http://rinnou.net/cont_04/zengo/080602.html 【上善若水】より
(老子)じょうぜんはみずのごとし『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より
「上善」とは最上の善、ここでは最上の善をそなえた人、即ち道に達した人。「衆人の悪む所」とは多くの人が皆な嫌がる所、即ち水が落ち込む場所。「道」とは老子の教えの中で云う、万物の本源的なもの、即ち万物の真実です。禅で云えば究極の悟りです。
道に達した人は水のようなものです。水は巧みに、すべてのものに恵みを施し、しかもすべてのものと争わず、多くの人々が嫌う場所に好んで就こうとします。まさに水こそ「道」の本源であると云うわけです。「上善は水の若し」とよく政治家が揮毫きごうしますが、恐らく政治は弱き者(衆人の悪む所)の味方だと云うのでしょうか。
また、水は四角の器に入れば四角に、丸い器に入れば丸に、自由自在に柔軟性を発揮してそのものに成りきります。しかも、四角から丸に移したからと云って、四角の角は残しません。優れた禅者も何時、
何処どこ、何事においても、その場その場の境に成りきって、跡を引きません。怒る時は徹底怒る、悲しむ時は徹底悲しむ、仕事の時は徹底仕事、遊ぶ時には徹底遊ぶ、その辺の消息を汲んで禅家はこの語を珍重します。
水と云えば、「水みず五ご則そく」というものがあります。
戦国時代の武将、黒田孝高よしたか(1546~1604)は播州姫路の生まれで、はじめ小寺家に仕えます。織田信長の覇権が播州に及んで、旧知の荒木村重の反抗を翻意させるべく、単身、村重の居城伊丹有岡城へ赴きますが、捕らえられ城内の地下牢に幽閉されます。その牢は水気が多く、頭にはかさ・・が出来、脚の肉が落ち、皮膚病の為、右ひざが腐り、惨憺たる状態を強いられます。しかし牢内を流れる一条の水に生き抜く力を与えられます。
岩もあり 木の根もあれど さらさらと
たださらさらと 水の流るる (甲斐和里子)
水は高きから低きに無心にさらさらと流れて行きます。前途に如何いかなる障害物があろうとも、自在に流れを変え、信じられないような大きな力を発揮して、岩をも削り取って流れて行きます。毎日毎日その流れを見る事によって、普通なら二、三ヶ月で死んでしまう所を一年間も生き抜き、豊臣秀吉に救われます。これより、水の如く生きるべく、「如水じょすい」と号し、「水五則」を掲げて、自分の座右の銘とし、ついに黒田五十万石の大名になります。その「水五則」です。
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり――他を指導する為には、自ら実践すべきである。
二、つねに己れの進路を求めてやまざるは水なり――自らの進路をいつも求め続ける積極性を持つべきである。
三、障害にあって激しくその勢力を百倍し得るは水なり――少々障害に当たろうとも力を落としたり、落胆すべきではない。
四、自ら潔うして、他の汚濁あわせ容るる量あるは水なり――どんなものでも受け入れる大きな度量を持つべきである。
五、洋々として大海をみたし、発しては雲となり、雨雪に変じ、霧と化し、凝っては玲瓏れいろうたる鏡となり、しかもその性を失わざるは水なり――何時でも、何処でも自分の信念だけは変えるべきでない。
水の如くに生きれば、まさに禅の悟りに通じます。
http://www.roushiweb.com/category1/entry6.html 【水こそ理想の生き方!】より
いつでも蛇口をひねれば水が出てくる。
そんな便利な環境に慣れている私たち日本人にとっては、水はいつでもあるのが当たり前。
まじまじと、その動きに注目して見る機会も少ないのではないでしょうか?
しかし、赤ちゃんに水を見せると、非常に強い興味を示します。
実体があるようでいて、手にはつかめない。
そんな水の流れを見て首をかしげ、手を伸ばしてその感触に驚き…。
確かに、改めて考えてみると“水”とは不思議な物体ですよね。
老子は、この“水”に理想の生き方を見出していました。
水は、柔らかくしなやかでありながら、一方では硬いものを穿つ強さも持ち合わせていますよね。
しかも、万物に恵みを与え、争うということなく低いところに留まろうとします。
(水は高い所から低い所に向かって流れますよね)
そんなしなやかさと粘り強さこそ、“究極の理想”だと言うのです。
“最上の善”とは?「上善如水」(上善は水の如し)
老子は、現代でも語り継がれる様々な名言を残した人物として知られていますが、最も馴染みのある言葉が、この「上善如水」ではないでしょうか。
もっとも、お酒の銘柄としても使われていますので、「飲み屋でよく耳にする」という方も多いかもしれませんが(笑)。
この「上善如水」という言葉通り、老子は、“水”に「最上の善」というものを見出していました。最上の善とは、争いを避けて生きること。
…というのも、老子が生きた時代(紀元前6世紀~紀元前4世紀)の中国は国同士の争いが絶えず、争うことで利を得ようという生き方が一般的だったからです。
当時は誰もが、「人よりも上に行こう」「人を蹴り落としてでも上を目指そう」
…そう躍起になって戦っていたことでしょう。
そんな時代にあって、老子は、
「人と争わず、常に低いところに留まりなさい。まるで水のように」
…と、生き方の見本として“水”を挙げているわけですね。
ちなみに老子が考える理想の生き方とは、具体的には次のようなことです。
「住まいはしっかりとした土地の上がよく、物の考え方は奥深いのがよく、
人との交わりでは情の深いのがよく、言葉は誠実であるのがよい。
政治はよく治まり、事の処理能力は高いのがよく、行動は時を誤らないのがよい」
いずれも、現代にも通ずるところがありますよね。
理想論といえば理想論なのですが(苦笑)
「競争しない」という生き方のススメ
「上善如水」や「無為自然」という言葉によく表れていますが、老子の基本的なスタンスは「競争しない」ということ。
ともすれば私たち現代人は、「競争から降りて生きる」=負けを認めることと捉えがちですが…。
老子によれば、水のように「争わず、低きところに留まる」生き方こそ堅く強いものに打ち勝つことができる秘訣なのだとか。
弱さに徹した水の性質を変えさせるものはない、だからこそ、水に勝るものはないのだと言います。
確かに、水は、その流れの力で少しずつ大きな物(土石)を動かすこともできますし、山を侵食することも、岩に穴を開けることもできますよね。
流れに触れても、手には何も残らない。それなのに、何にも勝る力を秘めている。
やわらかでしなやかでありながら、実は何よりも強い!
そんな“水”のような生き方ができれば、向かうところ敵ナシかもしれませんね。
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