菫草】より
○大津に於ける芭蕉の句を集めた「芭蕉翁の大津での句~八十九句~」を読むと、面白い問題がいくらでも出てくる。とても全部を考えることは出来ないので、二、三気になるものだけを取り上げて紹介したい。
○義仲寺でいただいた、「芭蕉翁の大津での句~八十九句~」の最初は、次のように案内されている。
【貞享二年乙丑(1685年) 芭蕉四十二歳】
1)何とはなしに何やらゆかし菫草 後に、山路来て何やらゆかし菫草
○ここには、私たちが普通、『山路来て何やらゆかし菫草』の句として、目にする句が紹介されている。スミレに関する芭蕉作句を、岩波日本古典文学大系本「芭蕉句集」では、
【 菫 】
192 山路来て何やらゆかしすみれ草 「甲子吟行」
白鳥山
何とはなしになにやら床し菫草 「皺筥物語」(熱田三歌仙)
何となく何やら床し菫草 「三冊子」
悼呂丸
193 当皈よりあはれは塚の菫草 「泊船集」(笈日記)
とする。念の為に、岩波日本古典文学大系本「芭蕉文集」の中にある「甲子吟行」をみると、
大津に出る道、山路を越て
やま路来てなにやらゆかしすみれ草
とある。だから、この句は、最初、初案が「何とはなしになにやら床し菫草」であって、「皺筥物語」の熱田三歌仙で発句として詠まれたものであったことが判る。それを芭蕉は再考して、「甲子吟行」に、『やま路来てなにやらゆかしすみれ草』として載せたと思われる。
○菫は古くは万葉集以来、延々と詠み続けられている歌題である。しかし、それは、例えば、
春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける
(万葉集:巻八:春:1424:山部赤人)
とあるように、「春の野に」歌うのが定型であった。それをわざわざ「山路」に詠むところが如何にも芭蕉らしい。
○しかし、「甲子吟行」の前書きにあるように、
大津に出る道、山路を越て
とするのであれば、芭蕉には、特別の思いがあって、『なにやらゆかし』と詠じるのであろう。
○京都から山路を越えて近江に出るには、逢坂の関を越えなくてはならない。古来、逢坂の関ほど、文学や歴史に彩られたところも少ないのではないか。
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言
○記録にあるように、芭蕉に最初に、この句案が浮かんだのは熱田の白鳥山だったのだろう。しかし、芭蕉はそれを再考し、推敲を重ねて、
大津に出る道、山路を越て
山路来て何やらゆかし菫草
とし、逢坂の関での句として昇華させたのである。『なにやらゆかし』の表現には、もちろん十分な普遍性があるのだが、それでは芭蕉は全く満足出来ないのである。実際、芭蕉が山科から大津へ歩いて越えたのは、小関越えで、逢坂関の間道であるらしい。
○芭蕉にとって、歌枕は大事な要件であった。そのために彼はわざわざ半年も掛けて奥の細道の旅に出掛けている。
山路来て何やらゆかし菫草
句を、題詞に拘泥せず、そのまま鑑賞することも結構だが、おそらくそれは、芭蕉の本意ではあるまい。芭蕉は、『山路来て何やらゆかし菫草』を、歌枕『逢坂の関』と合わせることで、新境地を開拓することを試みたに違いない。
○「甲子吟行」は、別名「野ざらし紀行」、あるいは「草枕」とも言い、貞享元年(1684年)の俳諧紀行文で、芭蕉最初の紀行文でもある。その後、鹿島紀行・笈の小文・更科紀行を経て、奥の細道が誕生することになる。その「甲子吟行」に、歌枕と俳諧を結びつけようとする嚆矢が見られることは注目に値する。
○それでは、歌枕『逢坂の関』で感じられる『何やらゆかし』とは、何だろうか。それは猿丸大夫であり、大伴黒主であり、蝉丸であり、衣通姫であり、小野小町であることは言うまでも無かろう。
奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき
思ひ出でて恋しきときは初雁の鳴きて渡ると人知るらめや
これやこの行くも帰るも分かれつつ知るも知らぬも逢坂の関
我が背子が来べき宵なり細蟹の蜘蛛のふるまひかねて著しも
侘びぬれば身を浮き草の根を絶えて誘ふ水あらば往なんとぞ思ふ
○謡曲「関寺小町」や「草子洗」などで、歌枕『逢坂の関』は、おどろおどろしい世界として活写されている。それとまるで正反対に、かわいい菫草を逢坂の関に対峙する芭蕉の手腕は、天晴れと言うほかない。それに、それを、平然と、『何やらゆかし』と表現する芭蕉は、何とも恐ろしい男である。
○判るように、芭蕉の俳諧は決して生易しいものではない。俳諧がその場面を失ったら、どんなことになるか。それは顔の無い人形と同じである。『山路来て何やらゆかし菫草』句は、その恐ろしさをまじまじと我々に教えてくれる。
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